南風之宮にて③
奥の院には、神殿の入り口とは別に鳥居が建てられていた。
南風之宮の鳥居は独特の形式で、二本の柱を上部でつなぐ笠木と貫の間に透かし彫りの彫刻が施されている。ハヅルは周囲にだれもいないのを確認すると、ひょい、と一足飛びに飛び上がって鳥居の貫の上に登り、彫刻の合間に潜り込んだ。
鳥居は巨大なもので、笠木と貫の間もハヅルの身長ほどもある。透かし彫りの隙間も十分なスペースがあり、彼女はくつろいで寝転がった。
複雑な彫刻の中にも、白い鳥の意匠がそこかしこに組み込まれている。
奥の院の入り口に置かれた、翼を広げた白い猛禽の像を、ハヅルは遠目にちらりと見た。細密な彫像で出来はよいが、ハヅルにはあまり似ていない。
また、本殿に入れば御神体の安置された櫃の前にも、決まって白い鳥の彫像が置かれている。この神殿はいたるところ鳥の意匠だらけと言ってもよかった。
祖神の御前神としてそれ自体も信仰の対象となっている、ツミの一族の祖先である。宮の司も神事においてはあの彫像の前で祈りを捧げているのだ。
ハヅルとしては、これは我々のご先祖様なんだぞと宣言してやりたい気持ちでいっぱいである。
「あーーもう!」
思い出してむかむかしながら、彼女は鳥居の上で手足をじたばたさせた。
そのとき下方から、静かな声がかけられた。
「また宮の司にいじめられていたのか?」
ここで聞くはずのない声だった。
「あ、」
ハヅルは閉じかけていた目をぱっと開けて、身を起こした。
「アハト! お前、何でここに」
鳥居の真下で彼女を見上げていたのは、幼なじみのアハトだった。いつものかっちりと着込んだ衛兵服ではなく、普通の町の少年のような平服姿である。
アハトは、とん、と地を蹴って、ハヅルのいる鳥居の上まで跳び上がった。
「先触れだ。王子が参拝に来る」
ハヅルは目を丸くした。
「王子が? どうして」
「俺に訊くな。王子が、急に、決めたんだ」
急に、を強調してアハトが応える。
「でも、それでは……」
ハヅルは首をかしげた。
「姫がせっかくほとぼりを冷ますために王都を離れたのに、それでは意味がない」
「だから俺に言うな。一度決めたら何を言っても聞く耳持たんのはお前も知っているだろう」
うんざりといった調子のアハトに、ハヅルは苦笑した。それでアハトが苦労しているのを彼女はよく知っているのだ。
「で、先触れにわざわざお前が、道中の王子のそばを離れて来たのか」
「周辺は調べた。危険はない。エイもついているしな」
「エイ?」
「ああ。王子とエイは明日着く予定だ」
ハヅルはふうんと、関心のない調子を装った。
「彼も来るのか」
「というより、エイを連れ回したいんだ。あの王子は」
「何だそれ」
意味のわからない考察に、彼女は眉をひそめた。
「親友なんて初めてできたから、自慢したいんだろ」
「……毎度思うが、変な王子だな」
アハトは、そうだな、と強く頷いた。
「それで? もう神官に報告はしたのか?」
「ああ。通達のついでに、奥の院の新しい鳥像を見ようと思って寄ったんだ。王子がお前に似ているというから……」
アハトは奥の院を守るように置かれた石像に目をやり、ついでハヅルを見た。
「全然似ていないな」
「当たり前だ。だいたいあれ、男じゃないか」
王子も王女もいい加減なものだ。ハヅルが憤慨してみせると、アハトは珍しく声を立てて笑った。
その後も二人はしばらく他愛のない会話をしていたのだが、やがて時間の経過に気付いたアハトが立ち上がって言った。
「そろそろ戻る。また明日な」
「え……」
ハヅルは何も考えずに言った。
「もう行くのか?」
アハトは驚いた顔をした。
いや、表情で言えば頬も瞼もぴくりとも動いていなかったのだが、ハヅルには、彼が何かを意外に思ったのがわかった。
「何だ、その顔」
「いや」
アハトはまじまじとハヅルの顔を見ながら言った。
「それほど急ぐわけじゃないが」
「じゃあもう少し居ろ。もう宮の司のいやみを一人で食らうのはうんざりだ」
「巻き添えにするつもりか」
アハトは嫌そうに眉を寄せた。
「私は疲れてるんだ。息抜きしたくても、ここでは変化して羽根も伸ばせやしない」
ハヅルはふくれ面で愚痴をこぼした。それからちらりとアハトを見る。
「だから……」
上目遣いにアハトを見上げながら、ハヅルは彼の足下ににじり寄った。アハトは、ああ、と察したように表情を和らげた。
「またか」
彼はやれやれと肩をすくめた。
「子供だな、ハヅルは」
「ほっとけ」
ハヅルに袖を引かれるまま、アハトは隣に腰をおろし直した。
彼の方に頭を傾けると、ハヅルはさっさと目を閉じて待った。アハトは目を閉じた彼女の前で、一瞬だけためらうような素振りで動きを止め……ついで、ふわり、と彼女の髪に手を置いた。
アハトの手が優しく髪を梳いていく。毎朝くしけずってもなかなか真っ直ぐにならないゆるい巻き毛を指にからめ、ほつれを丁寧にほぐしていく。
そのまま長い手指が髪に潜り込み、頭皮をやわらかく圧迫した。
「んー……」
アハトは“羽づくろい”が上手だ。少しも痛くしないし、力加減が絶妙で、皮膚の下の凝りを押し流すような動きがとても快い。
祖父のサケイには髪を引っ張られたことがあるし、他の親しい者も力加減や繊細さにおいて微妙に気に食わない。
そういうわけで結局、ハヅルは五つにもならないころからアハト以外と羽づくろいはしないようになっていた。
ツミの里では、里の内に限っては、鳥態に変化することはタブー視されてはいない。飛行訓練に入った子供などは、一日の半分以上も鳥の姿で飛び回っている。
そんな生活から、人里に出て王宮務めを始めるとそうそう変化できなくなるため、若いツミの中にはストレスをためてしまう者もいた。
ハヅルの場合そこまで顕著ではないものの、今は特に自在に変化できない宮の神域の内、しかもあの宮の司と毎日顔を合わせる状況に、かなり苛立ちが募っていたのは否めない。
この行為には親しい者と触れあうことで心身をくつろがせ、苛立ちを解消する効果があった。
南風之宮にいる間は我慢するしかないと思っていたところへのアハトの登場に、ハヅルは歯止めもなく彼の手に身をゆだねていた。
「気持ちいいか?」
「うん」
ハヅルは素直に頷くと、目を閉じたまま、アハトの手が引きこむのに合わせてその肩に頭を預けた。
肩から抱え込むように回された指が耳朶をくすぐる。ぞくりと背筋に寒気が走って、ハヅルは身をよじった。
「んっ……耳はいやだ」
甘えたつぶやきに、アハトはすぐに耳元から手を離して、首筋を撫で始めた。
温かい手の心地よさに、ハヅルはため息を洩らしてアハトにもたれかかった。
かすかに吐息が髪を揺らしたのがわかった。アハトがかき上げた髪の合間に顔を近づけ、唇をつけたのだ。
アハトは時たま、こうして手指でなく唇で髪に触れ、うなじやこめかみ、耳元を舐めようとしてくる。
もともと、鳥態ならば全てがくちばしで行われることなので、人間態でも思わず口が出てしまうのはごく自然な流れなのだが、ハヅルはあまり好きではない。くちばしで羽毛をかきわけるのとは違って、人の唇や舌は温かく湿っていて、その感触は決して不快ではないのだが奇妙に胸を騒がせた。
そのたびにやめろと言って拒むのだが、アハトはいつもそのときだけ謝って次の回には忘れてしまう。
幼児のころからその繰り返しだ。物覚えは人一倍良いくせに、とハヅルは首をかしげた。
今回もいやがってみせてもよかったが、たまにはいいか、とハヅルは気まぐれに彼の好きにさせることにした。
耳周りだけはどうにもむずがゆくてだめだが、他は我慢できないほど不快ではない。むしろ拒みたくなるのは心地良さのせいと言ってもよかった。
そのままゆだねていたら本当にとろけて寝入ってしまいそうな、あまい感覚が押し寄せてくる。小さな子供でもあるまいし、いかに幼なじみの前でもさすがにそれは恥ずかしい。
何かを抑えたような、熱い吐息が皮膚をくすぐっていった。
ひとしきり髪をかきわけ、生え際やこめかみに幾度となく唇をつけてから、アハトは唐突に彼女の頭を抱く手を放した。
「……もういいだろ」
前触れもなく突き放されて、ハヅルは知らず唇をとがらせ物足りない顔をした。アハトは目をそらして彼女の表情を見ないようにしている。
それ以上ねだるのも子供っぽいと思って、ハヅルはあきらめることにした。髪を整えながら、今度は彼に手を伸ばす。
「お前にもしてやろうか」
「……俺はいい」
「遠慮しなくていいのに。別に髪をむしったりしないぞ。ちゃんとしてやる」
「結構だ」
そっけなく拒否される。
十二歳を過ぎた頃から、鳥と人どちらの形態でもアハトはハヅルに羽づくろいされることを嫌がるようになっていた。
自分がする分には抵抗はないようで、先ほどにしても嫌々している風ではなかった。むしろ機嫌はきわめて良さそうだったのだ。表情にはまったく出なくとも、ハヅルにはわかる。
するのが嫌でないなら、されるのもそう不快なはずはない。
どうせ痩せ我慢をしているのだ。そう結論づけると、ハヅルは不意打ちで彼の髪をつかもうと身を乗り出した。
アハトは大げさに、びくりと身を退いた。
「うわっ、やめ、」
「鳥娘! これ、宮の内で何をしておるか!」
やめろ、と彼が言い切る前に、下から激しい怒号が飛んできた。
ハヅルは大いに驚いた。ツミの娘ともあろうものが、動揺して足を滑らせるほどにだ。
がくんと身体が宙に浮いた。
「わっ」
「ハヅル!」
引き止めようとしたアハトの手は間に合わなかった。彼は迷わず自ら空中に飛び出した。
体勢を整える間もありはしない。彼はかろうじて抱きとった彼女の頭を胸に庇うと、地面に自らの背を向けた。
そのまま二人は落下した。
ツミは人間態でも普通の人間よりはるかに体重が軽く、もともと柔軟にできている。
また奥の院の外庭は幸い石畳ではなく、やわらかな玉砂利が敷き詰めてあったため、落下の衝撃もさほどではなかった。ハヅルはアハトを下敷きにしたまま、
「いたたた…」
と頭を振った。
「アハト、大丈夫……」
大丈夫か、と彼女はアハトに確認しようとした。痛そうに顔をしかめてはいるが、意識ははっきりしているようだ。
だが最後まで口にする前に、どかどかと足音を立てて石階段を駆け上がってくる宮の司の姿が目に入り、ハヅルはあわててアハトの上から退いて立ち上がった。
目を三角に吊りあげた、それは恐ろしい形相で、宮の司はハヅルに詰め寄った。
「鳥居に上るのも畏れ多いものを、男を連れ込んで、何という……っ」
「何もおかしなことはしていません」
宮の司の誤解を招く表現に、ハヅルは反発した。
堂々たる彼女の発言に王女が目を丸くし、アハトが彼なりにばつの悪い顔をしていることには気付かなかった。
ツミにとってはあくまで、鳥態のときに行う羽づくろいの代替行為であり、家族や親しい友人などとかわす気軽な親愛のしぐさでしかない。ハヅルは、このツミ特有の交歓が、一族以外の人間の目にはどのように見えるかまったく考えたことがなかった。
宮の司を意図的に無視して、彼女はアハトの脇に膝をついた。身を起こすアハトの背に手を添えてやる。
そこでようやく、宮の司はアハトの姿を見た。
「そなた、誰かと思えば、王子殿下の鳥か?」
「アハト、あなたがどうしてここに?」
面倒なことになったと、アハトはため息をついて立ち上がった。
王子の訪問を聞いた宮の司は、地位にふさわしくない慌てふためき様を見せた。
慌てたまま階段を駆け下りてくれればよかったのだが、そうはいかなかった。彼女は今度は鳥居に手をついたハヅルを見とがめ、説教を始めたのだ。ハヅルも黙っていればよいものを、言い返してしまったので収拾がつかなくなった。
言い合っている二人を眺めながら、王女は隣のアハトに聞こえるように言った。
「ツミも木から落ちるのですね」
「……」
木ではなくて鳥居だったが、アハトは何も言い返さなかった。…返す言葉もなかった。
「あの、姫。いつから見ておいでに……」
目を伏せて、小声で訊ねるアハトに、王女はあきれたように目を見開いた。
「あなたまで、本当に気付いていなかったの? ずいぶん夢中になっていたのね」
王女は声をひそめた。
「あの子は、あんなことが平気なのに、あなたとの婚約をいやがっているの?」
「いえ、あれはツミの者ならば、親しい間なら誰でもすることで、」
「では、あの子は他のツミにもあんなふうにさせているのですか? あなたはそれを許しているの?」
畳みかけられて、アハトは表情を変えないまま、わずかに目を泳がせた。
「……いいえ」
王女はふっと笑った。
「あなたも苦労しますこと」
「……恐れ入ります」
王子とエイが南風之宮を訪れたのは、翌日の午後のことだった。




