序章③
女官の案内も請わずに、王女の私室に無断で入ってきたのは、彼女の双子の兄である世継ぎの王子シェシウグルその人だった。
「まあ兄上」
王女は驚いたのだろうがその素振りを見せず、すっと優雅に立ち上がった。ハヅルも慌てて席を立つ。
王子は彼女らの礼を制するように手を挙げてみせるとそのまま奥に歩いてくる。
彼に続いて見慣れぬ少年が、それから衛兵服のアハトが背後に付き従ってきた。ハヅルは思わず目をそらした。
「昨日は一緒に夕食をとれなくてすまなかったな」
ハヅルの退いた席に、どっかりと座って王子は言った。
「ご多忙の身ですもの。残念でしたけれど、仕方がございませんわ。今晩はご一緒してくださるのでしょう?」
兄の率直な詫びに、ミルハーレン王女は微笑んだ。
「母上にも念を押された。家族がそろった久々の晩餐をすっぽかすとは何たることだ、とな。遊びに行ったとでも思われたらしい」
王女は上品に口元を隠しながら、笑い声を洩らした。
「あら、遊びに行かれたわけではありませんでしたの?」
妹姫の言いぐさに、王子はあきれた顔をした。
「何だ、お前まで疑っていたのか?」
参ったな、と彼は高貴な生まれらしからぬ仕草で頭をかいた。
「昨夜は他にご予定はなかったはずと、母上が仰せでしたもの。ねえアハト? あなたは兄上がどちらに行かれたか知っていて?」
王女は、ハヅルとともに脇に控えて立っていたアハトにちらりと目をやった。
まさか自分に話が向くとは思っていなかったのだろう、アハトはわずかに、誰にもわからない程度に目を瞠った。
「それは……」
「何も言うなよ、アハト」
王子は慌てたように釘をさす。アハトは口を閉ざし、目を伏せた。
「今日は行くとするよ。母上のおかんむりはもうごめんだ」
「楽しみにしております。ところで兄上」
「うん?」
「そちらは……」
王女は笑みを絶やさないまま、所在なげに兄の背後に立つ少年を示した。
「そうだった。今日はこいつを紹介しに来たんだ」
王子は音を立てて立ち上がると、連れの少年に並んで彼の肩を押し出した。
「紹介しよう。俺の親友のエイだ。西のアールネの公弟で、先月から留学生として我が国に来た」
「ずいぶん早くに親友になられましたのね」
微笑んで手をのべた王女に、エイと紹介された少年は緊張した様子で礼をした。
「知り合ったのは昨年だがな。何というか、面白い男なんだ」
な? と王子は彼の肩を叩いた。
「いや、別に面白くはないと、思いますけど……」
エイは困ったようにぼそぼそと呟いた。
「灰色の髪と眼をした、西の国の天才剣士」
王女は何か諳んじるようにそう口にした。
「兄上のお手紙に書かれていたとおりの方でしたので、一目でわかりました」
「え……手紙に?」
何と書かれたものか気になったのだろう。彼の、ほとんど白に近い灰色の双眸が、不安げに王子に向けられた。王子は素知らぬ顔だ。
「兄上が自慢されるだけのことはありますね。お会いできてうれしいわ」
「こちらこそ……光栄です、王女様」
にこりと笑みを向けた王女に、エイは色白の目元を赤く上気させた。
「それで、ハヅルは何をだめだと言っていたんだ?」
「グラリスは久しぶりですので、市街に出てみようと思いましたの。……視察に」
「なるほど視察に、な」
王子は笑った。
「エイ。ミルハについて行ってはどうだ?」
「え? でも……」
王子の突然の思いつきにエイは何事か言い返そうとした。
だが王子は良い考えだと思ったようで、彼に皆まで言わせなかった。
「護衛の替わりだ。ついでに市街を案内してもらうといい。お前、こっちに来てからまだ一度もグラリスの街を見ていないだろう? 俺と一緒では目立って楽しめないしな」
「護衛だなんて。エイ殿は留学生の身で、わたくしを守る立場ではありませんわ」
王女は困惑を隠さずに言った。
「それに、ハヅルがいますのに」
「ハヅルも一応女の子だからな。エイはすごい剣士なんだ。二人そろって守ってもらえばいい」
ハヅルに抗議の余地は与えられず、王女の外出とエイの同行はいつの間にか決定項となっていた。
今は部屋に王女と女官たちを残して、四人は扉の外にいる。王女の着替え待ちである。
扉の前で壁にもたれながら、ハヅルはため息をついた。
「ハヅル?」
隣に立っていたアハトが聞きとがめた。彼女は幼なじみの顔を見上げた。
背が高く鍛えられた体躯の王子やエイと比べるとまだずっと小柄で、いかにも成長途中のひょろりと痩せた体格だ。
だが、先程奥殿で会ったときには気付かなかったが、ひと月半会わない間にまた背が伸びている……ような気がする。年下のくせに、とハヅルはおもしろくなかった。生まれは二ヶ月しか変わらないのだが。
ハヅルの身長はもう一年も前から伸びる気配がないが、アハトは彼女より小さかった子供時代を取り戻すように、ここに来てめざましい成長を続けていた。
「お前も少しは援護してくれてもいいのに。私に二人も面倒みろって言うのか」
ぼそ、と王子の耳に入らぬようにこぼすと、アハトも小声で応じた。
「エイを守る必要はない。王子の言う通り、彼は強い。お前と彼の二人ならば、姫もより安全だろう」
思いもかけない言葉に、ハヅルは驚いて幼なじみを見た。
アハトが他人に対して『強い』など、よほどのことだ。
ほどなくして扉から出てきた王女は妙な格好をしていた。いや、奇妙というのではない。ただ王女が纏うにしてはずいぶん質素な平服だった。一体どこから手に入れてきたのか、王都グラリスで若い娘に流行りの服飾店の標章がのぞいている。
彼女は当然のように並んで立っているハヅルとアハトを、意味ありげに眺めてから、にこりと微笑んだ。
「待たせましたね。参りましょうか」




