第2話「一行の奇跡」
翌朝、湊は早起きした。昨夜はほとんど眠れなかった。
布団の中でスマホを握りしめて「ログ更新完了」の画面を何度も見返し、夢じゃないかと思って何度も再起動したけれど、鉛筆マークはそこにあって、変えた文章は変わったままだった。
再面接の連絡は本物だった。
午後二時、株式会社アシスト・コード、渋谷ビル十二階。スーツを着て靴を磨いて、鏡の前で三回深呼吸した。昨夜眠れなかったせいで顔色が少し悪かったが、行かないわけにはいかない。電車の中で何度もスマホを確認した。
鉛筆マークは、まだある。
エレベーターを降りると明るいオフィスが広がっていて、受付の女性に名前を告げるとすぐに応接室に案内された。
お茶が出てきて、湊はそれを両手で持って心を落ち着けようとしたが、革張りのソファの感触がかえって落ち着かなかった。
「お待たせいたしました、黒瀬さん」と採用担当の男性が入ってきた。三十代半ばくらいで、穏やかな目をしていた。「先日は大変失礼しました。ログ情報の参照に誤りがあったようで。
改めて、よろしくお願いします」と言われて、湊は頭を下げながら胃のあたりがざわつくのを感じた。誤り、誤りということにしてくれている。
面接は三十分で終わった。志望動機とアルバイト経験とログ関連の知識について聞かれ、湊はひとつひとつ丁寧に答えた。失敗しないように、空気を読んで、相手が求めていそうな言葉を選んで。
就活に費やした一年半で身についた処世術で、これが本当の自分なのか演じている自分なのかもうよくわからなかったが、面接ではこう話せばいいというパターンが染みついていた。
途中で「弊社の業務はログを身近に扱う仕事ですが、ログ社会をどう思いますか」と聞かれ、湊は「記録が社会の信頼を支えていると思います。ただ、その記録が人を縛る側面もある、と感じています」と答えた。
面接官が少し表情を動かして「興味深い視点ですね」と言った。
帰り際、受付を出たところでスマホが震えた。採用内定のメールだった。エレベーターの中で読んで、「ぜひ一緒に働きたい」という言葉を目で追いながら、外に出ると渋谷の雑踏が湊を包んだ。
信号が変わって人が流れていく、いつもと同じ景色なのに今日だけ少し浮いて見えた。
内定した。本当に、内定した。
喜びなのか別の何かなのかよくわからない感情が胸の中でぐるぐるしていて、足が少し震えていた。信号待ちの間に、手のひらに爪が食い込んでいるのに気づいた。
本当に俺の実力で通ったわけじゃない、という考えが浮かんだが、すぐに頭の奥に押しやった。いい、とにかく今はいい。三社連続で落とされ続けた自分がようやく内定を取れた、それだけで十分じゃないか。
誰かに迷惑をかけたわけでもない。消せるはずのなかった記録を消しただけだ。
帰りの電車で、もう一度マイログアプリを開いた。鉛筆マークはまだそこにあって、他の記録の横にも全部表示されている。使おうと思えば今すぐにでも使えるのだ、どの記録でも。
試しにスクロールすると、バイトの記録にも大学の欠席記録にも古い購買履歴にも、全部鉛筆マークがある。湊はそっとアプリを閉じて、窓の外に流れる夜の街を眺めた。
車窓に薄く映る自分の顔は疲れた目をしていたが、今日は少し違う疲れ方だった。
一週間後、湊は株式会社アシスト・コードに入社した。業務内容は企業や個人向けのログ申請サポートで、信用スコアの改善コンサル、採用時のログレポート作成代行、ログ参照権限の申請手続きなどを扱う。
ログが社会インフラになった今、その周辺業務は地味だが需要があって、クライアントのほとんどは自分のログに何かしら問題を抱えていた。
渋谷ビル十二階のオフィスは思ったより広く、デスクが整然と並んで奥の窓から渋谷の街が見えた。午前中だけで名刺を十枚は受け取り、名前を覚えるのに必死だった。
初日、総務の人間から社内システムの説明を受けながら、湊はぼんやりと思った。ログを扱う仕事に、ログを書き換えられる自分が就く。笑えない偶然だと思いつつも、同時にどこか居心地の良さも感じていた。
ここにいれば、ログのことを考える理由ができる。自然に、違和感なく。
研修を担当した先輩社員が「自分たちの仕事が、そういう人たちの助けになる」と言いながらクライアント事例を紹介するのを聞きながら、湊は少し苦しかった。
クライアントは申請と審査というプロセスを踏んで、それでも救われないことが多い。でも自分は勝手に一人でログを書き換えている。助けているつもりで、ルールの外にいる。
ルールが間違っているかもしれない、と思いながら、表情には出さなかった。
デスクに座って画面を立ち上げたとき、画面の隅に鉛筆マークが光るのを湊はちゃんと見ていた。




