第12話「ログアウト」
施設を出て、湊は一人で歩いた。どこに向かうともなく渋谷の街を歩いた。夕方の人の流れに混ざって、信号を渡って、路地を曲がって、また大通りに出た。
考えながら歩いた。一つ目の選択肢、登録されて権限を封印されて普通の人間として生きる、記憶も感情もそのまま残る、仕事も続けられる、凪ともまた話せる。
二つ目の選択肢、システムにアクセスして強制削除の仕組みを止めて、消える。どちらが正しいか、という問いではなかった。どちらを選ぶか、という問いだった。
川沿いの道に出た。水の音がして、欄干に手をついて下を見ると暗い水が流れていた。凪のことを考えた。ログを削除された、本人の同意なく、自分が誰かわからなくなった、それでも存在した、ちゃんといた。
その強さがまだよくわからなかったが、一つだけわかることがあった。凪は、記録がなくても存在できた。湊は、記録そのものだ。ならば湊が消えることは、記録の中に戻ることかもしれない。
外に出ていたものが、もとの場所に帰るだけのことかもしれない。
——それ、本当にあなたの選択?
凪の声が頭の中で鳴って、今度は答えが出た。湊はスマホを出して、霧島に連絡した。
「決めました」
「聞かせてください」
「二つ目にします」
短い沈黙があった。
「理由を、聞いてもいいですか」
「白羽さんみたいな人を、これ以上出したくない。でもそれだけじゃないです。この選択を、自分でしたかった。それだけです」
「……わかりました。では、明日の朝に来てください」
電話を切った。川の水が暗い中で光を反射していた。
自分で選んだ、という感覚が、今まで知らなかった種類のものだった。
翌朝、施設に向かう途中で凪から連絡が来た。「わたしも行きます」とだけ書いてあった。施設の前で落ち合った。凪は昨日と同じ服を着ていた。「来てくれたんですね」「あなたが選んだことを、見ていたかったので」
二人で中に入った。案内されたのは昨日とは別の部屋で、正面に大きなモニターがあって無数の文字列が流れていた。これがログシステムの内部だとすれば、自分はその中から来た存在だということになる。
湊はモニターの前に立った。霧島がシステムへのアクセス方法を説明したが、湊には説明される前からわかっていた。触れれば操作できる気がした、手が知っていた。
凪が扉の近くに立っていた。湊は振り返った。
「ありがとうございました」「何がですか」「核心を突いてくれたこと。やめられなかった俺に、ちゃんと問いかけてくれたこと」
凪は答える前に、一度だけ息を吐いた。「……わたしこそ。あなたがいてくれて、よかった。ログがない人間として、この社会に一人でいるのは、思ったよりずっと心細かったので」
少し笑った。うまく笑えたかどうかはわからなかったが、できる限り笑った。「凪さん」「はい」「俺がいなくなっても、ちゃんといてください。ここに」。凪は一瞬だけ目を細めてから静かに頷いた。「います」
モニターに向き直った。指をデータの流れに差し込むような感覚で触れると、システムが反応した。
誰かの出生記録。誰かの失敗。誰かの謝罪。誰かの評価。消えないはずだった過去が、光の束になって流れていた。そのすべての奥に、自分もいた。
湊は強制削除の仕組みを探した。あった。それを無効化する処理を書いた。複雑ではなかった。触れればわかった、権限があるから抵抗がなかった。次に、観測存在としての自分の存在コードを探した。あった。
消す前に少しだけそれを見た。長い文字列だった、意味は読み取れなかったが、これが自分なのだと思った。これが、黒瀬湊だったものだ。
削除コマンドを入力した。システムが揺れた。体が薄くなっていくような感覚があって、足元から透明になっていくような。痛みはなかった、怖くもなかった、静かだった。
最後に思ったのは、こんなことだった。
——自分で選べた。それだけで、十分だった。
部屋の光が白くなって、それから、何もなくなった。
モニターの文字列が止まった。霧島は画面を確認した。強制削除システムの停止を示すログが淡々と記録されていた。
凪は扉の近くに立ったまま、空になった部屋を見ていた。さっきまで湊がいた場所に、何もなかった。
「白羽さん」と霧島が振り返った。「……少し待ってください」。霧島は黙った。
凪はゆっくりと部屋の中央まで歩いて、湊がいた場所の近くに立って、少しだけ目を閉じた。変な人だった、と思った。
ログを書き換えながらどんどん苦しそうになって、でもやめられなくて、自分で選べないでいた人が、最後に、自分で選んだ。それが凪にはひどく大切なことに感じられた。うまく言葉にならないけれど、大切だった。
自分は記録を消された。記録がなければ存在できないと思っていた。でも存在していた。あの人は記録に存在しなかった。記録の外側から、ちゃんと何かに触れていた。そして記録を変えるために、消えた。
凪はゆっくりと目を開けてスマホを取り出した。視界に、何も浮かばなかった。強制削除システムの停止に連動して、個人ログの常時投影も一時的に遮断されていた。それが一時的な停止なのか恒久的な変化なのか、わからなかった。
でも今この瞬間は、景色がただの景色だった。
施設の外に出ると夕方の空が広がっていた。光が水平に差し込んで、ビルのガラスに反射していた。誰かが通り過ぎた。ログの文字が頭上に表示されることもなく、ただ人が歩いていた。
凪は少しだけ立ち止まった。胸の中に、うまく言葉にできない何かがあった。悲しいのとは少し違う、寂しいのとも少し違う。強いていえば——
「……誰かに、選ばれた気がする」
ひとりごとのようにつぶやいた。答える人はいなかった。でもその言葉は夕暮れの空気の中にしばらく残って、それからゆっくりと消えた。




