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ログアウトできない世界で、俺は一度もログインしていなかった  作者:


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第3話「ログにない女」

 入社三日目、湊はひとつの違和感に気づいた。オフィスの端、窓際の席に座っている女性のことだ。


 白羽凪、という名前は初日の朝礼で聞いた。データ整理とアーカイブ管理を担当しているらしく、静かな人で、あまり人と話さない。でも聞かれたことには答えるし仕事は正確だと先輩社員が言っていた。


 「あの人はちょっと不思議な感じがするけど、仕事はできるから」とも。


 淡い茶髪に色素の薄い肌で、制服はきちんと着ているけれど、なぜかほんの少し浮いて見える。現実の景色の中に別の質感のものが混ざっているみたいな、そういう感じ。表情は穏やかで、誰かと目が合っても慌てない。


 どこか遠くを見ているような目をしていることが多かった。その感じが、湊には気になった。


 業務でわからないことがあって凪の席に近づいたのは三日目の午後で、「すみません、このログ参照フォーマット、どこに保存してあるか教えてもらえますか」と聞くと、凪は手を止めて顔を上げた。


 驚いた様子はなく、まっすぐに湊を見て「共有フォルダのB04です。検索より直接開いた方が早いです」と答えた。


「ありがとうございます」


「初めての業務ですか」


「はい。まだ全部把握できてなくて」


「わからないことがあれば聞いてください」


 それだけ言って、凪は画面に視線を戻した。会話はそれで終わった。短かったが、声が落ち着いていた。責める感じも媚びる感じも何もなく、ただ用件だけがあった。


 自分の席に戻りながら、湊はなんとなくスマホを開いた。業務ではなく習慣のように、一般向けの公開ログ検索アプリを起動した。


 名前を入れれば公開範囲のログが表示される普通の機能で、「白羽凪」と入力すると画面が切り替わった。


【公開ログ参照 対象:白羽凪(24歳)】


記録件数:4件

直近:現職(株式会社アシスト・コード)入社 ——三ヶ月前

直近:転居 ——四ヶ月前

直近:前職退職 ——四ヶ月前

直近:住民票移動 ——五ヶ月前


それ以前:記録なし


 四件。


 この社会に生きている二十四歳の人間のログが、四件しかない。おかしい、普通ではない。人間は生まれた瞬間から記録される。病院での出生ログ、健診の記録、学校の出席情報、購買履歴、発言履歴、移動履歴。


 二十四年生きていれば数万件あって当然で、湊自身のログもスクロールが止まらないほどある。なのに凪のログは五ヶ月前から始まっている。それより前が、ない。まるで五ヶ月前に突然この世界に現れたみたいに。


 長期海外在住者のログは国内データベースに反映されにくいケースがあるが、それでも帰国後の記録がこれだけ少ないのは説明がつかない。もう一度だけ凪の席の方を見ると、ちょうど凪が視線を上げていて目が合った。


 慌てて視線を外し、スマホをポケットにしまって画面に向き直ったが、業務の続きをやろうとして手が止まった。


 なんで、ログがないんだろう。


 システムのエラーかもしれないし特別な事情があるのかもしれないと思いながら、どうしても引っかかりが消えなかった。


 業務を終えて帰り支度をしていると、凪が隣に立っていた。


「黒瀬さん。さっき、わたしのログを調べていましたか」


 心臓が止まりかけた。「……公開ログ検索で、名前を入れただけです。業務で使い方を確認してただけで、特に——」と言いかけると、「構いません」と凪は静かに言った。


 責めているわけでも怒っているわけでもなく、ただ事実を確認するような声だった。


「ただ、驚きましたよね。あまり記録がないので」


「……少し、不思議に思いました」


「そうですね」


 凪は少し間を置いた。帰り支度の音が、二人の間を遠く流れていた。それから、湊の目を見た。


「黒瀬さんは、自分で選んでここに来たんですか」


 唐突な問いだった。「……はい」と答えると、「その選択は、本当にあなたのものでしたか」と返ってきた。湊はうまく答えられなかった。凪は追い打ちをかけるでもなく、ただ静かに湊を見ていた。


「……それ、本当にあなたの選択?」


 それだけ言って、凪は先に歩いていった。湊はしばらくその場に立ったままでいた。胸の中に、小さくて鋭いものが刺さっていた。


 帰り道の電車で、窓に映る自分の顔を見ながらずっとその言葉を反芻していた。この仕事に就いたのはログを書き換えたからで、それが選択と呼べるのか。


 面接でも本音を言わずに相手が求める答えを言った、それが選択と呼べるのか。そもそも自分はずっと、誰かに求められる答えを選んできた。失敗しないために、傷つかないために、誰かに嫌われないために。


 自分が本当に何を選びたいのか、聞いたことすらなかったかもしれない。


 帰宅して部屋の電気をつけてテーブルにスマホを置いたとき、マイログアプリのアイコンが目に入ったが、その夜だけは開かなかった。


 翌朝、凪は何事もなかったように席に座っていた。「おはようございます」と言うと「おはようございます」と返ってきて、それだけだった。でも湊の中では、なかったことにならなかった。


 凪のログが四件しかないことと、自分がログを書き換えられることが、どこかでつながっている気がした。どこでつながるのかは、まだわからなかった。

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