第9話「例外」
翌朝、ビルを出たところで二人の男に声をかけられた。「黒瀬湊さんですか」とスーツ姿の三十代くらいの男たちが言った。表情は穏やかだったが目が穏やかでなく、仕事として穏やかにしているという種類の顔だった。
「少しお時間よろしいですか。ご確認したいことがあります」と言われて、断る間もなく、気づいたら黒い車の後部座席に乗っていた。
車が渋谷の街を出て三十分ほど走ると、表札も窓もない白いビルに到着した。入り口に警備員が二人立っていて、廊下の奥の小部屋に案内された。白い壁、白いテーブル、椅子が二脚。
蛍光灯の光が均一で、影がほとんどできなかった。男たちが「少々お待ちください」と言って出ていくと、一人になった。どこかの機械の低い音だけが聞こえた。
ここは何の施設か、あの男たちは何者か、なぜ連れてこられたか。考えれば考えるほど答えが出なかったが、改ざん調査の話が頭にあった。昨日、凪が言っていた。改ざんと権限の行使は別の話だ、と。
昨夜、来ると思っていたから、不思議と逃げようとは思わなかった。
ドアが開いて、グレーのコートを着た男が入ってきた。向かいのビルに立っていた男だ。短髪、四十代、感情を外に出さない目をしていたが、冷たい目ではなかった。何かを長く観察してきた人間の目だった。
テーブルの上に何も置かず、ただ湊を見た。
「黒瀬湊さん」
「……はい」
「統合ログ管理機構、調査部の霧島と申します」
ログシステム全体を管理する政府直轄機関だ。湊の仕事でも名前だけは知っていたが、実際に人間と会うとは思っていなかった。「いくつかご確認したいことがあります。
まず——ここ一ヶ月半、ログの書き換えを行ってきたことは把握しています」と霧島は言った。湊が答えないでいると「改ざんの調査ではありません。
私たちが確認したいのは、それがどのような仕組みで可能だったか、ということです」と続けた。
「あなたのログIDは、八桁ですね」
「……はい」
「通常のログIDは十二桁です」
「わかっています。業務で知りました」
「なぜ、あなたのIDが八桁なのか。わかりますか」
わからないと言おうとしたが、口が開かなかった。自分のログIDが八桁だと知ったあの夜から、答えは薄々見えていた。見えていたけど、見ないようにしていた。
霧島はゆっくりとテーブルの上で手を組んで、「あなたのログを、私たちは五年前から観測しています」と言った。「あなたが最初に鉛筆マークを認識できたとき、私たちのシステムに信号が入りました。
当時はまだ能力が発現していなかったが、今回使用回数が閾値を超えたため、こうして接触することになりました」と。
それから、湊をまっすぐ見た。「あなたのログのメタデータに、NULLが入っていることは確認しましたか」「……はい」「生成元がNULLというのは、どういう意味かわかりますか」
黙っていると、霧島は一度だけ息を吐いて静かに言った。
「黒瀬さん。あなたは、人間じゃない」
部屋の低い機械音だけが、続いていた。
人間じゃない。その言葉を頭の中で繰り返した。意味はわかった。でも実感がなかった。「……記憶は」と声が出た。思ったより落ち着いた声だった。「記憶は、あります。全部」
「経験は否定しません」と霧島は言った。「あなたが感じてきたことはすべて実在する。ただ——」「ただ、何ですか」「続きは、次の話し合いで。今日は、この事実をお伝えするだけにしようと思います」。
なぜかと聞くと「処理するのに、時間が必要だと思うので」と返ってきた。
感情を出さない目だと思っていたが、今は少し違って見えた。気遣いのようなものが、かすかにあった。
「一つだけ、聞かせてください。白羽凪さんのことを、あなたたちは知っていますか」
霧島の目が、わずかに動いた。「知っています」「彼女は何者ですか」「それは、彼女自身に聞いてください」。
答えにならない答えだったが、霧島がそう言ったということは凪のことを知っていて、凪がただの社員ではないということも知っている。
立ち上がって「帰っていいですか」と聞くと「今日は、はい」と言われた。「また来るんですか」「話し合いたいことがあります。準備ができたら、連絡します」。
施設を出ると夕方になっていた。空が橙色だった。人間じゃない、という言葉がまだ頭の中でぐるぐるしていたが、思ったより泣きたくなかった。どこかで、知っていた気がするから。




