エピローグ 彼女が見つかった日
「……はぁ」
昼休み前。廊下の片隅で、烏丸さんは途方に暮れたようにぽつりとため息を漏らしていた。その胸元には、お馴染みのコンビニの袋が大切そうに抱えられている。
「どうしたの、烏丸さん」
声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らし、長い前髪の隙間から申し訳なさそうに俺を見上げた。
「あ、一ノ瀬、君……。その、佐藤くんが……昼休みは女子トイレに入るの禁止って……」
「そりゃそうだよ」
俺は即座に突っ込んだ。
烏丸さんはさらに小さくなって俯いてしまった。
「じゃあ私、どこでご飯食べればいいのかなって……」
ああ、そうか。
彼女にとって女子トイレの個室は、孤独な怨念を熟成させる魔窟であると同時に、学校内で唯一、誰の目も気にせずに息ができる「居場所」でもあったのだ。それを禁止された結果、彼女は今、広い校舎の中で完全に行き場をなくしてしまっていた。
「……じゃあ、俺と一緒に部室で食う?」
「え?」
「別にいいだろ。烏丸さんも、もうオカルト部員だし」
俺が何気なく提案すると、烏丸さんは大きな目を丸くしたまま、しばらく彫刻のように固まってしまった。そして、自分の思考を整理するように何度か瞬きをした後、こくんと小さく頷いた。
二人で並んで廊下を歩いていると、すれ違いざまにクラスの女子の一人が足を止め、振り返った。
「あれ?烏丸さんじゃん?」
烏丸さんの肩が、目に見えてびくりと跳ねる。
「え……」
「久しぶりに声聞いたかも。じゃあねー」
女子は普通にひらひらと手を振り、笑顔で去っていった。
それだけの、本当に何気ない、クラスメイト同士のありふれた会話。
それだけなのに、烏丸さんは、まるで世界が真逆の方向にひっくり返ったかのような、信じられないものを見た顔をして立ち尽くしていた。
相手が普通に、ごく自然に話しかけてきた。
ただそれだけの事実が、彼女の心を激しく揺さぶっているのが、隣にいる俺にも痛いほど伝わってきた。
さらに廊下を歩くと、今度は、購買帰りの別の女子がこちらに気づいた。
「あ、烏丸さん。こないだ、あのプリント回してくれてありがとう。助かったわー」
烏丸さんは再び目を丸くした。
「覚えてたの……?」
「そりゃ覚えてるよ。何言ってんの、じゃあね!」
女子は笑いながら早足で去っていく。
烏丸さんは、しばらくその背中を呆然と見送っていた。
「……なんか、今日いっぱい話しかけられる」
「まあ、俺のせいだろうな」
「え?」
「俺はほら、悪い意味で学校中の注目の的だから」
朝のネットニュースのせいで、今の俺は校内を歩くだけで「生ける不審者」として嫌でも目立つ。必然的に、俺のすぐ隣を歩いている烏丸さんにも周囲の視線が集まり、結果として今までクラスの空気だった彼女の存在に、みんなが気づく。
社会的信用を更地にした俺の悪名が、まさかこんな形で役に立つとは驚きである。
部室に到着した後は、俺は弁当を、烏丸さんはツナマヨおにぎりを静かに平らげた。
その後、教室に戻り、五時限目が始まる直前の教室で、放課後の部活のことについて自分の席に戻った烏丸さんと話をしていた。
すると、俺が間近に迫ってきたことを察知した女子グループが、嫌そうにサッと距離を取る。
――が、その弾みで、彼女たちの視線が俺の陰に隠れていた烏丸さんへと向けられた。
話題が、唐突に変わる。
「あれ?」
中心にいた女子が、不思議そうに首を傾げた。
「烏丸さんって、クラスLINE入ってたっけ?」
烏丸さんは、ビクつきながらも小さく首を振った。
「入ってない……です」
その瞬間、教室の空気がピキリと凍りついた。
「え?なんで?」
「知らない……」
女子たちの顔から一気に余裕が消え、猛烈な勢いで慌て始め、スマホを叩き出す。
「待って!待って!誰か招待したと思ってた!」
「私も! 誰か別のグループのハブの子がやったのかと!」
「え!? 誰もしてないの!?」
烏丸さんは、ただ黙ってその大騒ぎを見つめていた。
ずっと、自分はクラスのみんなから嫌われ、あえて仲間外れにされているのだと思い込んでいた。だから女子トイレに引きこもっていた。
でも、違った。
誰も彼女に対して悪意なんて持っていなかった。
ただ全員が、「誰かがやっただろう」と思い込んでいた。
その結果、誰もやっていなかった。ただの、あまりにも呆気ないボタンの掛け違い。
一人の女子が、慌てるのをやめて烏丸さんの顔を覗き込んだ。
「ていうかさ、烏丸さん、前髪長すぎない?」
烏丸さんが完全に硬直する。
「え……?」
「目、全然見えないじゃん。ちょっと貸して」
「ええっ!? いや、でも……」
抵抗する間もなく、女子たちの手が烏丸さんの髪へと伸びる。数分後、ヘアピンで前髪を軽く横へと流された烏丸さんが、そこに座っていた。
「…………」
刹那、女子グループが、静まり返るようにガチで固まった。
「……え?ちょっと待って、ムチャ可愛くない?」
「え、何これ、美少女じゃん!なんで今まで隠してたの!?」
長年のコンプレックスの前提が崩れ去り、おまけに急にベタ褒めされ始めた烏丸本人が、一番頭の上に疑問符を浮かべて大混乱している。
そして、その一連の導火線に火をつけたはずの俺はというと、いつの間にか完全に存在を忘れ去られ、ただの背景の空気へと変わっていた。
さらに授業が始まると、今度は自分たちの席に座った男子たちが色めき立ち、教室内は異様なざわつきに包まれることになった。
「おい、あれ烏丸さんだよな?」
「え、マジで?なんか印象全然違くないか……?ていうか、ちゃんと顔を見たの初めてかもしれん」
「あー……言われてみれば俺も。――あんな顔だったんだな」
四方八方から飛んでくる好奇の視線に耐えきれなくなったのか、烏丸さんは顔を赤くして小さく身を縮めていた。
俺はというと、午前中の社会的死と精神的疲労が臨界点を突破し、周囲の喧騒を完全に遮断して、自分の机に泥のように突っ伏したまま、前髪と腕の隙間からその光景を覗き見ていた。
◇
放課後。夕焼けに染まる校舎を、俺たちは再びオカルト部の部室へと向かって歩いていた。
烏丸さんが、隣でぽつりと小さく呟いた。
「私、無視されていると思ってた……」
俺は、少しだけ考えてから言葉を返した。
「たぶん烏丸さん、今までみんなに見つかってなかっただけだよ」
烏丸さんは静かに黙り込んだ。ヘアピンで留められた前髪の奥、ほんのり赤くなったおでこを隠すように俯き、だけど、少しだけ嬉しそうに唇を綻ばせる。
――その時、後ろから、ドタドタと騒がしい足音と共に、容赦のない女子たちの声が響き渡った。
「烏丸さーん!」
烏丸さんが慌てて振り返る。
「は、はい!」
「一ノ瀬には気を付けてねー!そいつ、マジで変態だから!」
「ぶっ!!」
俺は夕焼けの廊下で盛大にむせた。
せっかくの雰囲気が一瞬で瓦解する。
烏丸さんが本気で困惑して首を傾げると、女子たちは笑いながら指を折って数え上げだした。
「そう! わが校の超危険人物!」
「チア部の着替え覗き!」
「カラオケ乱入、裸で熱唱!」
「おまけに一昨日は女子トイレ侵入の現行犯だからね!」
ハハハ、と女子たちの愉快そうな笑い声が、真っ赤な夕焼けの廊下に木霊していく。
烏丸さんは、やっぱり状況についていけないといった様子で首を傾げたまま、ぽつりと言った。
「でも……優しい人なのに」
「ありがとう。でも、お願いだからやめてくれる?」
ここまで社会的信用が更地になっていると、彼女の純粋で優しい言葉は、逆に俺の弱った心に深く刺さって致命傷になりかねない。
遠い目をして項垂れる俺を見て、烏丸さんは不思議そうな顔をした。彼女はまだ、この学校のカーストや、自分の身に起きた急激な環境の変化についていけていないのだ。
「なんか……変な日だった。私、ずっと、独りぼっちで嫌われてると思ってたから……」
その言葉を聞きながら、俺は何気なく烏丸さんの姿を見ると、昨日まで、彼女の周囲を文字通りドロドロと包み込んでいた、あの濃密な黒い靄が消えていた。
昼休みになるたびに女子トイレの個室で熟成され、佐藤をして「呪術師として優秀」と言わしめるほど安定していたあの強大な「ぼっち飯の呪詛」。それが、綺麗さっぱり消滅している。
「へえ……、呪詛の残滓、全くなくなっちゃったね」
俺が驚き半分で言うと、烏丸さんはきょとんと目を丸くした。
「そうなの……?」
「昨日まで、そこらへん真っ黒だったぞ。佐藤に見せたら驚くだろうな」
ふっと、軽い笑いが漏れる。
呪詛は、ほんの少しのきっかけで世界の見え方が変わり、ほんの少しだけ心が救われれば、それだけで綺麗に消えてしまうものなのだろう。
「行こうか、烏丸さん」
前髪を流した美少女は、もう怯えるように背を丸めることもなく、嬉しそうに俺の隣を歩く。
俺たちは、夕暮れのオカルト部室のドアに、迷いのない手をかけた。
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