密室のマッスルソング――『オレ・俺・マッスル』
俺はコンビニの前で立ち尽くしたまま、震える手でもう一度佐藤に電話をかけた。
数回のコールの後、ガチャリと再び電話に出た佐藤に、俺は怒りを通り越した悲鳴のような声をぶつける。
「佐藤! ギャルだけじゃなくて、怪異も見えているだろ! 俺一人でどうしろっていうんだ!」
受話器の向こうから、佐藤の至極冷静で真面目な声が響く。
『遠目で見たけど、その怪異は彼女のダウナーな精神を好む。つまり、君が彼女の精神を好転させれば、勝手に離れていくよ』
「どういうことだ?」
『つまり、一ノ瀬君がそのパンク系ギャルを爆笑させればいいんだ! 簡単なことだよ、頑張れ!』
「おい、ちょっと待っ――」
ツッ、ツッ、ツッ……。
こちらの反論を許さず、通話はバツンと非情に切られた。
あいつ、自分が安全圏にいるために、恐ろしいほどのむちゃぶりをキメてきやがる。
「お兄さん、どうしたの?」
呆然とスマホを見つめる俺に、ユナが不思議そうに声をかけてくる。俺は喉の奥まで出かかった愚痴をなんとか飲み込み、力なく答えた。
「……祓い方が分かった。彼女を笑わせればいいらしい」
俺がそう言った瞬間、ユナの顔がパッと明るくなった。
「じゃあ簡単じゃん! 今からよっちゃんのために三人でカラオケ行くよ!」
「は? いや、カラオケは――」
俺の都合や拒絶反応など一ミリも気にしない、ギャル特有の圧倒的に強引なノリ。それに完全に押し切られる形で、俺たちは駅前のカラオケボックスの密室へと連行される羽目になった。
部屋に入った瞬間、チカチカと明滅するサイケデリックな室内照明が、俺の不安をさらに煽る。
対面に座る他校のパンクギャルのよっちゃんは、ユナの陽気さに引っ張られてここまで来たものの、首のチョーカーをいじりながら「マジだるい、消えたい」とダウナー全開でソファーに深く沈み込んでいた。
その背中には、あの精神怪異がべっとりと、文字通り泥のようにへばりついている。
ユナが選曲デンモクの画面を叩いて、次々と曲を入れていく。アップテンポな最新の流行曲が流れ、ユナとよっちゃんで歌い始めた。だが、よっちゃんの病み期メンタルはピクリとも動かない。背中の怪異は、むしろ彼女の陰鬱な空気を吸ってじわじわと肥大化しているようにすら見えた。
このままでは不味い。怪異が完全に彼女を侵食してしまう。
俺は意を決して、ソファーから立ち上がった。
「……デンモク貸してくれ。俺が歌う」
「え、お兄さん歌うの? ウケるんだけど」
(……その『ウケる』ってやつ、マジでやめてくれない? 聞くたびに俺のハートがさくさく削られるんだけど)
俺は心の中で涙を流しながらも覚悟を決め、男のプライドのすべてをドブに捨てて、ある曲を入力した。
スピーカーから流れ出したのは、地響きのような重低音と、おそろしく気の抜けた電子音。
陰キャの俺が、人生で一度も人前で歌ったことのない、究極の電波コミックソング――『オレ・俺・マッスル』。
「朝目が覚めたら プロテイン! 炭水化物を恐れるな 脂質を憎め 肉を愛せ!」
顔を真っ赤にし、汗だくになりながら、俺は狭い部屋中に響き渡る声で絶唱する。
死ぬほど恥ずかしくて今すぐ消え去りたかったが、俺の霊感は、よっちゃんの怪異が確かに離れ始めているのをしっかりと捉えていた。
「バルクアップ! トレーニング! いま可動域の限界を超える――」
効いている。
だが、あともう一押しが足りない!
「ウオオオ! オレ、オレ、マッスル! 俺、マッスル! はい!ドカーン!!」
使命感からくるパニックと極限の恥ずかしさに突き動かされ、俺は歌いながら、制服を勢いよく脱ぎ捨てて床に叩きつけた。
「ハイイイ! オレ、オレ、マッスル! 俺、マッスル! はい!ズドーン!!」
さらにシャツのボタンをブチブチと引きちぎりながら、一枚また一枚と、上半身の服を狂ったように剥ぎ取っていく。
「ギャハハハハハハ!! マジで神!!! お兄さん最高すぎるんだけど!!」
ユナが完全にツボに入り、ソファーで立ち上がってスマホのカメラをパシャパシャと凄まじい速度で連写し始めた。
だが、俺は脱ぐのを止めない。よっちゃんの背中の怪異は、もう輪郭がブレて消えかかっているのだ。
ここで引くわけにはいかない!
上半身裸になった俺は、渾身の力でボディビルのポーズをキメながらマイクに向かって、しゃくり顎で叫んだ。
「モゥスト マスキュラアアア!!」
そのあまりにも奇怪で、必死で、間抜けな「男気」の暴走を前に、ついにパンクギャルの鉄壁のダウナーが崩壊した。
「バカすぎwww マジで生きてる価値ないじゃんwww」
よっちゃんが涙目を浮かべて腹を抱え、文字通り大爆笑した。
彼女の精神が、どん底の闇から完全なるポジティブへと好転したその瞬間。
背中にべっとりとへばりついていた精神怪異は、俺の絶唱の残響に掻き消されるようにして、光の塵となって空間へ完全に消滅した。
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
顔を真っ赤にさせて汗だくになり、除霊が成功し、へとへとになって解放され、俺はカラオケボックスのソファーに崩れ落ちた。
「あんた、最高。マジで気に入ったわ」
さっきまでの鉄壁のダウナーが嘘のように陽気になったよっちゃんが、爆笑しながら、俺の剥き出しの肩をバンバン叩いてくる。
「てかさ、私らもうマブじゃん? スマホ出して、LINE交換しよ」
「は……?」
「え、よっちゃんマジ!?お兄さん良かったね、他校の友達できたじゃん!」
差し出される最新型のスマホと、キラキラしたギャル二人の笑顔。
やけに物理的な距離を詰めて座ってくる二人に対し、俺の心は完全に無だった。
生き残るためにプライドをドブに捨ててストリップした結果、なぜかパンクギャルの連絡先が手に入ってしまった。
それからしばらくして、カラオケ屋の外で二人と別れた。
だが、一人になった途端、凄まじい後悔がドッと襲ってきた。心も体も重い。
静まり返った夜道を歩く。シャツのボタンは全て引きちぎれており、夜風が剥き出しの肌に冷たく染みた。
俺はいったい何をやっていたんだ……。
満身創痍の身体を引きずって、なんとか我が家へと帰り着いた。
リビングの扉を開けると、そこにはソファーに寝転がってスマホをいじっている日和がいた。
「ただいま、日和……」
俺が消え入りそうな声でかけると、日和は画面からゆっくりと顔を上げ、冷酷極まりない、骨まで凍りつくようなジト目で俺を一瞥した。
そして、手元にあるスマホの画面を、すうっと俺の目の前に突きつけてきた。
日和のスマホ画面に映し出されていたのは、カラオケのサイケデリックな照明の中、顔を真っ赤にして必死の形相で汗だくになりながら、半裸になってシャウトしている俺の姿だった。
「……は?」
「ユナたちがいるカラオケに無理やり乱入してシャウトとか、マジで引くわ。キモすぎて鳥肌」
「ち、違う! あれは頼まれて――」
(ユナァァァァァァアアアアア!!!)
ユナには悪意はないのだろう。むしろ、あの場を盛り上げてくれた俺への最大級の賛辞として、単純に俺の除霊ストリップを面白コンテンツとしてグループLINEに共有したのだ。ただ、その前後の事情を一切説明していないせいで、俺はただの『ギャルのカラオケに乱入して脱いだ変質者』に仕立て上げられていた。
ブブッ、ブブッ。
絶望する俺のポケットの中で、自分のスマホが空気を読まずに震えた。
画面を見ると、さっき交換したばかりの『よっちゃん』のアカウントから、ポップアップ通知が届いている。
【よっちゃん:お兄さんマジ神wwwユナから動画もらったwwwうちのガッコのLINEでも共有したwww[爆笑スタンプ]】
外から内から、容赦なく押し寄せるギャルたちの包囲網。
だが、その結果として、俺の社会的信用は、再び跡形もなく綺麗にすり潰されることとなった。
日和は無言のまま、それ以上は一瞥もしない。
手元にあった炭酸飲料のブルをプシュッと開けると、そのまま自分の部屋へと戻っていった。
――ピシャリ。
冷たく閉まったドアの音が、静まり返ったリビングに虚しく響いた。




