潜入
「ヒルダ様。申し訳ませんが最近事件が起きまして、図書館への立ち入りには身分証をいただく規則になっております」
門番達がそう告げる。
「……あらぁ? 身分証、ねぇ」
ヒルダは煙管を指先で遊ばせながら、呆れたように片方の眉を上げた。門番たちの手元──いつもなら見過ごすはずの僅かな隙もなく、しっかりと柄に手をかけられた腰の剣を見逃さない。強硬派の兵だ。王が没してからというもの、この手の小悪党どもが急に偉くなったような面をして張り切っている。
「前回来たときは、そんな無愛想な紙切れなんて要求されなかったんだけどねぇ。このパビリオンの図書館は、知識を求める者なら誰にでも開かれた場所じゃなかったかい?」
「……社会情勢の変化です。上からの厳命でしてね。お渡しいただけない場合、どなたであろうと通すわけにはいきません」
門番のひとりが冷淡に言い放つ。視線はヒルダだけでなく、その背後に佇むフードを深々とかぶった二人──私とカータの姿を鋭く探っていた。
「ちッ……堅苦しいねぇ、まったく」
ヒルダは深いため息をつくと、懐から重厚な革製のカードと、王都薬物ギルドの紋章が刻まれた金色の証章を取り出し、ひらひらと門番の目の前に突きつけた。
「これで満足かい? ほら、王都ギルド幹部パビリオン支部長のヒルダだよ。昔から顔馴染みのあんたらの上司を呼んでくれても構わないよ?」
門番は証章を受け取り、目を細めて入念に確認する。ヒルダの堂々とした立ち振る舞いと、裏社会にも顔が利くギルド幹部という肩書に、僅かに気圧されたように喉を鳴らした。
「……確かに、ヒルダ様ですね。確認いたしました」
門番は証章を返し、ちらりと後ろの二人へ視線を向けた。
「では、そちらのお二人も身分証を」
その言葉に、フードの奥で静かに呼吸を整えた。カータもまた、いつでも動けるよう全身の筋肉を緊張させる。
だが、ヒルダは慌てる素振りも見せず、あからさまに心底鬱陶しそうに言ってみせた。
「なんだい、この子たちはあたしの『荷物持ち』と『見習い調合師』だよ。ギルドの認可を受けてない若蔵に身分証なんてあるわけないだろう? 貴重な薬草の文献を運ぶのに、あたし一人で持てとでも言うのかい?」
「しかし規則ですので──」
「いい加減にしな!」
ヒルダが煙管で門番の甲冑の胸元をコンと叩く。甲冑の金属音が静かな夜の門前に響いた。
「あたしを誰だと思ってるんだい? 王立薬調合局にも顔を出してるヒルダだぞ。これ以上あたしらの足を引っ張って、明日の調合に支障が出たら、あんたらのお偉いさんにどう言い訳する気だい? ん?」
凄むヒルダの迫力と、ギルドの威光を前に、門番たちは一瞬言葉を詰まらせ、互いに顔を見合わせた。強硬派の締め付けが厳しくなったとはいえ、実力者である薬ギルドを無闇に突っぱねて大事にするのも避けたいところだ。
「……分かりました。ヒルダ様のお連れ様ということで、今回は特別に通します。ですが、閉館時間までには必ずお戻りください」
「ふん、言われなくても長居するつもりはないよ。……行くよ、あんたら」
「このやろう! どこに目をつけてやがる!」
静まり返っていた場所に、怒号と何かが激しくぶつかり合う重い音が響き渡った。
潜入を開始したまさにその瞬間、図書館の正門前で突如として始まった乱闘。ヒルダの部下たちが申し分ないタイミングで仕掛けた「喧嘩」だった。胸倉を掴み合い、大袈裟なまでに怒鳴り散らし、挙げ句の果てには近くの装飾用の壺を叩き割る。
「おい! 何事だ!」
「やめろ、ここは王立図書館の前だぞ!」
門番たちが顔色を変え、一斉に正門へと駆け出していく。強硬派の張りつめていた警戒網が、文字通り一瞬で正門の騒動へと集中した。
「……たく、相変わらずあの馬鹿どもは芝居が上手いねぇ」
暗がりの影で、ヒルダが煙管の先をくゆらせながらキシシと不敵に笑う。
正門前で「捕り物ごっこ」が過熱し、警備の兵がゾロゾロと持ち場を離れていく隙を見逃さず、彼女は目配せでふたりを促した。
「さあ、見張りの目が切れたよ。抜け道はこっちだ。……タイムリミットは半刻。急ぎな!」
モルガンとカータは頷き、フードを深くかぶり直すと、騒ぎに背を向けて裏手の暗闇へと素早く滑り込んだ。
石造りの巨大な館内へ足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のように消え去り、静謐と紙の匂い、そして厳めしい古い魔術の気配が二人を包み込む。
「カータ、ここからが本番だ」
「はい、ご主人様……!」
ヒルダが指先を滑らせると、微かな魔力の波紋が静かに広がり、三人を取り巻く空気が一瞬で濃密な静寂へと塗り替えられた。
「サイレント」
足音も、衣擦れの音も、呼吸音すらも完全に遮断する無音の領域。周囲の警備に気づかれないよう、ごく限定された範囲だけにピンポイントで展開された、実に無駄のない高度な消音魔法で、彼女が生きてくるのを助けてきたユニーク魔法だ。
「……さすが、先生だね」
モルガンが音の消えた空間で口の動きだけで呟くと、ヒルダは煙管を唇から外し、ニッと満足そうに口角を上げた。
外では部下たちが起こした大立ち回りの怒号と破片の割れる音が響いているはずだが、この領域の内側はまるで世界の底に落ちたかのように静まり返っている。
(これなら、いくら走っても足音一つ漏れない……!)
カータも即座にその意図を理解し、深く踏み込んで私の先導に従う。
騒音で正門側へ意識が完全に逸れている警備兵たちのすぐ脇を、三人の影がまるで幽霊のように、音もなくすり抜けていく。目指すは、広大な図書館の最深部──旧時代の封印と父の蔵書が眠る「禁書書庫」の扉だ。




