第5章:優しさに灼かれる
朝の色が窓際の白に溶け込み始めるころ、澄玲はいつもの時間に出発ロビーに向かった。数日前の「忘れてください」という言葉がまだ胸の奥にわずかなとげとして残っている。それでも、透禾に会えることを楽しみにしている自分を澄玲はもう止められなかった。
駅までの道のりで、澄玲は自分の複雑な気持ちに小さく苦笑した。傷ついたはずなのに会いたい気持ちは消えず、矛盾しているとは分かっていても、その矛盾を手放す気にはなれなかった。
出発ロビーに着くと、透禾はいつもの柱の脇に立っていた。澄玲を見つけると、小さく頭を下げる。そのしぐさに以前と変わらない優しさを感じた。
「おはようございます」
「おはようございます」
透禾は澄玲の手元に視線を落とし、それから何も言わずに歩き出した。何かを察したのか、それとも単なる習慣なのか、澄玲には分からなかったが、隣を歩く歩調はいつも通り澄玲に合わせて緩やかだった。
「今日、少し風が強いですね」
透禾がぽつりと言う。澄玲はその声にいつも通りの穏やかさを感じ取り、数日前のぎこちなさはもうどこにも見当たらないことに気づいた。
ロビーの入口付近では、風にあおられた案内旗がはためく音が聞こえた。澄玲は、自分の髪が乱れていないか無意識に手で押さえた。そんなしぐさに気づいたのか、透禾がふと視線を向けた。
「そうですね……髪、乱れてないですか?」
澄玲がふと尋ねると、透禾は一瞬だけ視線を上げてから、小さく笑った。その笑い方は以前とまったく変わっていなかったが、その変わらないことがかえって澄玲を戸惑わせた。
「大丈夫です。いつも通り、綺麗ですよ」
その一言に澄玲の胸が小さく跳ねた。何気ない褒め言葉のはずなのに、今の澄玲にはその軽さがかえって痛かった。特別な意味などないと分かっていても、心のどこかが期待してしまう。
その期待と忘れてくださいという言葉の記憶が澄玲の中でせめぎ合っていた。
矛盾する二つの感情を抱えたまま歩くのは、思いのほか疲れることだった。信じたい気持ちと信じるのが怖い気持ち、そのどちらも澄玲の中で本物で、どちらか一方を選ぶことができずにいた。
優しさというのはいつもこんな風に人を惑わせるものなのだろうか、と澄玲は歩きながら考えていた。透禾の優しさは誰にでも向けられているものかもしれない。
それなのに自分だけが、その優しさに特別な意味を見出そうとしてしまう。その矛盾が今の澄玲には、少し苦しかった。
澄玲は、隣を歩く透禾の横顔をそっと盗み見た。いつも通りの穏やかな表情で、数日前のぎこちなさはもうどこにも見当たらない。
まるで何事もなかったかのようなその平静さがかえって澄玲の胸を締め付けた。「忘れてください」という言葉を、透禾はすでに忘れてしまったのだろうか。それとも、忘れたふりをすることに慣れているだけなのだろうか。
透禾の平静さの裏には、澄玲には見えない葛藤があった。「忘れてください」と口にした自分の言葉を、透禾自身、忘れられずにいた。それでも、澄玲の前では動揺を見せまいと、透禾は意識して穏やかな表情を作り続けていた。
互いに相手の内側で何が起きているかを知らないまま、二つの平静さが並んで歩いていた。
始業のチャイムが近づき、それぞれの持ち場へ向かう時間になった。
「今日も一日、頑張りましょう」
透禾がいつも通りの言葉をかけた。澄玲は小さくうなずいたが、心の中では別のことを考えていた。「頑張りましょう」という言葉さえ、今は以前ほど素直に受け取れない自分がいた。
業務が始まると、澄玲はいつも通りカウンターに立った。搭乗案内をこなしながらも、頭の片隅では今朝の何気ないやりとりが繰り返し反芻されていた。「綺麗ですよ」という一言。
「忘れてください」という一言。二つの言葉が澄玲の中で交互に響いては消えていく。
カウンターに並ぶ乗客たちの列をさばきながら、澄玲は表情だけをいつも通りに保っていた。誰も、澄玲の内側で起きている葛藤には気づかない。仕事とはそういうものだと、澄玲は改めて思った。
どんな気持ちを抱えていても、目の前の誰かには関係のないことだ。淡々とこなすことでしか今の自分を保てなかった。
昼休み、澄玲は一人、休憩室の窓から外を眺めていた。滑走路の向こうでは、整備車両がゆっくりと動いている。その規則正しい動きを見つめながら、澄玲は自分の心の不規則さにふと気づいた。
透禾の言葉ひとつで浮き沈みする自分が少し情けなくもあった。
缶コーヒーのふたを開けながら、澄玲は同僚たちの雑談に耳を傾けるふりをした。誰かの週末の予定、誰かの好きな店の話。いつもなら気軽に加われるはずの話題が、今日はどこか遠くに聞こえる。
自分だけが違う場所に立っているような、そんな感覚が澄玲を包んでいた。
窓の外では、整備員が機体の点検を続けている。細かく決められた手順に従って迷いなく作業を進めていくその姿に、澄玲はしばらく見ほれていた。もし自分の心にもそんな手順書があればいいのに、と澄玲はふと思った。
この感情をどう扱えばいいのか、答えを示してくれる何かが欲しかった。
休憩室の時計がいつもよりゆっくり進んでいるように感じられ、澄玲は残り少なくなった缶コーヒーを飲み干して席を立った。仕事に戻ればまた忙しさが思考を鈍らせてくれるはずだった。
それだけを支えに、澄玲は午後の業務へと向かった。
午後、地上運航管理部門との連携確認のため、澄玲は再び透禾と顔を合わせたが、書類のやり取りは事務的で以前のような軽い会話は交わされず、透禾もまた必要以上に言葉を重ねようとはしなかった。
「これで確認は以上です」
「ありがとうございます」
短いやりとりの後、透禾は静かに背を向けて歩き去った。その背中を見送りながら、澄玲は自分の中に小さな寂しさが広がるのを感じた。以前なら、もうひとことふたこと、何気ない会話が続いていたはずだった。
澄玲は、胸に書類を抱えたまましばらくその場に立ち尽くしていた。事務的なやり取りだけで終わった数分間がこれほど物足りなく感じられるとは思わなかった。以前は当たり前のようにあった何気ない会話が今はどれほど貴重だったかを、澄玲は失って初めて実感していた。
透禾の側にも、はっきりとわかる変化があった。澄玲との距離を、彼は意識的に保とうとしていた。数日前の一件以来、自分の好意が澄玲にとって負担になっているのではないかという疑念が、透禾の胸に消えずに残っていた。
それならば必要以上に近づかないほうがよい、と自分に言い聞かせながら透禾は業務に徹していた。
デスクに向かいながら、透禾は何度も自分にそう言い聞かせた。近づきすぎればまた澄玲を困らせてしまうかもしれない、と。しかし、書類を渡すたびに、つい澄玲の表情を確認してしまう自分がいた。
距離を保とうとする理性と近づきたいと願う感情が透禾の中で絶えず綱引きを続けていた。
同僚の一人がふと透禾の様子に気づいて声をかけてきた。
「今日、なんか静かですね」
「そうですか……ちょっと考え事してて」
「珍しいですね、透禾さんがそんな顔するの」
それ以上は詮索せず、同僚は笑いながら立ち去っていった。 透禾は小さく息を吐き、また書類に視線を戻した。 誰かに悟られるほど自分の内側が揺れているのだと気づき、透禾は苦い笑いを浮かべた。
けれど、その意識的な距離がかえって澄玲を苦しめていることに、透禾はまだ気づいていなかった。優しさを抑えることもまた優しさの一形態なのだと透禾は信じており、その信念がそれぞれの間にわずかなズレを生んでいることに透禾は気づいていなかった。
夕方、搭乗案内の一区切りがついたころ、澄玲は窓際に立って空を見上げた。橙色の光が薄くにじみ、ビルの輪郭を柔らかく縁取っている。今日一日を振り返ると、朝の何気ない優しさと午後の事務的な距離感が澄玲の心の中でくっきりと対比されていた。
澄玲は制服のポケットからハンカチを取り出し、指先の汗をそっと拭った。緊張しているつもりはないのに、いつのまにか手のひらが湿っている。透禾のことを考えるたび、体が勝手に反応してしまう。
その事実に、澄玲は今さらながら気づかされていた。
どうしてあんなに優しくできるのだろう。特別な意味がないのなら、なぜそこまで自分を気にかけてくれるのだろう。答えの出ない問いが澄玲の中で堂々巡りを続けていた。
聞いてしまえば楽になるかもしれない。けれど、聞く勇気は今の澄玲にはまだなかった。
窓の外の空が少しずつ濃さを増し、橙色から紫がかった青へと変わっていく。その微妙な移ろいを澄玲はぼんやりと見つめ続けていた。誰かを好きになるということはこんなにも自分の心を持て余すことなのか、と澄玲は改めて思い知らされていた。
ロッカーで帰り支度をしながら、澄玲は制服のポケットに入れっぱなしにしていたリップクリームを見つけた。以前、寒がりだと透禾に指摘されたことを思い出した。あの頃の自分はまだ、こんなにも心を乱されていなかった。
ほんの少し前のことなのに、随分と遠い記憶のように感じられた。
夜、勤務を終えた澄玲は到着ロビーに向かった。今日はいつもより気が重かった。透禾に会うのが怖いような、それでいて会いたいような矛盾した気持ちを抱えたまま、澄玲は職員通路を歩いていた。
通路の窓から見える誘導灯が一定の間隔で瞬いており、その規則正しさが今の澄玲には少しだけうらやましく思われた。感情というのはどうしてこんなにも不規則で扱いにくいのだろう。
誘導灯のように迷いなく同じリズムを刻めたらいいのに、と澄玲はぼんやりと思う。
到着ロビーで、澄玲は透禾の姿を見つけた。今日も、そこにいる。安堵と緊張が同時に澄玲の胸に押し寄せた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
短いやり取りの後、沈黙が訪れる。澄玲は、その沈黙に以前とは違う重さを感じ取った。以前ならこの沈黙は心地よいものだった。
今は、その沈黙の中に、互いの遠慮がにじみ出ているように感じられる。
到着案内のアナウンスが遠くでぼんやりと響き、荷物受取所のベルトコンベアが動き出す音や旅行者たちの話し声がする。いつもと変わらないはずの空港の音だが、今夜だけはどうも他人事のように聞こえる。
「今日は、少し疲れましたか?」
透禾が尋ねる。その声には確かな気遣いがあったが、澄玲はそれを素直に受け取ることができなかった。
「そうですね……少しだけ」
「無理しないでくださいね」
その一言もまた以前と変わらない優しさだったが、今の澄玲にはかえって痛かった。その優しさは誰にでも向けられるものなのか、それとも自分だけに向けられたものなのか。
その境界が澄玲にはもう分からなくなっていた。
「透禾さんはいつも優しいですね」
澄玲は思わずそう口にした。声にわずかな棘が混じっていることに澄玲自身も気づいていた。
透禾は一瞬、驚いたような表情を見せた。
「そう、でしょうか?」
「誰にでも、そうやって気を遣うんですか?」
その問いに透禾は言葉を詰まらせ、答えを探すように視線を泳がせた。通り過ぎる旅行者たちの声がその沈黙をより際立たせていた。
透禾の喉が小さく動くのが見えた。何かを言おうとしてまた飲み込む、その繰り返しを澄玲は息を詰めて見守っていた。
「……澄玲さんには、特に」
その答えに澄玲の心臓が跳ねた。「特に」という言葉の意味を澄玲は必死に読み取ろうとしたが、透禾はすぐに言葉を続けた。
「同僚として、気にかけているつもりです」
同僚として、というその一言が、澄玲の期待を静かに打ち消した。「特に」という言葉に一瞬灯った希望が、「同僚として」という言葉であっけなく消えていく。
胸の奥で何かが静かに崩れる音がした。期待しないようにしていたはずなのに、こんなにあっさりと期待してしまう自分が澄玲には情けなかった。
これまで何度も期待しすぎないようにと自分に言い聞かせてきたはずだったのに、透禾のたった一言でその努力はいとも簡単に崩れてしまった。自分の心の脆さに澄玲は静かに絶望していた。
「そうですか」
澄玲は小さく笑って答えたが、その笑みはどこかぎこちなかった。透禾もまた、自分の言葉の選び方に後悔にも似た感覚を覚えていた。「特に」という言葉のあとに、もっと違う言葉を続けられたはずだった。
それなのに口をついて出たのは、安全な言葉だった。
「そろそろ、上がりますか?」
透禾が話題を変えるように尋ねた。
「はい」
短い返事のあと、澄玲と透禾はそれぞれの帰路についた。今夜の空気はこれまでのどの夜よりも重く、互いに何かを言い損ねたという感覚だけがそこに残っていた。
職員通路を歩きながら、澄玲は靴音の響き方さえいつもと違って聞こえる気がした。同じ通路、同じ照明、同じ時間。それなのに、心の状態ひとつで世界の質感がこんなにも変わってしまう。
澄玲はロッカーの前で少し長く立ち止まり、鏡に映る自分の顔を見つめた。疲れているのか、傷ついているのか、自分でもよくわからない表情がそこにあった。
自宅への道すがら、澄玲は自転車をこぎながら今日交わした会話を何度も思い返していた。「特に」という言葉と「同僚として」という言葉。その間にある本当の意味を、澄玲はまだ探し当てられていなかった。
商店街を抜ける間、澄玲は何度も同じ言葉を反芻した。「特に」。「同僚として」。
二つの言葉を並べてみても、そこから見えてくる答えは澄玲が望むものとは違っていた。「期待しないほうが良い」と分かってはいるものの、期待をやめる方法を知らない澄玲だった。
橋を渡る時、澄玲は一度だけペダルを漕ぐ足を緩めた。川面に映る街灯りが今夜はいつもより暗く沈んで見える。優しさがこんなにも痛みを伴うものだとは、澄玲は今まで知らなかった。
欄干に手をかけ、澄玲はしばらく川の流れを見つめていた。水面を渡る風が頬の熱を少しずつ奪っていく。優しくされるたびに嬉しくなって、そのたびに苦しくもなる。
そんな矛盾を抱えたまま、これから先も透禾のそばにいられるのだろうか。澄玲にはまだ、その答えが見えなかった。
透禾もまた、駐車場へ向かう道すがら、自分の言葉を悔やんでいた。特に、「同僚として」という一言のあとに続けるべきだった本当の言葉を、今夜もまた透禾は飲み込んでしまっていた。「同僚として」という言い方がどれほど澄玲を傷つけたか、透禾はうっすらと感じ取っていた。
車に乗り込む前、透禾はしばらく夜空を見上げていた。星は少なく、代わりに滑走路の灯りが遠く瞬いている。「同僚として」という言葉を選んだ瞬間の自分を、透禾は責めずにはいられなかった。
あの一瞬、澄玲の表情に浮かんだ小さな失望を、透禾は見逃していなかった。
なぜいつもこうなってしまうのだろう。近づきたい気持ちがあるのに、その気持ちを言葉にする直前でいつも安全な表現に逃げてしまう。透禾は車のハンドルに額を押し付けながら自分の臆病さに小さく苦笑した。
エンジンをかけないまま、透禾はしばらく座席に体を預けていた。澄玲を困らせたくないという気持ちは本物だった。それなのに、その気持ちが結果として彼女を傷つけているとしたら、自分の優しさとは一体何のためにあるのだろう。
答えの出ない問いだけが、車内の静けさの中で長く尾を引いていた。
空港の灯りは今夜も変わらず誰かを待ち、見送り、迎えるために灯り続けている。その光の下で澄玲と透禾の気持ちは近づいたはずの距離からまた少しだけ後退していた。優しさが一番人を傷つける日もある。
そのことを、澄玲も透禾もそれぞれの帰り道で静かに噛み締めていた。




