第5話「救ったはずの誰か」
その週の後半、湊は社内でおかしな空気に気づいた。
加藤という男がいた。営業部の三十代で、声が大きくて仕事ができる、数字を持ってくる人間として上から評価されていた。でも木村に対してだけ、何かが違った。木村は二十代の女性社員で加藤と同じ営業チームにいる。
ミーティングで木村が発言するたびに加藤が被せて話し、木村の意見はいつも流れた。資料に誤りがあると「確認不足」とチーム全員にメールで指摘し、昼休みに木村が孤立していることが増えた。
ログ社会では職場内のやり取りも記録されるが、加藤は巧妙だった。言葉の選び方が上手で、表向きは「指導」や「フィードバック」の範囲に収まっていた。
一つ一つの言動を切り取れば問題はないが、積み重なると何かが見えてくる。木村のログを業務の延長で確認すると、信用スコアが少しずつ下がっていた。「業務上のミス記録(軽微)」が積み重なっていた。
それが加藤によって意図的に作られたものに、湊には見えた。
ある朝、木村が洗面所で泣いているところを偶然見てしまった。出てきた木村と廊下で目が合って、木村は慌てて顔を背けた。
気づかれないようにそっと引き返したけれど、赤くなった目と無理に笑おうとして失敗した口元が頭から離れなかった。
昼休み、一人でオフィスの隅に移動してスマホを開き、加藤のログを検索した。鉛筆マークはある。
加藤が木村に送った業務メールのログ、ミーティングでの発言ログ、業務上のやり取りの記録を見ていくと、確かに不自然なパターンがあった。
意図的に木村の失敗を誘導しているように見える箇所が三件あって、たとえば木村だけに誤った情報を伝えていた記録があるのに訂正した記録がない。湊はそれを事実に基づいた形で修正した。
「指導」ではなく「不適切な業務干渉」というフラグを立て、加藤の信用スコアが下がるように評価区分を変えた。
翌日、加藤は上司に呼ばれた。ログの再参照で指導の内容に問題があると判断されたらしく、営業チームの担当割り当てが変わり、木村と加藤は別のチームになった。
木村は少し表情が明るくなって、ランチを一緒に行く相手ができたようで翌日には笑い声が聞こえた。
ただそれは、午前中だけだった。
午後、総務から全社に連絡が入った。担当変更に伴うプロジェクトの再編で、いくつかの案件が別のメンバーに引き継がれることになったという内容だった。その中に、田中の名前があった。
田中は三十代の中堅社員で、湊とは直接関わりがなかったが、真面目で誰にでも丁寧な人だということは知っていた。いつも早く来て、いつも最後まで残っている。
田中が担当を外されたのはチームの再編でポジションが余ったからで、数合わせのあおりを食った形だ。湊が加藤のログを書き換えたことで組織のバランスが変わって、その皺寄せが田中にいった。
夕方、田中が一人で帰り支度をしているのを見た。田中は特に何も言わず、静かに荷物をまとめて誰とも目を合わせずに立ち上がり、エレベーターのボタンを押して扉が閉まった。
木村を助けようとして、田中を傷つけた。そういうことが、起きていた。一つのログを変えれば別のどこかがずれる。現実は連鎖していて、自分はその連鎖の全部を読みきれない。
わかっていた、わかっていたけど考えないようにしていた。
アパートに帰り着いても、しばらく電気をつけなかった。暗い部屋の中で、木村の笑い声と、田中のエレベーターが閉まる瞬間を交互に思い出していた。
どちらも本当のことで、木村が楽になったのも田中が傷ついたのも、どちらかだけを取り出して「よかった」とも「悪かった」とも言えない。その夜は、アプリを開かなかった。




