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弟子への想い

パビリオン王立図書館。

この国でも有数の歴史的建造物であり、厳格な階級社会であるこの王国にあって珍しく、一定の手続きを踏めば貴族以外の平民や学者にも広く門戸が開かれている場所であった。だからこそ、ここはただの「知識の集積地」にとどまらない。巨大な石造りの大聖堂のような外観と、天天井まで届く圧倒的な書架。国の寛大さと文物の高さを誇示するための建造物。一般開架ゾーンの奥、厳重な封印と術式で守られた書庫。かつてモルガンの父がポーションの理論を打ち立てた際、王国に接収される形で収められた蔵書──そして、表向きの論文には書かれなかった「研究結果や、学術理論」が眠る場所。


「あたしの部下が先に入って場を乱す。その後にあんた達を書庫の方に案内するよ」


ヒルダは琥珀色の酒を一口あおり、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。


「図書館の警備は強硬派の手でガチガチだがねぇ……まあ、うちの連中が表で盛大にやれば、頭の固い兵隊どもはゾロゾロと釣られて持ち場を離れる。その隙に、抜け道から書庫へ滑り込むのさ」


モルガンは杯を傾け、静かに喉を湿らせてから、深く頷いた。


「助かる。警備の目さえ逸らせれば、書庫の封印陣は私が解除できる」


「キシシ…森の賢者さんはなんだってできる…頼もしいねぇ。」


ヒルダは煙管の煙をくゆらせながら、今度はカータの方へと視線を移した。


「で、作戦の肝は『時間』だ。うちの部下が稼げる時間はせいぜい半刻。書庫に入ったら、モルガンが目的の蔵書を見つけ出すまで、あんたがしっかり背中を守ってやりな。安心しな、脱出用の馬馬車も裏手に回しておくよ。今夜はしっかり飲んで腹を括りな。明日の夜は……大忙しになるんだからね」




囲炉裏の火がパチパチと爆ぜ、三人の影を壁に大きく揺らす。


「モルガン…悪いがこれ以上強硬派が動きを続けるようなら、アタシはあんたの居場所を吐くことになる。もしそうなれば…」


「奴らはなぜ私なんかのことを…」


「その理由は一つ、あんたはこの王国でも随一の薬師だ。あんたの薬はこの地域での絢爛豪華な献上品として、名前が売れている。それに品質も折り紙付きだ…あんたの親父のようにね。需要が上がったのもあんたの名前が関係していただろう。つまり、アタシのせいでもあるってわけだ」


「私は別に…」


「いいかい?この先、穏健派と強硬派は必ず争う…あんたがどっちにつくかは知らないけど…うちはおそらくのらりくらりやるが…最終的には穏健派側につくことは難しいだろう。こっちも仕事だしね」


「──私は、争いなんて御免だ…またなんの罪のない人々が傷つけられる」


「そうだろうね…」


「あの…ご主人様」


「どうした?」


「僕は…ご主人様の悲しんでいる姿、もうみたくないです」


「…ありがとう」


こちらを真剣な、優しい目でこちらをみているカータを抱きしめる。

ヒルダは静かに煙管を吸い、紫煙越しにその光景を見つめた。


「……たく、目の前でアツアツなこと見せつけてくれるじゃないか。羨ましいねぇ」


呆れたような声を出しながらも、ヒルダの眼差しは深く、優しい。


かつて自分の手元にいた頃のモルガンは、誰も寄せ付けず、孤独と背負わされた運命の中で固く心を閉ざしていた。そんなあの子が、誰かを抱きしめ、自分の弱さや感謝を素直に見せている。


(……いい顔をするようになったじゃないか、モルガン)


かつて守ってやれなかった教え子が、今は自分の意志で守りたい誰かと出会い、共に歩んでいる。その事実だけで、ヒルダの胸の奥にあった長年の悔根が、ほんの少し救われる気がした。


「カータ、と言ったかい」


ヒルダは杯を囲炉裏の傍らに置くと、静かに、威厳を込めて二人に呼びかけた。


「あんたのその言葉、嘘じゃないんだろう。……あの子の悲しむ顔を見たくないなら、明日の夜は死んでもあの子の背中を守り抜きな。モルガンがどんな選択をしようと、戦いの中に巻き込ませないための『強さ』をあんたが見せるんだ」


カータはモルガンの腕の中で、しっかりと、力強く頷く。


「……分かっています。何があっても、ご主人様を守ります」


「よし。いい返事だ」


ヒルダは満足そうに口角を上げると、煙管を叩いて最後の灰を落とした。


「話は決まりだ。さあ、今夜はもう余計なことは考えずに泥のように眠りな。明日、書庫から『親父さんの遺産』を引っ張り出して、強硬派のバカどもに一泡吹かせてやろうじゃないか」





部屋に戻る前、ヒルダから呼び止められた。


「…悪いね。付き合わせた詫びだ」


そう言ってヒルダは私に一つの手紙と、書状を渡してきた。


「あたしはこれから…あんたにしばらく会えなくなるからね。寂しくなるよ…」


「…またすぐに会えるさ」


「モルガン…」


私に見せたことがないような弱々しい声と表情で、しかしどこか艶やかな彼女は私の名前を何度も呼び、もたれかかられるように抱きしめられる。


「ヒルダ…飲み過ぎだ」


「…愛してる」


「…!?」


その口から飛び出たその一言に心臓が跳ねた。そして…唇にキスをされる。


夜の静寂が支配する廊下。手に残る手紙と書状の乾いた感触、そして口唇に残る淡い薬草酒の熱と残り香が、あまりにも現実離れしていて心臓の鼓動を異常なほど早く打ち鳴らしていた。去ろうとするヒルダの肩が、微かに揺れている。


「…酔い過ぎたみたいだ…頭を冷やすよ…キシシ」


部屋に戻ろうとするヒルダを、私は必死に呼び止めた。


「…ヒルダ。あなたが私と初めて会った時…いや。なんというか…その、こんなでも感謝しているんだ…だから…私も大切に思っている」


声が震え、涙が出そうになる。自分の気持ちを伝えることに慣れることはないだろうと思う。顔が見れない。それでも…彼女が伝えてくれた気持ちを…思いを、これ以上無碍にするわけにはいかないと思った。

世界から孤立していく中で、この人だけが自分の「先生」でいてくれた。名前を呼び、知識を授け、生きる術を肯定してくれた。その救いに対する感情を、私は「感謝」という言葉でしか表現できなかったが、それが今、彼女から受け取った莫大な愛に対する自分なりの目一杯の応えだった。


ヒルダを抱きしめ、手で彼女の顔を自分の方へ向けさせる。ランタンの陰影の中で、自分を見つめ返すヒルダの目尻には、見たこともない透明な雫が浮かんでいた。頬を朱に染め、まさかというように唇を戦慄かせる彼女の顔は、いつもの「薬ギルドの主」ではなく「頼もしい先生」の面影を思い出すものだった。

モルガンは、添えた手のひらで彼女の頬の涙をそっと指先で拭った。


「会えなくなるなんて、一方的に言っておいて……そんな熱を残して去ろうなんて、ずるいじゃないか」


「……キシシ、本当に……立派に育って……」


ヒルダは自嘲するように小さく笑ったが、その声はかすかに震えていた。彼女は愛おしそうに目を細めると、私の首元に細い腕を回し、今度は逃げるためではなく、その温もりを確かめるように深く深く、額を寄せ合わせた。顔を見られるのが恥ずかしくて、溢れ出そうな涙を誤魔化すように、私も伸ばした両腕で力任せにヒルダの華奢な体を抱き寄せた。


「もう一度だけ…アンタからしてくれるかい…?」


恥ずかしかったが…頬に素早くキスをして…そっと顔を離す。


「こ…これでいいか?」


「キシシ…またしてくれるならいいよ…」


口元にはいつもの不敵な笑みを浮かべようとしているが、繋いだ指先から伝わってくる震えは誤魔化せない。渡された手紙を強く握り締め、まっすぐにヒルダの目を見つめ返した。ヒルダは絡めた指をそっとほどくと、一歩後ろへ下がり、優しく微笑んだ。


「さあ、部屋に戻りな。あんたの可愛い同居人が、首を長くして待ってるだろうからね。……また会えたら、またその『続き』をしておくれ…?」


耳元で囁かれるその言葉に、私はまた顔が熱くなる。背を向け、暗がりの中へと去っていくヒルダの華奢な後ろ姿。その足取りには、先ほどまでの弱々しさは消え、堂々としていた。


口唇に残る微かな熱と、胸を塞ぐような愛おしさを抱えたまま、私はゆっくりと部屋の方に戻って行った。

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