第6章:朝を手放す日
朝の色が窓際の白に溶け込み始めるころ、澄玲はいつもより三十分早く家を出た。今日はいつもの時間帯を避けるためだった。透禾と顔を合わせればまた同じ痛みを繰り返してしまう。
そう思うと、澄玲の足は自然と早い電車へと向かっていた。
始発に近い時間だけあって、駅のホームはまだ人が少ない。澄玲はベンチに座り、行き先表示板をぼんやりと眺めた。いつもと違う時間帯の空気は、どこかよそよそしく感じられた。
ホームの端に立つ街灯のような照明がまだ薄暗いホームを均等に照らしている中、澄玲は、その明かりの輪の中に自分の影が伸びるのを見つめながら昨夜あまり眠れなかったことを思い出した。目を閉じるたびに、透禾の「同僚として」という声が耳の奥で繰り返し響いていた。
到着したばかりの電車から降りてくる人々の顔を、澄玲は何とはなしに眺めていた。誰もが自分の目的地に向かって迷いなく歩いていくのに比べて、今の自分がどこに向かっているのかは、澄玲自身にもよくわからなくなっていた。
ただ、透禾に会わずに済む時間を選んだことだけは確かだった。
出発ロビーに着いたとき、柱の脇にはまだ誰の姿もなかった。透禾がいない。その事実に、澄玲はほっとしたような、それでいて物足りないような複雑な感情を覚えた。
いつもと違う出発ロビーの景色を、澄玲は少しの間立ち止まって眺めた。同じ場所のはずなのに、いつもの時間とは違う光の角度と人の密度がまるで見知らぬ場所のように感じられ、透禾の不在がその違和感をより一層強めていた。
始発近くの静けさの中、澄玲は柱に軽く寄りかかりながらこれから始まる一日について考えた。誰にも見つからずに済むこの時間帯を選んだことに澄玲は少しの安堵を覚えた。それと同時に、いつもならこの場所で交わされていたはずの言葉が今日はどこにもないことにうっすらとした寂しさを感じた。
出発ロビーの隅では、清掃スタッフがモップをかける規則正しい音が響いていた。その単調な音を聞きながら、澄玲は自分の心の不規則さを改めて意識せずにはいられなかった。誰かを避けるという選択がこれほどまでに自分自身を疲れさせるなんて、想像していなかった。
窓の外では、始発便がゆっくりと動き出していた。定刻通りに迷いなく飛び立っていく機体を、澄玲はしばらく見つめていた。自分の心もあんなふうに迷いなく動けたらいいのに、と澄玲はふと思った。
けれど、感情というものは時刻表のようにはいかないものだと澄玲は改めて痛感していた。
ロッカールームで着替えながら、澄玲は鏡の中の自分に問いかけた。「これでいい。会わなければ、傷つくこともない。
「特に」という言葉と「同僚として」という言葉の間で揺れることも、もうしなくて済む。
そう自分に言い聞かせながらも、ロッカーの扉を閉める澄玲の指先は、いつもより強く震えていた。決意というものは、口にした瞬間から少しずつ揺らぎ始めるものなのかもしれない。澄玲は、その揺らぎを感じながらも無理やり心を平静に保とうとしていた。
しかし、その理屈が本当に自分を守っているのか、澄玲には確信が持てなかった。
制服のボタンをかけながら澄玲は、もう一度鏡の中の自分を見つめた。透禾に会わないと決めたのは自分の感情を整理するためだったのに、鏡に映る顔は整理できているようにはとても見えなかった。
むしろ、いつもより張り詰めた、どこか不安げな表情がそこにあった。
深呼吸をひとつして、澄玲は自分に気合を入れるように頬を軽く叩いた。今日一日を乗り切ればまた少しは心が落ち着くはずだ、と信じることでしか今の自分を支える方法を見つけられずにいた。
業務が始まっても澄玲は落ち着かなかった。朝の会話の余韻がいつもなら仕事の支えになっていたのに、今日はその支えがない。搭乗案内の声にもいつもより張りがなかった。
カウンターに立つ澄玲の隣で同僚が忙しく端末を操作している。いつもと変わらない朝の光景のはずなのに、澄玲だけがどこか歯車から外れたような感覚を抱えていた。乗客への案内は問題なくこなせているのに、心は別の場所にあるようだった。
搭乗案内のアナウンスを終えるたびに、澄玲は無意識に窓の外へ目をやった。地上運航管理部門の制服を着た誰かが視界に入るたびに、澄玲の心臓は小さく跳ねた。その人が透禾ではないとわかるたびに、澄玲は自分の反応の速さに戸惑いを覚えた。
避けると決めたはずなのに、体はまだ透禾の姿を探すことをやめられずにいた。
昼休み、澄玲は休憩室で同僚と話しながらも、視線が何度も窓の外に逸れていった。滑走路の向こうに広がる空を見つめながら、自分がどれほど無意識に透禾の存在を探していたかを思い知らされた。会わないと決めただけで、一日の輪郭がこんなにも変わってしまうとは。
同僚の何気ない話に相槌を打ちながらも、澄玲の意識は何度も窓の外へと逃げていった。誰かと話していても、心のどこかが常に空白を感じていた。その空白の正体を、澄玲はもはや認めざるを得なかった。
好きだという言葉すらまだ自分の中ではっきりと形になっていないのに、透禾がいないというだけでこれほどまでに心が乱れる。澄玲は、自分の感情の大きさに改めて戸惑いを覚えた。
認めたくない気持ちと、もう認めるしかない現実の間で、澄玲の心は静かに揺れ続けていた。
午後、地上運航管理部門から連絡事項があったが、澄玲はあえて別の同僚に対応を頼んだ。理由をつけて透禾を避けることに、澄玲は自分でも小さな罪悪感を覚えた。しかし、今の自分には透禾と顔を合わせる勇気がなかった。
「珍しいね。澄玲さんがこういうのを他の人に頼むなんて」
同僚が不思議そうに尋ねた。
「今日、ちょっと立て込んでて」
咄嗟に付いた嘘に、澄玲は自分でも驚いた。これまで、こんな風に理由をつけて誰かを避けたことなど一度もなかった。透禾という存在が、澄玲の行動をここまで変えてしまうことに、澄玲自身が一番戸惑っていた。
自分の席に戻ってからも、澄玲はしばらく手が動かなかった。誰かを避けるために嘘をつくという行為が、これほど後味の悪いものだとは思わなかった。透禾を傷つけないためにと思って選んだ距離が、結局は自分の心も少しずつ傷つけていることに澄玲はようやく気づき始めていた。
午後の時間はいつもよりゆっくりと流れているように感じられ、窓の外を見るたびに、澄玲は無意識に地上運航管理部門の制服の色を探していた。避けると決めたはずなのに、視線はどうしてもその色を追いかけてしまうのだった。
書類を整理する手を止め、澄玲は窓ガラスに映る自分の姿をぼんやりと見つめた。避けているつもりなのに、実際には誰よりも透禾のことを考えている。その矛盾に気づくたびに、澄玲は小さくため息をついた。
避けることと忘れることは、まるで違う行為なのだと澄玲は身をもって学んでいた。
夕方、澄玲は窓際に立って空を見上げた。橙色の光が薄くにじみ、ビルの輪郭を柔らかく縁取っている。いつもならこの時間、透禾と交わす何気ない言葉を心待ちにしていた自分がいた。
その習慣を断ち切った今、澄玲の胸には奇妙な空白が広がっていた。
いつもなら透禾と交わしていたはずの言葉が今日はどこにも行き場をなくし、澄玲の胸に留まり続けている。誰にも話せない言葉を抱えたまま一日を終えることがこれほど重苦しいことだとは、澄玲は知らなかった。
会わなければ楽になると思っていたが、実際には逆だった。会わないことで、かえって透禾の存在の大きさがはっきりと浮かび上がってくるのだ。
澄玲はその事実に戸惑いながらも認めないわけにはいかなかった。
窓ガラスに反射する自分の顔を見つめながら澄玲は今日一日を振り返った。避けることで得られたのは一時的な安堵だけだった。その代わりに澄玲は一日中透禾の不在という重さを引きずり続けていた。
得たものと失ったものを天秤にかければ、明らかに後者のほうが重い。その事実に澄玲はようやく気づき始めていた。
透禾の側もまた、今日一日、いつもの朝に澄玲がいないことに気づいていた。始業前、柱の脇でしばらく待してみたが、結局、澄玲は現れなかった。理由を尋ねるすべもなく、透禾はただいつもと違う静けさを持て余していた。
いつもなら澄玲の足音が近づいてくる方向を、透禾は何度も確認した。人の流れが変わるたびに視線が反射的にそちらに向かうが、期待した姿はそこにはなかった。
時計の針が始業時刻に近づくにつれ、透禾の焦りは静かな諦めに変わっていった。
始業のチャイムが鳴っても、透禾はしばらく柱の脇を離れられずにいた。「もしかしたら、少し遅れているだけかもしれない」という淡い期待を抱きながら、透禾は最後まで人の流れを目で追い続けた。
しかし、いくら待っても澄玲の姿は現れなかった。
諦めきれずに何度も時計を確認する自分に、透禾は小さく苦笑した。誰かをこれほどまで待ち続けるのはこれまでの人生で数えるほどしかなく、それだけ澄玲という存在が透禾の中で大きな位置を占めているのだと改めて思い知らされた朝だった。
避けられているのかもしれない、と思うと、透禾の胸に重い石が沈んだような感覚が広がった。「同僚として」と口にしたあのひと言が、澄玲を遠ざける決定打になったのかもしれない。
その可能性から、透禾は目を逸らすことができなかった。
一日の業務をこなしながらも、透禾の思考は何度も同じ場所へ戻っていった。あの夜、「同僚として」と言い直した瞬間の自分の声が頭の中で繰り返し再生される。あの一言さえなければ、今日も変わらず朝の時間を過ごせていたのだろうか。
答えの出ない後悔だけが、透禾の一日に重くのしかかっていた。
昼休み、透禾は一人で屋上に近い休憩スペースへ足を運んだ。いつもなら誰かと過ごす時間を今日は一人で過ごしたかったのだ。眼下に広がる誘導路を眺めながら、透禾は自分の不器用さを改めて痛感していた。
大切な相手ほど、うまく言葉を選べない。その癖がまた一つ、大切なものを遠ざけてしまったのかもしれない。
同僚に声をかけられても生返事しかできず、自分の不甲斐なさに透禾は小さく苦笑した。仕事は普段通りにこなせているつもりでも、心の奥底ではずっと同じ後悔が繰り返されている。澄玲を困らせたくないという気持ちが、結局は一番大切な場面で自分を臆病にさせてしまうのだ。
その悪循環に、透禾はようやく正面から向き合い始めていた。
夜、勤務を終えた澄玲はいつもより早く到着ロビーを離れることにした。透禾と顔を合わせずに帰れる時間を選んで職員通路を足早に歩く。今日一日避け続けたことへの安堵よりも言いようのない虚しさのほうが大きかった。
通路の照明がいつもより白々しく、澄玲の足元を照らしている。誰もいない廊下を一人で歩く感覚はこれまで経験したことのない孤独を、澄玲に運んできた。透禾がいるはずの時間帯を避けて選んだ道のりがこんなにも味気なく感じられるとは思わなかった。
駐輪場へ向かう途中、澄玲はふと足を止めた。いつもなら聞こえるはずの透禾の声がしない。挨拶を交わす数分間がない。
代わりに聞こえるのは、業務用通路の機械的な足音と遠くで動くコンベアの音だけ。無機質な音に包まれながら、澄玲は自分がどれほど透禾の声に慣れ親しんでいたかを初めて自覚した。声にはそれだけで人を安心させる力があるのだと、澄玲は今夜初めて実感した。
その不在の重さに、澄玲は今さらながら気づかされていた。
自転車のサドルに座ったまま、澄玲はしばらく動けずにいた。夜の駐輪場には他の職員たちが行き交う気配がまばらに残っているが、澄玲は誰かとすれ違うたびに無意識に視線を上げてしまう。
もう会わないと決めたはずなのに、体はまだ透禾を探すことをやめられずにいた。
頭ではわかっているつもりの理屈と勝手に動いてしまう心と体との間に生じるズレに、澄玲は静かな疲労を感じていた。誰かを避けるという行為は思っていたよりもずっと自分自身への負荷が大きい。
相手を避けているつもりで実際には自分の心をすり減らしているだけなのかもしれない、という考えが澄玲の中で徐々に形を成していった。
避けることで守れるものなど本当にあったのだろうか、と澄玲は自転車のハンドルを握りながら自分に問いかけた。守れたのは今日という一日の痛みだけだった。
その代わりに失ったものの大きさに、澄玲はようやく気づき始めていた。
痛みを避けたつもりで実際にはもっと大きなものを手放していたのだ。透禾との何気ない会話、隣を歩く時間、互いの些細な癖に気づき合う瞬間。そのすべてを澄玲は今日一日、自らの手で遠ざけてしまっていたのだ。
取り戻せるかどうかもわからないまま、澄玲はただ立ち尽くすことしかできなかった。
自転車をこぎ出す前、澄玲はもう一度だけ空港の方を振り返った。誘導灯の光が遠く小さく瞬いている。あの光の下で透禾も今同じ空を見上げているのだろうか。
そんな想像が澄玲の胸をわずかに温めた。避けたはずの相手のことをこんなにも自然に思い浮かべてしまう自分に、澄玲は小さく苦笑した。
橋を渡る時、澄玲は一度だけペダルをこぐ足を緩めた。川面に映る街灯りが今夜はいつもより寂しく揺れている。会わない選択をしたのは自分なのに、こんなにも寂しさを感じるとは思っていなかった。
欄干にもたれて、澄玲はしばらく川の流れる音に耳を澄ませた。水面を渡る風が昼間の熱をゆっくりと連れ去っていく。避けることは傷つかないための選択だったはずだ。
それなのに、避けた先に待っていたのはこれまでにない種類の寂しさだった。傷つくことと寂しさに沈むこと、そのどちらがよりつらいのか澄玲にはもう判断がつかなくなっていた。
明日はどうすればいいのか。また避けるのか、それともいつも通りの時間に戻るのか。答えの出ない問いを抱えたまま、澄玲は自転車のペダルをゆっくりと踏み出した。
夜道を走りながら、澄玲は何度も同じ結論に行き着き、そしてまた別の考えにたどり着いた。避け続ければ傷つくことはないかもしれない。しかしそれは同時に、透禾と過ごす時間のすべてを失うことを意味していた。
どちらが正しいのか、澄玲にはまだ分からなかったが、今夜感じたこの寂しさだけが紛れもなく本物だった。
透禾もまた、駐車場へ向かう道すがら、今日一日の静けさを反芻していた。澄玲がいない朝、澄玲がいない夕方。それだけのことで一日の色がこれほど変わってしまうことに透禾は改めて驚かされていた。
歩きながら透禾は、同僚としてという言葉を選んだあの瞬間からすべてが少しずつずれてしまった気がして、何度も自分の行動を振り返っていた。あの一言を撤回できるなら今すぐにでもそうしたい。
けれど、時間を巻き戻す方法など、透禾には見つけられなかった。
澄玲に避けられているのだとすれば、これ以上近づくことは澄玲をさらに困らせるだけかもしれない。そう自分に言い聞かせながらも、透禾は完全には納得できていなかった。近づきたい気持ちと身を引くべきだという理性とが、今夜もまた透禾の中でせめぎ合っていた。
本当にそれでいいのだろうか。澄玲を困らせたくないという理由で距離を取り続けた結果が今日という一日だった。距離を取ることが優しさだと信じてきたが、その優しさは本当に澄玲のためになっているのだろうか。
透禾は自分の信念に初めて明確な疑問を抱き始めていた。
これまで距離を取ることが澄玲への誠意だと思い込んでいたが、その誠意が本当に届いていたのかどうかを今夜初めて疑い始めた。澄玲を思うがゆえの選択が結果として澄玲を遠ざけているのだとすれば、その優しさにどれほどの意味があるのだろうか。
答えの出ない自問が透禾の中でいつまでも渦を巻いていた。
車のエンジンをかける前、透禾はしばらくフロントガラス越しに空港の明かりを見つめていた。誰かを待ち、誰かを見送るための場所が今夜は誰も待たない場所のように透禾には見えた。
空港の灯りは変わらず誰かのために灯り続けているが、澄玲と透禾の間にあった小さな習慣は今日、静かに途切れてしまった。
途切れたものを取り戻すには、どちらかが最初の一歩を踏み出すしかない。それがどれほど怖いことか、澄玲も透禾もそれぞれの場所で痛いほど理解していたが、このまま何もせずにいれば明日もまた同じ静けさが繰り返されるだけだった。
澄玲も透禾も、その途切れた時間の重さをそれぞれの帰り道で初めて実感していた。避けることは優しさでも解決策でもなく、ただ痛みを先延ばしにしているだけなのだと、二人はまだ気づいていなかった。




