脱出
パビリオン編が一旦終わります。
「……ハァ、ハァ……ッ」
荒い息を吐きながら、暗がりを走り抜ける。魔力を使い果たした私の身体は鉛のように重く、視界の端が明滅していたが、肩を支えてくれるカータの力強い温もりが、私を現実へと繋ぎ止めていた。
「ご主人様、大丈夫ですか……!? もう少しです、足元に気をつけて……!」
「ああ……大丈夫だ、カータ。すまない、君に……助けられたな」
「僕の方こそ……。ヒルダさんがくれた首飾りが守ってくれたんです」
走りながら互いの無事を確かめ合う私たちの前に、抜け道の角からすっと影が躍り出た。
「キシシ……やってくれたねぇ! あのクソガキの泣き叫ぶ声がここまで響いてたよ!」
待ち構えていたのはヒルダだった。
彼女は手慣れた手つきで懐から煙幕の筒を取り出すと、追っ手の目を眩ますように通路の角へ投げつけ、私たちを先導してさらに奥の隠し階段へと滑り込む。
「表の連中もそろそろ潮時だ。あたしの部下どもも散り散りに撤退を始めてる。裏手の馬車へ急ぐよ!」
階段を駆け降り、冷たい地下の風が吹き抜ける搬入口へと辿り着く。そこには、闇に紛れるように黒塗りの馬車がひっそりと佇んでいた。
部下が素早くドアを開ける。
「乗りな、ふたりとも!」
ヒルダに促され、カータが先に車内へ入り、そのまま私を優しく抱え上げるようにして座席へと引き上げてくれた。
「しばしの別れだ…カータ。よく守ってくれた。モルガンを頼んだよ…」
私は膝の上のカータのカバン──そこに収められた本物の手記の感触を確かめ、そっと胸を撫で下ろした。
「モルガン、あんたたちはこのままパビリオンを離れな。ほとぼりが冷めるまで、穏健派の領地へ向かうといい」
「ヒルダ……君は、本当に一緒には来ないのか?」
問いかける私の言葉に、ヒルダはゆっくりと首を振った。
「言ったろ? こっちは仕事があるのさ。……それに、あんたにはもう、立派な相棒がいるじゃないか」
彼女の視線が、私とカータの繋がれた手へと向けられる。
「もしアタシが助けを必要としていると思ったら…手紙を開いて欲しい。頼んだよ」
そういって馬車の扉を閉じる去り際、ヒルダは私にこう告げた。
「……無事でいなよ、二人とも。……また会える日までね」
視線を上げると、煙管をくゆらせるヒルダと目が合った。彼女は口元に微かな、そしてどこか寂しげな笑みを浮かべていた。
暗い車内、車輪が石畳を叩く規則的な音の中、カータがまっすぐな瞳で私を見つめてくる。
「ねえ、ご主人様……。僕たち、これからどうなるんですか?」
隣に座るカータが、不安を打ち消すように私の手をギュッと強く握りしめてくる。その手を開き、指を絡め返すと、カータは心底安堵したように体を寄せてきた。
「強硬派は、今回の件で間違いなく私や君を追うだろう。この辺りには……しばらくは戻れないかもしれない」
「どこへでもついていきます。ご主人様がどこへ行こうと……僕は、ずっとお傍にいますから」
迷いのないその言葉に、胸の奥が熱くなる。
静まり返った車内で、私はヒルダから託された書状の封をゆっくりと切った。
揺れるランタンの淡い光の下、そこに記されていたのは、穏健派の有力貴族が治める「アルカディア領」への手引きと、現地にある彼女の隠れ家の場所だった。
『──無事に辿り着けたら、そこの酒を勝手に飲んで構わないよ。二人で末長くお幸せにね、私の可愛い弟子』
最後にしたためられた彼女らしい皮肉混じりの追伸に、口元が微かにほころぶ。だが同時に、彼女の背負うリスクを想うと、胸の奥がキュッと締め付けられるような愛おしさと切なさがこみ上げてきた。
「……ご主人様、ヒルダ様からの書状ですか?」
隣に座るカータが、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「ああ。……彼女が指し示してくれた行き先が書いてある。穏健派の治めるアルカディア領だ。あそこなら強硬派の権力も届きにくく、父の手記の真実を紐解く時間も作れるはずだ」
私は書状を丁寧に折りたたんで懐に収めると、隣のカータの肩へとそっと頭を預けた。
激戦の疲労と魔力欠乏で、瞼が重くなっていく。
「……ご主人様、本当によく頑張りましたね」
カータは優しく微笑むと、私を椅子から落ちてしまわないようしっかりと横から抱きかかえ、頭を撫でてくれた。
胸の鼓動と体温を感じながら、私は静かに目を閉じた。
手元には、父が遺した真実の手記。隣には、命をかけて私を守ってくれる大切な存在。
夜の静寂を切り裂きながら、馬車は強硬派の包囲網を抜け出し、穏健派の領地アルカディアを目指して北へと走り続けていく。激動の夜が明け、水平線の向こうに新しい朝の光が差し始めていた。




