第1話「ログはいつも残る」
通知が届いたのは、昼過ぎの静かな時間だった。黒瀬湊はスマホの画面を三秒ほどぼんやりと見つめてから、読まなくてもわかっていると思いながら開いた。タイトルに「合格」という文字がない時点で、もう答えは出ている。
差出人:株式会社アシスト・コード 採用担当
件名:選考結果のご通知
本文は短かった。「慎重な検討の結果、今回は採用を見合わせることになりました」という一文と、定型の締め言葉と、最後にリンクが一つ。湊はそのリンクを押した。
【採用見合わせ理由の詳細(ログ参照)】
画面が切り替わると、薄い文字が視界に浮かんだ。スマホの表示ではなく、空中に。それがこの社会の仕様で、重要な通知は端末の画面だけでなく視界そのものに投影される。
半透明の白い文字が現実の景色に重なって現れる仕組みだ。慣れた人間は気にしない。湊も、もう慣れていた。ただ今日の内容は、慣れていなかった。
【公開ログ参照 対象:黒瀬湊(25歳)】
三年前:匿名掲示板への不適切投稿(記録あり)
信用評価:C−
採用適性:基準値未達
三年前、と視界の文字を目で追いながら、湊は目を閉じた。
覚えている。就活に失敗し続けていた大学三年の冬、深夜に布団の中でスマホを握りしめて打ち込んだ文章のことを。誰も見ていない掲示板に、誰かへの八つ当たりを書いた。あのときは本当に追い詰められていた。
連続で落ち続けて、自分に何も価値がないような気がして、どこかに吐き出さないといけなかった。名前なんて出していなかったのに、ログは残っていた。ログは、いつも残る。
この世界では、人間の行動はすべて記録される。発言、購買、契約、評価、失敗、成功——その全部が「ログ」として蓄積され、本人だけが見られるものもあれば、企業や行政が参照できるものもある。
就職活動の選考では申請した企業が詳細ログにアクセスする権限を得るから、三年前の深夜の書き込みは、きちんと残っていた。
内定は三社連続でこれで消えた。
湊はスマホをテーブルに伏せた。怒りも悲しみも出てこなくて、ただどこか遠いところで何かが静かに詰んだ感覚だけがあった。将棋の盤面で、もう逆転の手がどこにもない状態。
どこをどう動かしても詰みに向かっていくだけの、あの感覚。
就活を始めて一年半、丁寧な言葉を選んで、当たり障りのない志望動機を書いて、面接では笑顔を作って、空気を読んで、相手が求めていそうな自分を演じ続けたのに、三年前の自分が引っかかる。
過去の自分が、現在の自分の足を引っ張り続けている。
消せない。消せる機能は、この社会にはない。
六畳のアパートで、カーテンを閉めたまま、湊はスマホを拾い上げた。どうせ暇だと思いながらアプリを開く。
自分のログを確認するアプリ、「マイログ」と呼ばれる、この世界に生きるすべての人間が持っているもので、本人だけが自分の全ログをリアルタイムで閲覧できる。
誰かに何かを言われるより先に、自分の記録を自分で確認する手段だ。
スクロールすると、就活の記録、バイトの記録、大学の出席率、古い購買履歴、三年前の投稿が次々と出てきた。全部そのまま、何も消えていない。ため息をついて画面をじっと見ていたとき、三年前の投稿のところで指が止まった。
内容を見ると自分でも顔をしかめるような文章で、当時の怒りと疲弊がそのまま文字になっていた。あの夜の自分を責める気にもなれないけれど、これが今の自分を縛り続けているという事実は重かった。
そのとき、気づいた。三年前の投稿の横に、小さなアイコンが表示されている。今まで、なかったはずのもの。鉛筆のマークだった。
見間違いかと思って画面を閉じて、もう一度開いた。まだある。指でゆっくりタップすると、画面が一瞬ちらついて、テキストフィールドが開いた。三年前の投稿の文章がそのまま入力欄に入っていて、カーソルが点滅している。
……編集できる?
意味がわからなかった。ログは記録で、変えられないから記録なのであって、それがこの社会の前提で、誰もそこを疑わない。企業も行政もログを信頼するのは、それが絶対に改ざんできないからだ。
改ざんは重大な違法行為で、発覚すれば信用スコアが底をつく。技術的にも不可能だと言われている。なのに、鉛筆マークがある。
バグかもしれないし、アプリの誤表示かもしれないし、どうせ保存しようとしたらエラーになるだろうと思いながら、湊は文章を書き換えてみた。三年前の投稿を、何でもない一文に変えた。
「近所の定食屋が閉まっていた」という、本当に何でもない文章に。
保存ボタンを押すと、画面がまた、ちらついた。
【ログ更新完了】
更新完了。エラーではなかった。
半信半疑のまま、マイログアプリを閉じて採用メールのリンクを再度開くと、ログが参照されて、画面が切り替わり、また視界に文字が浮かんだ。
【公開ログ参照 対象:黒瀬湊(25歳)】
三年前:記録なし
信用評価:B
採用適性:再審査対象
三回瞬きした。三年前の記録が、消えている。信用評価、B。ありえないと思いながらも画面はそう表示していて、信じられなくてスマホを再起動してもう一度開いても、変わらなかった。
スマホが震えた。
差出人:株式会社アシスト・コード 採用担当
件名:選考に関する追加連絡
件名を見た瞬間、指が止まった。開くのが怖かったけれど、開いた。「先ほど送付したご通知について、ログ情報の確認に誤りがあった可能性が判明しました。
改めて選考を継続させていただきたく、ご連絡いたします」と書いてあった。何度も読み返した。目を離して、また読んだ。
窓の外では夕暮れの光が細いカーテンの隙間から差し込んでいて、隣の部屋からテレビの音が聞こえ、外で鳥が鳴いた。頭が追いつかなかったけれど、ただ一つだけ、はっきりとわかったことがある。
——ログは、書き換えられた。そして現実が、変わった。




