第11話「消された人」
凪は部屋に入ってきて、向かいの椅子には座らずに湊の隣に座った。霧島はそれを見て少し席を引いて、二人に向き合うような位置になった。
「来られるとは思っていませんでした」と湊は言った。「わたしにはログがないので、追跡されません。来ようと思えばいつでも来られる」と凪は答えた。
霧島から連絡があったこと、湊が来ることと凪にも来てほしいということを告げられたと言った。湊が自分のことを受け入れてもらう時間が必要だと判断して今日にしたと霧島が補足した。
「……知っていたんですか。俺のことを」と湊は凪に聞いた。「うっすらとは」「最初から?」「三日目から。あなたがわたしのログを調べたとき、あなた自身のログIDを少し見ました。桁数が違った」「全部わかっていたわけじゃないです」と凪は静かに言った。「ただ、あなたが普通ではないと思った。そして、ログをずっと書き換えていることも、なんとなく気づいていた」
「なぜ言わなかったんですか」「言えることじゃなかったから。それに、あなたが自分で気づく方が、よかったと思っていたから」
湊はうつむいた。「止めればよかった」「止めようとしました。でもあなたは止まらなかった」「……そうですね」「やめられなかったのは、責任感からですか。
それとも、やめ方がわからなかったからですか」「……わからなかったんだと思います。選ぶことに慣れていなかった。誰かのためにやっているうちに、自分が何をしたいのかわからなくなっていた」と湊は答えた。凪は頷いた。
霧島が口を開いた。「白羽さんのことを話してもいいですか」。凪はテーブルの面に目を落とした。「はい」
「白羽凪さんのログが五ヶ月前から始まっているのは、それ以前のログが削除されたからです。本人の意志ではなく、統合ログ管理機構の実験によって。三年前にログを削除されてから、白羽さんはしばらく制度の外側で生活していました。五ヶ月前、住民票移動をきっかけに、最低限のログだけが再生成された。だから記録はその時点から始まっています」
湊は凪を見た。凪は正面を向いていた。表情は静かだったが、静かすぎる、という静かさだった。「本人の同意は?」「ありませんでした」
「それは——」「許されないことです」と霧島は言った。声に変化はなかったが、その言葉だけ少し重かった。「そう認識しています。白羽さんにはすでに謝罪しました。それで消えるものではない」
凪はまだ正面を向いたままだった。湊はそっと「……つらかったですか」と言った。凪は少し間を置いた。「最初は、自分が誰かわからなくなりました。記録がなければ存在を証明できないと思っていたので。でも存在していた。ちゃんと、いた」「それで、アシスト・コードに」「記録のない人間として生きていく方法を探していました。あなたに会ったのは偶然です」
「俺に会って、どう思いましたか」「変な人だと思いました」「変な人」「ログを書き換えながら、どんどん苦しそうになっていく人。でもやめられない。自分で選べないでいる。そういう人だと思った」「そうですね」と湊は言った。「そうでした」
霧島が続けた。「黒瀬さん。あなたに、二つの選択肢があります」「聞きます」
「一つ目。あなたをログシステムに正式に登録する。人間のIDと同じ体系で市民として記録に組み込む。管理権限は封印します。以後、普通の人間として生きていただく」「二つ目は」「あなたの権限を使って、ログシステムそのものにアクセスする。システムの根幹に触れれば、強制的なログ削除やデータ操作の仕組みを止めることができる。白羽さんのような被害者を出さないための変更も、できる。ただしその場合、あなた自身の存在がシステムと同化して、消滅します」
静かな部屋だった。空調の音だけが低く続いていた。湊は凪を見た。凪は湊を見ていた。「どちらでもいいと思います。わたしはどちらでも、あなたのことを否定しません」「でも凪さんは——」「わたしの意見は関係ない。これはあなたが選んでいい」
「一つだけ聞いていいですか」「何ですか」「凪さんは今、幸せですか」
凪は少し驚いた顔をした。その表情が少し人間らしかった。「……幸せかどうかはわかりません。でも、ここにいる、という感覚はあります。記録がなくても、ちゃんといる」「それで十分ですか」「十分かどうかも、わかりません。ただ、それがわたしの今です」
湊は机の上に手を置いて、自分の手を見た。これまでの人生で、自分で選んだことがどれだけあったか。空気を読んで、相手が求めるものを選んで、失敗しないように選んで、ログを書き換えて選んだことにして。
一度でも、本当に自分で選んだことがあったか。
「少し考えさせてもらえますか」「もちろんです」と霧島は言った。「急ぎません」「どのくらい時間がありますか」「今夜、答えをいただければ」
湊は頷いた。三人でしばらく、静かな部屋にいた。誰も何も言わなかったが、その沈黙は悪い沈黙ではなかった。




