父の手記
重い黒鉄の扉が完全に開くと、その先には幾年月もの静寂が沈殿する、圧倒的な空間が広がっていた。
私とカータは深く頷き合い、光を失った暗がりの中へと足を踏み入れた。
禁書書庫──特異領域。
外の図書館とは趣が異なり、そこはまるで時間を凍りつかせた巨大な石造りの洞窟のようだった。天井は遥か高く、見上げれば幾何学模様の古代魔導陣がほのかな蒼い燐光を放ち、広大な書庫全体を静かに照らしている。
棚に並ぶのは、通常の羊皮紙ではなく、龍の皮を鞣した装丁本や、結晶化された魔導書、果ては輝く液体が満たされたガラス管の記録媒体。足を踏み出すたびに、古い紙と乾燥した生薬の香りが鼻腔を突いた。
「……すごいところですね、ご主人様。空気が、外とまるで違います」
カータは背負ったバックの紐にギュッと手をかけたまま、周囲の棚を警戒の目で見回す。その声は、消音の魔術が切れた空間で静かに反響した。
「ああ。ここは王国の黎明期から、禁忌とされた知識だけが封印されてきた場所だ。……そして、王立魔術研究所での研究の資料もこの場所にある」
「灯れ、青き雫」
私は指先でほんの少し青い魔力を灯し、書架の背表紙を一つひとつなぞりながら奥へ進んでいく。
棚に刻まれた年代の刻印を追いかける。父の直筆、特有の流麗で無駄のない文字──学院時代、父の書斎で毎日目にしてきたあの筆跡を探して。
書庫の最奥、ひときわ分厚い大理石の机の上に、一冊の異質な書物が置かれていた。
それは他の豪華な装丁本とは異なり、無骨な黒い革で括られた、手記のような厚手の本だった。表紙には、紋章と──幼い頃に悪戯で付けた、小さな傷跡が残っていた。
「……あった」
モルガンは息を呑み、吸い寄せられるようにその本へ手を伸びした。
表紙を捲ると、そこには父の硬質な文字で、びっしりと書き込まれた理論と数式、そして……見たこともないポーションの精製図が躍っていた。
『上位ポーション(ハイポーション)の限界を超える術式──魔力の代償、および精神の調合論』
「これは……」
ページを繰る手が、微かに震え始める。
そこに記されていたのは、「絶望的な病や傷から人を救うための、新たな術式」……そして、それを作動させるために必要な「魔力を使用したものの生命力を削る」という、あまりにも残酷な対価の真実だった。
「ご主人様……顔色が」
異変に気づいたカータが、モルガンの肩を抱くように寄り添う。
「父は……この研究が戦争の道具にされるのを恐れて、ここに封印したんだ。……そして、この術式を使えば、多くのものの人生が踏み躙られ、命を削られることを知っていたから……私にだけは教えなかったんだ」
私には魔力があった。微量なものだがそれを使えばあるいは…だがこの実験を実証するためには、少なからず犠牲があるかもしれないことを父はきっと理解していたのだろう。父は私を守ってくれたのだ。母を失うとしても。あんなに父を嫌っていた私を、それでも愛してくれたのだ。
目から、知らず知らずのうちに一筋の涙が零れ落ち、古い紙面へと染み込んでいった。
自分の不甲斐なさを呪った父。自分を置いて逝ったと思っていた父。
その本当の理由は、この本の中に隠されていた──自分を、我が子を守るため「呪い」と「愛」そのものだったのだ。
「……カータ、これを頼む」
震える手で黒い革の手記を閉じると、静かにカータへ差し出し、私もいくつかの資料を束ねカバンにしまう。
カータは固い決意を込めた目で頷き、その手記を大切に革のカバンへと押し込み、しっかりとベルトを締めた。父の真実と、あまりにも重い愛の記憶──それらを確かに受け取った二人は、一刻も早くこの場所を抜け出すべく、特異書庫の出口へと向かう。
ギィィ……と重い黒鉄の扉を開け、再びヒルダの待つ通路へと足を踏み出した、その瞬間。
カツン……カツン……カツン……
静寂に包まれていた暗い廊下の奥から、規則正しい硬質な靴音が一つ、静かに近づいてきた。
切り裂くように響くその足音は、部下たちのドタバタとした大立ち回りとも、急ぎ足の警備兵のそれとも明らかに違う。悠然と、だが確固たる殺意と威圧感を伴って、まっすぐにこちらへ歩んでくる音が聞こえた。




