私とは違う君
「薬草学は、苦しんでいる人を救える魔法なわけではない…それでも、多くの人の生活を少し良くできるんだよ」
その言葉を話した父の顔を今ではよく覚えていない。
母は病気で亡くなった。薬屋として国の貴族であった母はいつも父を慰めていた。寝る間を惜しんで研究に勤しんだが、それを治すような薬を調薬することはできなかった父に「あなたが悪いんじゃないわ」と。なぜなら、その当時の医学では何が原因でその病が起きているのかわからなかったのだ。父には、母の体は特殊な眼の力で見たが、どうしようもなかったと何度も謝っていた。
私はその言葉を聞いた時、なんて無力なんだろうと思った。
そこから私は当時、異分野融合学問としてハイ・ポーションの開発に成功した魔法薬学に目をつけることになる。
苦しんでいる人を…みんな救うために。
「父のように無力で終わりたくない。完璧な魔法薬学でみんなを救うんだ」
そうして私は、この家を出て行った。
目を覚ましたとき、視界に入ってきたのは使い古した天井の木目だった。
頭の奥がガンガンと鳴り響いている。体内に溜まった高濃度の魔素はまだ完全に抜け切っておらず、指先ひとつ動かすだけで泥のような重痛さが全身を走った。
ふと横を見ると、ベッドの脇で丸くなり、服の裾をぎゅっと握りしめたまま寝入っているカータの姿があった。冷たい手ぬぐいが何度も取り替えられたらしく、枕元には水の入った桶が置かれている。
(……私は、何をしていたのだ)
圧倒的な敗北感と不甲斐なさが、胸の底から黒くこみ上げてきた。
再現性のある薬学を掲げておきながら、目先の試行錯誤に固執し、過剰なマソを排出する計算すら怠って自滅した。薬師としても、指導者としても、あまりに無様で惨めだった。
その苛立ちと自己嫌悪が、頭痛とともに脳を焼き焦がしていく。
「……ん、ご主人様……? あ、起きた……! よかった、すごくうなされてて……」
目をこすりながら体を起こしたカータが、心底安心したような笑顔を向け、そっと手をおでこに伸ばしてきた。
「熱、下がったかな……」
「触るな!」
パシッ、と激しい音が部屋に響いた。
モルガンは伸ばされたカータの手を、容赦なく振り払っていた。
カータがショックで目を見開き、フリーズする。モルガン自身も自分の弾かれた手に驚いたが、一度溢れ出した抑えようのない苛立ちは、泥流となって口から滑り出していた。
「……鬱陶しい。付きまとわないでくれ」
「え……ご、ご主人様……?」
「体調管理すらできずに倒れた愚か者に、看病の真似事をして満足か? 今の私の惨めさを嘲笑いに来たのか!?」
「そんなこと……! 僕はただ、ご主人様が心配で——」
「心配など頼んでいない!」
モルガンはベッドの上に体を起こし、吐き捨てるようにカータを睨みつけた。荒い息とともに、冷酷で棘のある言葉が次々と飛び出していく。
「君が横で丸くなっている間も、私は何の成果も出せず、ただ酔って倒れていたんだ! 自分の無能さに拍車がかかる! 君のその無邪気さも、気休めの優しさも、今の私には不快でしかないんだよ!」
言った瞬間に、自分が最低な八つ当たりをしていることが分かっていた。
だが、高熱と魔素酔い、そして何より「何も成し遂げられない自分」への猛烈な怒りが、一番守るべき存在へと刃を向けさせてしまった。
カータの大きな瞳に、みるみると涙が溜まっていく。
傷ついた顔で唇をギュッと噛み締め、振り払われた自分の手を握りしめると、カータは何も言えずにそのまま部屋を飛び出していった。
バタン、と力任せに閉まったドアの音だけが、静まり返った部屋に虚しく響く。
荒い息を吐きながら、モルガンはポツンと一人残された。
ベッドの脇には、カータが一生懸命ぬるま湯で絞り続けてくれたであろう、固く絞られた手ぬぐいがポツリと落ちていた。
モルガンは両手で顔を覆い、ぎゅっと目を閉じた。頭痛よりも遥かに鋭い痛みが、胸の奥を激しく突き刺した。
視界がぐにゃりと歪み、冷え切った指先がシーツの端を虚しく掴む。
天井と床の区別すらつかない深い眩暈の中で、頭の中を押し潰すように渦巻くのは、忘れたはずの父の影と、先ほど自分で叩き割ってしまった温かな時間の破片だ。
「……あ……」
喉の奥から絞り出した声は、掠れた息にしかならない。
自分は一体何を目指していたのか。再現性のある薬学を証明し、あの父を超えるためではなかったのか。
それなのに、焦りに飲まれ、自己管理すら怠って倒れ、挙句の果てに自分を心から案じてくれていたカータに最低の八つ当たりをした。
大切にしたいと願うほど、その手を払いのけてしまう。血が引いていく体は氷のように冷たく、自分が生きているのかどうかも分からない。
謝らなければいけない。
今すぐ追いかけて、あの小さな体を抱きしめ、「すまない」と頭を下げなければいけない。
けれど、鉛のように重い身体はぴくりとも動かず、ただ冷たい虚無の中へと落ちていく。
その時だった。
ギィ……と、静かにドアが開く音がした。去っていったはずの足音が、そっと、遠慮がちにベッドへと近づいてくる。
「……ごしゅじんさま」
鼻声を交えた、小さく震える声。
視界の端に映ったのは、泣きじゃくって目を真っ赤にしたカータの姿だった。飛び出したはずなのに、その手には、新しく汲み直してきたばかりの「冷たい井戸水の入った桶」が握られていた。
カータは痛む手首をかばうようにしながら、恐る恐るベッドの脇にしゃがみ込む。
「……僕、やっぱり……お水、新しくしてきたから……」
傷つけられたはずなのに、拒絶されたはずなのに。
カータはポロポロと涙をこぼしながら、氷のように冷え切った私の手に、自分の小さくてあたたかい両手をキュッと重ねてきた。
「冷たい……ご主人様の手、すごく冷たいよ……。怒ってもいいから……僕を嫌いになってもいいから……お願いだから、いなくならないで……」
伝わってくるのは、刺すような冷気を溶かしていく、圧倒的な「生のぬくもり」。
辛い記憶も、自分の不甲斐なさも、溶かして温めてくれるようで、今、この冷え切った世界の中で私の命を繋ぎ止めているのは、自分が傷つけてしまったはずの、小さな手の温度だった。
目から、熱いものが頬を伝って一筋、ポロリとこぼれ落ちる。
声にならぬ震えとともに、ぽろぽろと零れ落ちる言葉。モルガンは動かない指先を必死に蠢かせ、カータの手を握り返そうと抗った。
「すま……すまない……君がしてくれたことを、私は、私は……っ」
冷え切った唇から漏れ出たのはただただ情けなく、惨めで、けれど偽りのない本心の謝罪だった。
涙で視界が激しく歪む。父の影を追いかけ、自分の中に潜んでいた一番醜い冷酷さを、よりにもよってこの小さな子供に向けてしまった。
「ごしゅじんさま……っ」
カータはボロボロと大きな粒の涙を零しながら、私の言葉を首を振って遮った。そして、拒絶される恐怖を振り払うように、冷たく固まったモルガンの大きな手に、自分の小さなおでこをぎゅっと押し当ててきた。
「もういいよ……! もう喋らないでいいから……っ!」
おでこから伝わってくる、じんわりとした確かな体温。
カータの鼻をすする音と、必死に自分を繋ぎ止めようとするぬくもりが、氷のように冷え切っていた胸の奥に、ゆっくりと血を通わせていく。
「……すまない、カータ……。私は……本当に……」
「うん……うん……! わかってる、わかってるから……!」
掠れた息を吐きながら、動くようになった腕をゆっくりと持ち上げ、カータの小さな背中に回した。力など入らない、心許ない抱擁。けれど、今度は振り払われることのない腕の中で、カータは声をあげてモルガンの胸に顔をうずめた。
「……行かないでくれ」
自分でも驚くほど、幼く頼りない声が出た。
「ごしゅじんさま……?」
「……寂しかったんだ、カータ。私が……間違っていた。君がいないと、私は……」
胸元に顔を埋めたまま、ぎゅっとカータの服の裾を力任せに掴む。弱音なんて吐いたことがなかった。誰かに縋りつくなんて、父の前でも、魔法学校でも、一度だってしたことがなかった。それなのに、一度解けてしまった感情は止まらない。モルガンは大きな体を丸め、カータの小さな肩に額を押し当てると、子供のように身を寄せた。すーはーと、涙混じりの息を吐きながら、カータの日だまりの匂いを必死に確かめる。
「……私は、ダメな奴だ。完璧でもなければ、君を正しく導くこともできない……。それでも……お願いだ、側にいてくれ……」
プライドも、理屈も、全部捨てて。きっと父にもしたことがないほど泥臭くて無防備な「甘え」。
カータは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに涙を拭うと、モルガンの大きな頭を「よしよし」と愛おしそうに両手で包み込んだ。
「……うん。どこにも行かないよ、ご主人様」
今なら少しだけ、あの時の父の気持ちを知ることができたのかもしれない。泣きじゃくったあの父の顔を見せんと笑いかけてくれたあの人の気持ちを。私が救いたかったのも、『みんな』なんかじゃない。目の前で私のために泣き、手を差し伸べてくれる、そんな小さな幸せを…ただ守りたかったのだ。今ははっきりと、その時の父の顔が思い出せた。
【モルガンの日記】
申し訳ないことをした。大人として失格な私を、カータは優しく慰めてくれた。あの時、私が父にしてあげられなかった事をあの子は勇気を出してもう一度。寄り添ってくれた。…一度頭を空っぽにしたい。あのこの匂いに包まれていたい…そう思ってしまうのは、欲張りかもしれない。今はただ…あの子が繋ぎ止めてくれた子の関係を、大切にしたいと思う。




