戦闘
「……ッ!」
私は即座にカータの前へ身を乗り出した。カータは私の体調を気遣いながらも、その鋭い瞳は暗闇の先を射抜いている。
暗闇のグラデーションの中から姿を現したのは、洗練された紺碧の軍服に身を包んだ一人の男だった。
整えられた銀髪、冷ややかな切れ長の目、そしてその胸元には強硬派の最高幹部を示す鷹の飾りが光っている。男は手に携えた漆黒の魔法杖を静かに一突し、廊下の石床に乾いた音を響かせた。
「……やはりここだったか、……哀れな落ちこぼれ賢者、モルガン」
男の口元が、粘ついた歪んだ笑みを刻む。
「誰だ君は?」
「お初にお目にかかる。私は執行官リオンだ。リオン・アルベルト」
リオン──かつて学院時代、権力欲にまみれた魔法学校幹部の親の威光を傘に着て、ヒルダに冤罪を擦り付け、彼女を教壇から追放した張本人であり、現在は強硬派の冷酷な執務官として台頭している男だ。
「感謝するよ。お前たちが大人しく『隠し書庫』を開けてくれたおかげで、封印を解除する手間が省けた。……さあ、そのカバンの中にある『上位ポーションの真実』を渡してもらおうか」
「断る」
静かに前に踏み出し、冷徹な瞳でリオンを見つめ返す。
「これは……人を殺すための道具ではない。お前たち強硬派のような、他人の命を蔑ろにする者に渡すわけにはいかない」
「ハッ、相変わらず青くさいことを。王が死んだ今、この国の法も正義も我々強硬派が定めるのだ」
リオンが優雅に魔法杖を掲げると、彼の周囲の空間が不気味に歪み、赤黒い攻撃魔法の陣が幾重にも展開された。圧倒的な威圧感が狭い通路を押し潰すように広がる。
「渡さないというなら力ずくで奪うまで。……安心しろ、モルガン。お前は死なない程度に生かして、死ぬまで我が軍のために上位ポーションを作らせてやる。さもなければ……ここで灰にしてやるがね!」
「…わかった。差し出そう。しかし、この子の命は保証してもらおう。それが交換条件だ」
「…?随分と聞き分けがいいのだな。父親とは違って…」
「…王国を敵に回せるほど、私は偉大ではないからね」
そう言って私はカバンから父の形見を差し出す。
「…ほう。これが…感謝しようモルガン。これでお前は用済みだ!!」
そう言ってリオンは詠唱を始める。
「死に損ない共が、まとめて塵と化せ」
リオンは冷酷な嗤いを浮かべ、その漆黒の魔法杖を高く掲げた。
彼の周囲に、赤黒い魔力の奔流が渦を巻き、幾重もの魔法陣が図書館の壁や天井を覆い尽くすように展開される。それは、上位調合師の理論を欲する執務官としての顔ではなく、血統への嫉妬に燃える、一人の歪んだ魔術師の顔だった。
「その魂ごと、地獄の業火に焼かれるがいい!」
リオンの詠唱が完成した瞬間、空気が悲鳴を上げた。
「深淵なる爆炎!!」
狭い通路を、地獄の釜蓋が開いたかのような、黒ずんだ紅蓮の炎が奔流となって押し寄せる。単なる火炎魔法ではない。それは接触したものの魔力を喰らい、精神をも焼き尽くす、強硬派が禁忌とした高位破壊魔法だった。炎は大蛇のようにのたうち回り、石造りの廊下を溶かしながら、圧倒的な質量と熱量で迫り来る。
「そういう魔法ばかりで、ろくに魔術を学ばないのは感心しないな」
モルガンは静かに吐き捨てると、懐から一包みの錬成粉を取り出し、空中へと撒き散らした。同時に、最も基礎的な初級防衛魔術──最小限の詠唱を呟く。
「青い障壁」
──パァァンッ!!
立ち昇る高位破壊魔法の猛炎が、モルガンの目前に展開された薄い透明な魔力膜へと衝突した。だが、想像されるような爆炎の穿ちも、衝撃波も起こらない。
「なに……!?」
リオンの余裕に満ちた顔が凍りつく。
「魔法というのは、自身の心の弱さや弱点からくるものだと教わらなかったか?」
「黙れ…黙れぇ!!」
そう言ってもう一度放たれる黒ずんだ紅蓮の炎は、まるで水でもかけられたかのように、モルガンの数センチ手前でジュウと哀れな音を立てて消滅する。
「ば、バカな……! 初級魔法だぞ!? 貴様、我が深淵なる爆炎を……何をした!?」
リオンが狼狽し、魔法杖を握る手に血を滲ませる。
「魔法の威力を誇示することしか考えないから、魔力の『理』が見えていないんだ」
冷ややかな眼差しでリオンを見つめ、静かに、だが確実な足取りで一歩前へ踏み出す。
「では、私も少し魔法をかじったものとして、君に見せてあげよう」
静かにそう告げると、リオンへと、ゆっくりと視線を向けた。
リオンは屈辱に顔を歪めながらも、私の言葉に鼻で笑った。
「……ハ、落ちこぼれの調合師が、今更何を……」
その挑発を無視し、ゆっくりと空いている右手を掲げた。その掌の上に、ぽっと小さな灯りがともる。
それは、洗練された魔術回路から生み出される、攻撃的な魔法の炎ではなかった。
ただの、ありふれた、小さな、揺らぐ炎。
──それは、モルガンが幼い頃、父が研究に没頭し、独りきりの寂しさを紛らわすために、誰に教わるでもなく、独学で作った最初の魔法。父の遺した高度な理論ではなく、父の背中を見つめながら、その温もりを求めて作り続けた、寂しさと、微かな希望が込められた、原点の炎。
「……?」
リオンはそのあまりに無防備で、力の感じられない炎に、呆気にとられた。
だが、モルガンがその炎に、自らの魔力を、そして父への想いを静かに込めると─
──ゴォォォォ……ッ!
掌の上の小さな炎が、一瞬にして爆発的な、だが温かい光を放ち、周囲の闇を霧散させた。
それは、攻撃のための炎ではない。
リオンの放った深淵なる爆炎の残滓、廊下に蔓延る赤黒い瘴気、そしてリオン自身の心にある、歪んだ嫉妬や憎悪さえも巻き込む、大きな焚き火のような輝きだった。
「な……これは……!?」
その魔法にリオンは狼狽しつつも反撃の構えをとる。
「な……なんだ、その気味の悪い火は……ッ! ふざけるな、そんな子供の火遊びのような真似で……! 我が最高峰の高等魔法が、貴様のような落ちこぼれの小細工に負けるわけがないだろうがぁぁぁッ!!」
狂乱したリオンは転がった杖へ必死に手を伸ばし、血を吐くような叫びと共に、全身の魔力を強引に絞り出した。彼の頭上に、再び禍々しい赤黒い爆炎陣が歪に展開される。
──轟ッ!!
二つの魔法が、狭い通路の真っ只中で激しく衝突した。
リオンの放つ圧倒的な質量の破壊の炎に対し、私の手から放たれる小さな炎はまるで澄んだ水の中を滑る魚のように、相手の魔力脈動の「結び目」へと的確に滑り込んでいく。過剰な魔力で膨れ上がったリオンの術式は、その一点を突かれた瞬間、内側から自壊するように破裂し、猛烈な衝撃波となって室内を吹き荒れさせた。
「ガハッ……!?」
己の魔法のバックラッシュをまともに浴びたリオンは、石壁へと激しく打ち付けられ、血を吐いて崩れ落ちた。紺碧の軍服はボロボロに裂け、かつてのプライドと共に床に伏している。
煙が立ち込める静寂の中、モルガンは胸を押さえ、大きく息を乱しながら一歩前へ踏み出した。
「……今、私たちを逃せば、命までは取らない」
声は冷静で、毅然としていた。
だが──その身体は微かに震え、額には油汗が浮かんでいる。体調は限界に近く、今の衝突で魔力も底をつきかけていた。
『命までは取らない』──それは、これ以上の戦闘を避けるための、モルガンの精一杯の虚勢だった。
「……ッ、ご主人様!」
カータがすぐさま横から私の体を支え、その細い肩をしっかりと抱きとめる。カータには分かっていた。私がどれほど無理をしてこの言葉を口にしているのかを。
「……舐めるなよ、落ちこぼれぇ……! 任務を……遂行する……ッ!」
床に血を吐きながらも、リオンの瞳には執念と狂気がギラギラと燃え上がっていた。崩れかけたプライドを保つためだけに、彼はボロボロの手首を掲げ、残された生命力を絞り出すように再び黒い魔力の奔流を練り上げる。
「死ねぇぇぇッ!!」
至近距離から放たれる、捨て身の不完全な爆炎。逃げ場のない狭い通路で、容赦なくモルガンへ向けて解き放たれた死の光。
「くっ…!」
──だが、その直撃の瞬間。
「ご主人様には……指一本触れさせない!!」
カータが素早く割り込み、身を挺してモルガンの前に立ち塞がった。
その瞬間、カータの胸元──肌身離さず身につけていたあのネックレスが、目も眩むような澄んだ蒼銀の光を放ち爆発した。
────ギィィィンッ!!
眩惑の光とともに展開されたのは、幾重にも重なる緻密な円環の魔導障壁。
リオンの狂乱の炎は、その障壁に触れた瞬間にまるで波が岩に砕けるように弾け飛び、反転した。
「……う、あぁぁぁっ……!くそ…」
魔力を完全に使い果たし、反動と絶望で打ちひしがれたリオンは、今度こそ膝から崩れ落ちる。
あたりから砂煙が消えると、リオンの前からあの二人は消えていた。
「…どこ行きやがったぁ!!!」
最奥の廊下に怒号が木霊した。
倒れた執務官の手からこぼれ落ちたダミーのノートが、石畳の上で虚しくばら撒かれた。




