【閑話】狩りに行く
アジトに届く薄っすらとした朝の光が、埃の舞う小部屋を優しく照らしていた。
「ん……ふぁ……あ、ご主人様……?」
目をこすりながら体を起こしたカータの鼻先を、香ばしい匂いがくすぐった。ピんと立った猫耳がピクピクと動き、眠たげだった瞳がパッと開く。
部屋の隅では、すでに身支度を整えたモルガンが小さな焚き火の前に腰かけていた。
「起きたか、カータ。朝飯だ」
「はいっ! あ……これ、昨日のスープですか?」
「ああ。昨日の夜に仕込んでおいた干し肉と薬草のスープだ。それと……これを温め直した」
差し出した木の深皿には、熱々のスープと、表面を軽く炙ったカチコチの干しパンが添えられていた。
昨晩のスープは一晩置かれたことで、干し肉の旨味と塩気がスープ全体に溶け込み、深い琥珀色に変わっている。モルガンが元・研究所の知識で選んだほんの少しの薬草が、朝の身体に優しい爽やかな香りを添えていた。
「いただきます……っ!」
カータは小さな両手でスープ皿を包み込み、フーフーと息を吹きかけてから口をつけた。
「んん……! 温かくて、体にじんわり染み込んできます……!」
「固いパンはスープに浸して食え。くたくたになるまで浸せば、喉を通る」
「はい!」
カータは炙って香ばしくなったパンをスープにじっくりと沈めた。パンが旨味たっぷりのスープをぐんぐんと吸い上げ、ずっしりと重くなる。それを口いっぱいに頬張ると、ジュワリとスープの旨味が溢れ出した。
「美味しい……! 朝からこんなに温かいものを食べられるなんて、夢みたいです」
「しっかり食っておけ。今日はこれから……アジトの外へ狩りに出るからな」
「狩り……ですか!?」
カータの耳がピクンと跳ね上がった。
「ああ。お前が昨日見つけてきてくれたワイルドタイムとガーリック草……あれを一番美味しく食べるための肉を獲りに行く。本物の魔物を仕留めるんだ」
「本物の魔物……! ご主人様のお手伝い、僕、精一杯頑張ります!」
自分の見つけてきた香草が最高のごちそうになるのだと知り、カータは小さな拳を握りしめた。尻尾が嬉しそうにパタパタと床を叩く。
「……無理はするな。お前は私の指示に従って、耳と鼻で気配を探ってくれればいい。……よし、完食だな」
「ごちそうさまでした!」
スープを最後の一滴まで飲み干し、ふんわりと頬を緩めるカータ。
小さな頭をポンと力強く撫でると、アジトの陰に立てかけてあった手入れ済みの長弓を手にとった。
「行くぞ、カータ。今日の晩飯は……とびきり豪華なものにするぞ」
「はいっ、ご主人様!」
温かい朝食で身体をしっかりと温めたふたりは、朝靄の煙る森へと静かに足を踏み出していった。
アジトの裏手に広がる鬱蒼とした森の中、私とカータは気配を消して潜んでいた。
「……耳を澄ませ、カータ」
小さく囁くと、カータは小さな両耳をピんと立て、頭を左右に動かした。猫人特有の優れた聴覚が、数十メートル先の湿った土を踏みしめる低く重い足音を捉える。
「……いた。ご主人様、あそこです」
カータが指さす先、茂みをかき分けて姿を現したのは、背中に岩のような頑丈な皮膚を纏った小型の魔物――岩鎧豚岩鎧豚だった。ブヒブヒと鼻を鳴らし、土の中の根っこを探している。
「よく見つけた。あいつの背中は岩のように硬いが、腹の皮膚だけは柔らかい。……見ていろ」
アジトの物置で見つけて手入れしておいた古びた長弓を引き寄せた。父に教えてもらったように弦の張り具合や矢の重心は完璧に調整してある。大柄な私が弓を引き絞ると、弦がギチ……と力強い音を立てた。無駄のないように美しく構える。カータは息を呑み、その姿を見つめる。
「生き物の命を奪うのは、娯楽でも暴力でもない。私たちが生きるためだ。だからこそ、一撃で、苦しませずに仕留める」
放たれた矢は、風を切り裂いて一直線に飛んだ。
バツン!
矢は正確に、岩鎧豚が首を上げた瞬間の無防備な喉元へと突き刺さった。魔物は短い声をあげる隙すらなく、その場に崩れ落ちる。脚が軽く痙攣し、やがて静まり返った。
「……あ」
カータが小さな声を漏らした。目の前で失われた「命」の重みに、一瞬息が詰まったように硬直する。
静かに弓を下げると、カータの隣にしゃがみ込み、その小さな肩に大きな手を置いた。
「怖いか?」
「こわい……ううん、怖くないです。ただ……さっきまで動いていたのに、急に静かになっちゃったから……」
「それが命だ。私たちが今日を生きるために、この肉をいただく。感謝を込めて、血の一滴、肉の一片も無駄にせず綺麗に処理するんだ。それが、命を奪った者の責任だ」
「……はい!」
カータは胸の前で小さな拳をぎゅっと握りしめ、強く頷いた。
二人で獲物をアジトへと運ぶと、モルガンは手際よく解体作業に入った。不必要な残酷さを排除し、研究者としての正確で丁寧な手つきでナイフを入れていく。
まずは首元から静かに血を抜き、命への敬意を払う。続いて、岩のように硬い背中の皮と柔らかい腹の境界線にナイフの刃をすっと滑らせると、綺麗に皮が剥がれていき、中から見事なピンク色の肉が現れた。特にバラ肉の部位は、白い極上の脂身が層を描いている。
「すごい……綺麗なお肉……」
最初は恐る恐る見守っていたカータだったが、私が無駄のない動きで骨と肉を切り分けていく真摯な姿を見て、引き締まった表情で手伝いを始めた。
「ご主人様! お肉、綺麗に取れました」
「よし、上出来だ。その脂は後で大事に使う。骨も捨てないぞ。じっくり煮込めば最高の出汁になる」
「はいっ…」
命への感謝と丁寧な仕事を経て、食卓の主役となる「岩鎧豚の肉」が準備された。
解体が終わると、アジトの隅に転がっていた頑丈な緑色の空き瓶を拾い上げた。かつてここで誰かが飲んでいたであろう、厚手の酒瓶だ。
「よし、次は肉を柔らかくする。カータ、この瓶で肉を叩くのを手伝ってくれるか?」
「はい…はい!やります!」
まな板代わりに使っている分厚い木の板の上に、分厚く切り分けた岩鎧豚の肉を並べた。
「肉の繊維を断ち切るように、トントンと力加減を調整しながら叩くんだ。あまり強くやりすぎると肉が潰れる。こうだ」
手本を見せながら、カツン、カツンと心地よい音がアジトに響かせる。瓶の丸みと重みが、手頃な肉叩き用の道具として完璧に機能していた。
「僕もやってみたいです!」
カータは小さな手でずっしりと重い酒瓶の首を両手で包み込むように持ち、真剣な眼差しで肉に向き合った。
トントン、トントン……。
「ううん、結構重い……! でも、美味しくなぁれ、美味しくなぁれ……!」
一生懸命に小さな身体を揺らしながら瓶を振るうカータ。猫耳が真剣さのあまり前にピンと倒れ、尻尾が音のリズムに合わせて左右にゆったりと揺れている。
「いい手つきだ。しっかり肉が柔らかくなっているぞ」
「ふふ、! 命をくれたお肉だから、一番美味しくしてあげたいんです」
「ああ、その意気だ」
肉の下ごしらえが終わると、次は衣の準備だ。アジトの棚奥で見つけたカチコチの干しパンをナイフで削り、それをカータが瓶の底を使ってすり鉢のように力いっぱいゴリゴリと押し潰していく。
「見てくださいご主人様! おパンがふわふわの粉になりました!」
「よし、上出来だ。それが極上の衣になる」
肉には、カータが摘んできてくれたガーリック草の絞り汁とワイルドタイム、そして少量の塩を念入りに揉み込む。準備が整うと、モルガンは解体時に取り分けておいた上質な油脂を深鍋に入れ、火にかけた。
ジュワ……パチパチ……。
油が充分に温まったのを確認し、自家製パン粉をたっぷりと纏わせた厚切り肉を静かに投入する。
「シュワワワワァァッ!!」
静かだったアジト内に、爆発的な揚げる音が轟いた。
一瞬にして立ち上る、香草の爽やかな風気と、油で香ばしく熱せられたパン粉の匂い。そして、岩鎧豚の極上の脂が溶け出す濃密な香りが部屋いっぱいに充満していく。
「うわあぁ……! すごい音! すごくいい匂いがします……!」
カータは目を輝かせ、パチパチと弾ける油の飛沫に気をつけて少し離れながらも、鍋の中を食い入るように見つめた。
きつね色に色づいた最高の一品を引き揚げ、木の板の上へ。包丁をあて、一気に力を込める。
サクッ……!!
澄んだ、最高の咀嚼音がアジトに響き渡った。断面からは、閉じ込められていた熱々の肉汁がジュワリと溢れ出してくる。
「さあ、冷めないうちに食うぞ。命の恵みだ」
「いただきます……っ!」
小皿に分けられた一番大きなカツを、カータは小さな両手で大事そうに持ち、口を大きく開けてかぶりついた。
サクッ、ジュワァッ……!
「んん〜〜〜〜〜っっっ!!!!」
一口噛んだ瞬間、カータの耳がピーン!と垂直に立ち上がり、瞳孔がカッと見開かれた。
香ばしい衣の歯ごたえのすぐあとに届く、信じられないほど柔らかくなった肉の食感。揉み込んだ香草が脂のしつこさを綺麗に消し去り、噛むたびにジューシーな旨味だけが口の中で爆発する。
「お、美味しすぎます……! サクサクで、お肉が凄く柔らかくて、お口の中がお肉の汁でいっぱいです……!」
あまりの美味しさに、カータは尻尾をぶんと振り回しながら、口のまわりにパン粉と脂をいっぱいつけて夢中でモグモグと頬張った。
自分の分を口に運ぶ。酒瓶で丁寧に叩いた甲斐があり、肉質は驚くほどしっとりと解けていく。ガーリックとタイムの風味が極上のアクセントになっており、研究者としての計算とカータの努力が見事な味となって結実していた。
「……美味いな。カータが一生懸命叩いてくれたおかげだ」
「えへへ……! 僕、もっともっとお手伝いします! 命に感謝して、ご主人様と一緒にたくさん美味しいものを食べたいです!」
口のまわりを真っ白なパン粉だらけにしながら、満面の笑みを浮かべる「ちっちゃな助手」。
「全く、口のまわりが大変なことになっているぞ」
不器用に苦笑しながら、指先で優しくカータの口元を拭ってやった。
命の重みを知り、自分たちの手で作り上げたごちそう。外の危険を忘れるほど温かな香ばしい匂いの中、一つの音が近づいてきたのを、カータの耳が察知した。
「ご主人様…音が聞こえます…!敵意はないようですが…」
私たちは注意して…扉を開いた。




