序章④
一般人に身をやつしての、いわゆるお忍びでの外出は初めてではない。
ロンダーンの王女はごく上品で美しい、一般に言われる深窓の姫君そのものではあったが、奥深くに守られかしずかれる生活というのは存外ストレスがたまるものらしい。
数年前にハヅルという専任の護衛役が付いてからは、衛兵や女官をぞろぞろくっつけて出る必要がなくなったためか、その頻度は月ごとに何割か増していた。
楽しげに前方を歩く王女から目を離さないよう気をつけながら、ハヅルは再びため息をついた。
見る限り、王女にはどこか目的の場所があるわけではないようだ。商品の並んだ飾り窓を眺めてみたり、道端の大道芸にその他大勢の市民に混じって立ち止まってみたりと気まぐれそのものである。
困るのは、彼女が身をやつしても美人には違いないということだ。
世継ぎの王子と違って、めったに一般人が間近で見る機会のない王女なので、よほどの王室狂いでなければそれと気付かれる心配はないものの、すれ違うもの皆振り返るような目立ち方をして良いことなど一つもない。
もう少し顔を隠す工夫をするなりしてほしいとハヅルは毎回苦言を呈するのだが、聞いてもらえた試しはなかった。
ただ、王女にも言い分はあった。道行く人すべてが彼女に振り返っているわけではない。外見で目立っている点に関してはハヅルも同様なのだ。今日はさらに目をひく少年が一人加わっているので、振り返る人の数は何倍にもふくれあがっていた。
三人組に注目する目の三分の一は自分に向けられていることになど気付かぬまま、ハヅルはエイと並んで歩いていた。
不機嫌な顔のハヅルに気をつかってか、単に無口なためか、エイは自らはまったくしゃべろうとはしなかった。
「エイ」
「何か?」
外国の、とはいえ王族に連なる者を呼び捨てにして、無礼だと咎められるかと思ったが、エイは表情一つ変えずに応じた。
ハヅルに言わせれば、ツミの一族にロンダーン王家以外に礼を尽くすべき相手などいないので、当然のことではあるのだが。
「何かあっても私は姫以外は守らないので、そのつもりで」
エイはわずかに目を瞠った。
「あ……もちろんです。僕のことは気にしないで」
平坦な調子で、さらりと彼は言った。
ハヅルの不躾な物言いに少し驚いた素振りを見せた他に、彼がどう感じたかをはかる材料はなかった。
王侯貴族の類いといえば、知らぬこととはいえツミの一族をただの衛兵と思って礼節を求めるのが常だったので、ハヅルは少々意外に思ってエイを眺めた。
西の小国アールネからの留学生、と銘打っているものの、実態は人質である。
彼の国は昨年の領土戦争で敗北し、ロンダ―ンの属国扱いとなっている。彼はその戦争の折に亡くなった国主の末弟だという話だ。
だが彼が並外れて優れた剣士で、王子のお気に入りの親友であるという噂は周知のものだった。
ハヅルはひそかに彼の横顔を見上げた。
顔立ちは整っていて、端正という言葉がぴったり似合う。独特の色合いの虹彩が、表情のひとつひとつを超然と見せていた。
あの人の好みにうるさいわがまま王子が気に入るのも頷ける、とハヅルは思った。
観察する無遠慮な視線を感じてか、エイは彼女に話しかけてきた。
「君は、アハトの仲間なの?」
「同じ一族の者だ」
彼は、そう、と短く頷いた。
しばらく沈黙が続いた。会話は終わったものとハヅルが判断したころになって、エイはまた口を開いた。
「じゃあ君も、彼みたいにできるんだね。あの黒い……」
「なぜそんなことを知っている?」
エイの言葉を皆まで言わせず、ハヅルは勢いよく彼を見上げた。
「なぜって、シウ……シェシウグル王子に紹介してもらったから」
「王子が? 一族のことを?」
ハヅルは戸惑った。戸惑う彼女に、相手も困惑している様子だ。
ツミの一族の本当の価値はロンダ―ン王家の、それも直系の者のみの秘め事だ。
彼ら一族はそこらにいるただの忍びの者とは違う。エイが口にしようとした事実は、他者に、特に他国の王族に知られて良いことではなかった。
「王子はなぜそんな……」
考え込みそうになったハヅルの意識を引き戻したのは、王女の浮かれた声だった。
「ねえ、ハヅル。この領巾をどう思って?」
店先に並ぶ、肩に巻き付ける飾り布を手にして彼女は首をかしげていた。透ける織りの薄物で、既製品にしては良い品のように見える。
「よくお似合いですよ」
「あら、そうではないのよ」
素直に感想を言ったハヅルに、王女はなぜか首を横に振った。
「わたくしではなく、お前の好みを訊いているのですよ」
ますますわけがわからず、ハヅルは首をかしげた。
「? どうしてですか?」
王女はあきれたようにため息をついた。
「お前も少しは娘らしいものを身につけなければ。もうすぐ十五歳でしょう? 許嫁もできたのですから、たまには着飾って、アハトを驚かせておやりなさい」
「なっ……」
不意打ちに、ハヅルは絶句した。
婚約の話などほとんど忘れかけていたのに、こんなところで蒸し返されようとは。
「私は承知していません!」
「わたくしは賛成よ。お前とあの子、二人並んでいるとぴったりお似合いでしたもの」
とんでもないことを平然と言って、彼女は手にした領巾をハヅルの肩にふわりと着せかけた。
「エイ殿はどうお思い? この子に似合うと思いません?」
少女二人のやりとりをぼうっと眺めていたエイは、不意に問いかけられて、慌ててハヅルの姿に視線を走らせた。
「ええ、よく似合うと思います」
「そうでしょう」
ほとんどただのおうむ返しだったが、王女は気にする様子もなく頷いた。
「エイ殿は、兄上の側付きのアハトのこともよくご存じなのでしょう。どうかしら。あの子の好みに合っていて?」
「さあ。僕は彼の好みまでは、」
わかりません、と小声で言ってから、彼はようやく何かに気付いた顔をした。王女からハヅルに目を向ける。
「え? ああ、じゃあ君はアハトの?」
「だから違うと……!」
真っ赤になって否定しようとしたハヅルだったが、最後まで言えなかった。
目の前のエイが、その一瞬に表情を変えたためだ。灰色の眼が鋭さを増し、佇まいまでも張り詰めたものに一変していた。
「エイ殿?」
彼は、し、と唇に人差し指をあてた。
「……囲まれています」
そのまま、ゆっくりと王女を壁際にかばうように通路側に回り込む。ハヅルの優れた聴力も、そのときようやく彼の言う気配を捉えていた。店舗の間や路地裏にかなりの数が潜んでいる。それも、気配を殺す術を身につけた者たちだ。追いはぎの類いではない。
いつの間にか路地を入って、人の多い大通りから外れてしまっていた。不用意だったとハヅルは内心で舌打ちした。
「姫、こちらへ」
「ええ」
ハヅルは王女の手をつかんで引いた。この王女はこう見えて、それほどか弱い姫君ではない。多少乱暴に扱っても壊れる気遣いはなかった。
長いスカートをつまんで走りながら、王女はしんがりのエイをちらりと見て呟いた。
「ツミのお前よりも早く気配に気付くなんて、不思議な方ね」
「……黙ってらしてください。舌を噛みます」
注意力散漫を指摘された気がして、ハヅルは唇を噛んだ。
路地を駆け抜け、小さな通りに出ようとしたとき、シャラシャラと何本もの剣が鞘から抜かれる金属音と、抑えられた足音が重なって聞こえた。
同時に、前方にようやく相手が姿を見せた。数列に折り重って十人近く。全員一般人のような出で立ちだが、手には各々剣を持ち、統制された動きを見せて、害意を持って打ちかかってくる。
誰何も、何の口上も無かった。三人が何者か、彼らは知っているのだ。
「身の程知らずな連中め」
ハヅルは王女の手を放し、身構えた。く、と体を沈め飛びかかる体勢をとる……
と、そのときだった。
「うわあっ」
襟首をつかまれ、背後に引っ張られた。虚をつかれてバランスを崩してしまう。
何事が起こったのかと首をめぐらせた瞬間、後退した足元すれすれに、小さな鉄針が突き立った。ほとんど垂直に突き立つ鉄針は、建物の上に潜む敵の存在を知らせている。
引っ張ったのはエイだった。
彼女を乱暴に後ろに投げやった反動のまま、彼は前方に飛び出した。
「待っ、」
止める間もなかった。飛び出すと同時に上空から降り注いだ鉄針を、抜刀の勢いで弾き飛ばす。鞘走りの瞬間を、おそらくハヅルの他は誰も視認できていなかった。すさまじい速さだった。
「……っ」
光芒がめまぐるしく動く。それは一点の乱れもなく、機械のように正確に相手を切り裂き、刺し貫き、断ち割っていった。
ハヅルは息を呑んだ。剣のさばきも足の運びも、剣術は正道そのものだが、速さと威力が桁違いだった。『彼は強い』。アハトの声が脳裏によみがえる。
まるで戦鬼だ。だがその言葉から想起される、血に飢えた狂乱とは全くの無縁でもあった。彼の眼差しはひどく静かだった。相手を仕留める瞬間にさえ、息一つ乱さず、声一つ上げず、無感動にただ次の動作に移っていく。
剣術の修練中かのような錯覚を覚えたが、跳ね飛ばされた敵の身体は一つとして五体満足ではなく、エイの走り抜けた痕には比喩ではなく血と臓物の沼が形成されていた。
ハヅルの足が全くの無意識のまま、一歩だけ退けた。
「ハヅル」
「は、」
王女に名を呼ばれ、ついでそっと腕に触れられて、彼女はようやく我に返った。
「すごいわね。兄上がお気に召すのもわかります」
王女は一時も止まらないエイの剣の切っ先を目で追いながら、感嘆の吐息とともに囁いた。それからハヅルに視線を移すと、冷静な口調に戻る。
「ただの強盗ではないようですね」
ハヅルは頷いた。市民に紛れてこれほどの数を手配するなど、ただごとではない。十中八九王女を狙っての計画的な犯行だ。狙いは暗殺か、誘拐か。気まぐれに決まったお忍びの外出に、どうやって合わせたのか……
「行きましょう」
ハヅルは王女の手をとった。
多勢に無勢のように見えたが、敵の誰一人、エイにかすり傷一つ負わせられないでいる。ハヅル一人ならば王女を連れて、敵に背を向け逃げの一手を決め込んだだろうが、この調子ならば相手を捕縛することもできるかもしれない。
「エイ!」
あの集中のさなかに届くかどうかは知れなかったが、ハヅルは一応、彼に声をかけた。
エイの意識が一瞬こちらに向いたのがわかった。突進するばかりだった足運びが、退く形に変化する。
「こっちだ」
そのまま、自分より長身の王女を抱きかかえると、彼女は路地を駆け出した。
途端、足止めを狙ってか鉄針が振ってくる。ハヅルには全て視えていた。両手がふさがっていて弾き返すことはできなかったが、彼女は全てをすれすれで避けきった。
避けきった最後の鉄針が地に突き立つタイミングで、両側の路地から男たちが飛び出す。彼女は身をかがめて鉄針を避けた姿勢から、そのまま勢いづけてドン、と地を蹴った。王女を抱えたまま、ハヅルは男たちの頭上高く飛び上がった。王女は、ぎゅ、とハヅルの首に抱きつく腕に力をこめた。
信じがたい跳躍に唖然と空を向く一人の頭を踏みつけて前方への推進力を加え、無事に彼らの背後に着地する。
我に返って彼女らを追うべく男たちは向きを変えたが、むろん、そうするべきではなかった。エイが彼女たちの後から走って来ていたのだ。彼らの無防備な背に、閃光のような死が容赦なく襲いかかった。
背後から、おめきもなく襲撃者が倒れる音がハヅルの耳に届いた。
前方に路地の間の小さな広場が見えた。
「ハヅル。あの広場に集めましょう」
「はい」
王女の言わんとするところを悟って、彼女は小さく頷いた。王女を地に立たせ、追いついてきたエイに預ける。
そしてまっすぐに立つと、一つ深呼吸をして……
『変化』した。




