第8話「観測者」
社内に噂が流れた。統合ログ管理機構がログの改ざん調査を始めているらしい、という話だ。
ログ社会においてログの改ざんは重大な違法行為で、過去にも摘発事例はあったが今回は規模が大きいらしく、複数の企業に調査が入っているという。「改ざん痕跡を検知するシステムを新しく入れたらしいですよ。
普通は改ざんなんて不可能なのに、何か抜け穴があったんじゃないかって」と同僚が言った。
湊はそれを聞きながら、表情を動かさないようにするので精一杯だった。改ざん。自分がやってきたことは、改ざんだ。やめなければと強く思った。でもその夜も、ログを開いた。
考えるより先に手が動いていて、いつも通り鉛筆マークを探して何かを直して更新完了の表示を見て少しだけ安心した。習慣というのは恐ろしかった。
翌朝、出社するとき、ビルの向かいに人が立っているのに気づいた。グレーのコートを着た男で、四十代くらい、短髪で表情が読めない目をしていた。こちらを見ているのか見ていないのかわからなかったが、なんとなく気になった。
昼休みにコンビニへ降りると、また同じ男が少し離れた場所に立っていた。偶然かもしれない、渋谷のビル街だ。でも目が合った気がした。
その瞬間、スマホが震えた。通知ではなかった。視界に文字が浮かんだ。ログシステムからの、自動警告だった。
【警告:管理権限の無断使用が検出されました】
【対象ログID:XXXXXXXX】
【使用回数:規定値超過】
【処理:記録中】
立ち止まった。足が動かなかった。周りの人間は誰も見ていない、視界の投影は本人にしか見えない。管理権限。自分のやってきたことがそう定義されている。ログ管理のシステム側から、管理権限の行使として認識されている。
ユーザーが改ざんしたのではなく、権限を持つ存在が使ったと、そう記録されている。改ざん調査の話と管理権限という言葉が、頭の中でうまく噛み合わなかった。
コンビニには入らずにオフィスに戻ると、凪が湊の顔を見て何かを察したように声を落として言った。「大丈夫ですか」。
「ちょっと気分が悪くて」と答えると「そうですか」と言って、湊が席に着くのを待ってから「気をつけてください」とだけ言った。
「凪さん」と呼ぶと「はい」と返ってきた。「さっき、警告が来ました。管理権限の無断使用、って」と言うと、凪は少し間を置いた。
「見えましたか、その警告」
「視界に。本人にしか見えないやつです」
「そうですか」
「意味がわかりますか。管理権限、って」
「無断で変えれば、改ざんです。けれど、権限を持つものが変えたなら、システムはそれを処理として扱う。結果は同じでも、記録上の意味が違います」と凪は言った。
「あなたがやってきたことが、改ざんとしてではなく権限の行使としてシステムに認識された、ということだと思います」と。
権限の行使。権限を持つ存在。それが自分だということか、と言おうとして、言えなかった。凪は答えなかった、答えないことが答えだった。
その夜はほとんど眠れなかった。夜の渋谷の光が部屋に薄く差し込んでいて、グレーのコートの男の顔が目を閉じると浮かんだ。管理権限、という言葉が耳の中に残っていた。
自分はいったい何をしてきたのか、そして自分はいったい何者なのか。ログIDが八桁で、メタデータにNULLがあって、権限の行使として記録されている。普通の人間ではない何かだ。
その何かが何なのかはまだわからなかったが、その夜初めて、近いうちに誰かが接触してくると確信した。あのグレーのコートの男が、あるいはそれ以外の誰かが。怖いのか、それとも待っていたのか、自分でもよくわからなかった。




