第10話「ログそのもの」
翌日、湊は普通に出社した。他に何をすればいいのかわからなかった、というのが正直なところで、人間じゃないと言われた翌朝にどう過ごせばいいのかの正解がわからないから、いつも通りにした。
電車に乗って渋谷で降りてビルのエレベーターを押してデスクに座って画面を立ち上げた。同僚が「おはようございます」と言ったので「おはようございます」と返して、それだけで午前中が過ぎた。
昼、凪が隣に来た。「顔色が悪いですよ」と言われて、「昨日、会いました。霧島という人に」と答えた。凪は少し黙って、「少し話せますか」と言った。
二人で屋上に上がった。ビルの屋上は狭くて冷たい風が吹いていて、渋谷の街が下に広がっていた。「霧島さんに何を言われましたか」と凪が聞くので「人間じゃない、と」と答えると、凪は何も言わなかった。
驚いた様子もなかった。
「知っていましたか」
「うっすらと、は」
「いつから」
「ログIDを見たときから。八桁というのは人間の番号体系ではありません。わたしはログがないので、その辺りのことを調べていた時期があって」
凪はログがない自身のことを理解するためにログの体系について詳しくなったと言った。「怖いですか。人間じゃないと言われて」と聞いてきた。湊は少し考えて「怖い、というより、腑に落ちる感じがあります」と答えた。
「変な言い方ですけど」と付け加えると「変じゃないと思います」と返ってきた。
「記憶はある、感情もある、でもどこかずっと、自分が何かからはみ出しているような感覚があった。就活でも、職場でも。空気を読みすぎて、自分がどこにもいない気がしていた。それが、そういうことだったのかもしれない」
凪は黙って聞いていた。「霧島さんに、続きはまた話し合うと言われました」「行きますか、その話し合いに」「行くと思います」「なぜですか」「自分のことを、知りたいから」。凪は頷いた。
その日の夕方、霧島から連絡が来た。翌日、同じ施設に来てほしいという内容だった。
今度は一人で向かった。白いビル、白い廊下、白い部屋。昨日と同じ空間が今日は少し違って見えた。怖さより好奇心の方が大きかった。霧島は同じ椅子に座っていて、薄いファイルを一冊持っていたが開かなかった。
「昨日は突然のことで、失礼しました」「いえ」「今日は、もう少し詳しくお話しします」。
「あなたは生物学的な人間ではありません。ログシステムが生成した、観測存在です。ログシステムは膨大なデータを扱いますが、記録するだけでなく整合性を保つための観測機能が必要になる。システムが高度化するにつれてその観測機能は自律的な判断を持つようになった。あなたは、その機能が人間の形を取って出力されたものです」
湊は手を見た。普通の手だった。傷もあるし爪もある。昨日コーヒーカップを持ったし今朝は歯を磨いた。「記憶は」と聞くと「実在します。あなたが経験してきたことはすべて本物です。あなたは完全な幻ではありません。
社会の空白に最低限の記録だけを仮生成しながら存在していた。周囲の人間もあなたを認識していた。親も、友人も、学校も、すべて実在しています。ただし市民データベース上の正式な人間としては登録されていなかった。
住民票や就活の記録は仮生成されたものです。あなたはシステムの内側から、人間の形で観測していた存在でした」
「では、俺が書き換えてきたものは」「管理権限の行使です。本来あなたが持っているはずの機能が、就職活動の失敗をトリガーに発現した」「権限を、ずっと持っていたということですか」「潜在的には。ただ意識的にアクセスできるようになったのは最近のことです」
窓のない部屋で長い時間黙っていた。生まれてからの記憶が浮かんだ。親の顔、学校の廊下、友人と笑った記憶、失敗して落ち込んだ夜。全部あった、全部自分のものだと思っていた。
「白羽凪さんのことを、知っていますか」と聞くと「知っています」と霧島は言った。「彼女は何者ですか」「それは、彼女自身に聞いてください」。答えにならない答えだったが「今日、彼女にも来てもらうつもりでした。
ただ、まずあなたと話してからにしようと思って」と霧島は続けた。
「今は、理解できていますか」「どう思いますか、ご自身で」「全部ではないけど、受け入れはできています」「では、お呼びしましょう」
霧島は立ち上がってドアを開けた。廊下に向けて小さく頷いた。
ドアの外に、白羽凪が立っていた。




