第五十八話 九尾の狐は働きたい【三尾目】 この話の最終話
「例えばこれは先日の事なのですが……」
——理子の住む表長屋の一室にて
今日もいつも通り三味線の稽古を終え、習いに来た近所の商家の奥方の一人と、白湯を飲みながら世間話をしていた時の事。大店の奥方はあまりやることがないのか、白湯を全部飲んでもなかなか帰ろうとしない。しかも話は夫の愚痴ばかりである。
早く終わって真生に会いに行きたいのに。理子は心の中でそう思いながらも顔はにこにこして話を聞いている。
「あら、湯呑が空やわ。白湯のおかわりどうどすか?(もう全部飲んだんやから帰れや)」
「じゃ、もう一杯頂こうかしら」
もう帰ったら? という意味の皮肉が通じず、理子がげんなりする。
「あらいけない、お湯を沸かすの忘れてしもうて、ちょっと時間がかかりますけどよろしいどすか?(あんたもそこまで暇やないやろ)」
「ええ、全然かまいませんよ。時間はいくらでもありますから」
「まあ、ほんまはお忙しいのに冗談ばっかり(どんだけ暇やねんこいつ)」
さらに暇を持て余した奥方の話はづづく、しかも昨日も聞いた話の再放送で、隣の見栄の悪口を延々と言いだした。
いよいよ我慢の限界に来た理子は伝家の宝刀を抜く。
「あら、もうこんな時間。奥様小腹が空いてまへんか? ぶぶ漬け(お茶漬けの事)でもどうどすか?(さあ帰れ! 今帰れ!)」
「あれ、ほんと、いつの間にか長居しちゃって申し訳ないわ。でもせっかくだし京のお茶漬け頂こうかしら」
「……‼」
——白沢邸の縁側に戻る
「そないゆうて、そのばばあ! ほんまにぶぶ漬け食いよったんですわ! しかもお代わりまでして! 江戸の人間は空気を読むってことを知らへんのですわ!」
思い出して怒りがぶり返して来たのか、理子の言葉遣いが荒くなる。
あまりの剣幕に、白沢と九尾の狐は顔を見合わせる。
「私も昔、京に住んでいたから気持ちはわからんでもないですが、その京ならではの言いようはなかなか、江戸では難しいかもしれませんねえ」
白沢はやんわりなだめるが、また理子の鼻息は荒い。
「わしも京に住んどったが、ぶぶ漬け食えって言われたら普通に食っておったがな」
「おぬしは元々空気なんて読まんからさ」
そこで白沢はふと先ほどの尻尾の話を思い出した。
何十本もの尻尾を持つ狐なんて言うのは、人間で言うと使いきれないお金と誰からも注意されない地位を持っているのと同じである。
天上天下唯我独尊、そんな九尾の狐が他人の期限を気にして、空気を読むなんて考えさえしないだろう。
まあ、二人とも理由は違うが、人と協調して働くのには向いてないだろうな、と白沢は思った。
「つまりお二人とも働くことにお悩みがあるということですね」
「え、九尾様もそうなんですか?」
さっきまでぷんすかしていた理子が驚いて九尾の狐を見る。
「わしは別に悩んではおらぬぞ、ちいとばかし落ち込んでいるだけじゃ」
思わず理子がぷっと噴き出す。
「まあ少なくとも九尾に関しては、人に雇われるのは無理であろう。いっそ自分で商売を始めたら? おぬしは酒好きだから煮売り屋(江戸時代の居酒屋)でも始めたらどうだ」
「わしが煮売り屋を始めてしまったら、わしが夜酒を飲めないではないか。どうせなら自分でやるならば昼間の店が良いのう」
江戸時代の飲食店は主に屋台が主流であったが、店舗型も徐々に増えており、いわゆる居酒屋や小料理屋といった形態のお店も登場していた。
「では茶屋はいかがですか?」
理子が機嫌を直して話に入ってくる。江戸時代の茶屋は今と同じく、いわゆる喫茶店である。茶屋というと旅の途中の峠にあるようなイメージであるが、江戸の町にも多数あり、江戸庶民の憩と交流の場になっていた。
「わてはお茶にお花、それにお菓子作りも多少心得がありますよって、きっとお役に立てますよ」
理子はすっかり九尾のお店で働く体で自分を売り込む。
まあ確かに茶屋であれば飲み食いしてもらう分には、長居してもらっても腹は立たないだろう。
「なかなか良い案だと思うよ、お主なら金銀の蓄えもそれなりにあるだろう」
九尾の狐は日本各地を放浪しているので、鉱山の発掘に携わったこともある。その際の謝礼として砂金や銀貨をもらっているが使い道がなく、今も神社の裏に置きっぱなしなのだ。今で言うと数億円はくだらない価値である。白沢はそれを知っていて開業を進めている。
「ふうむ、ここで妹分の生まれ変りに会ったのも何かの縁、どうせなら一番賑わっている日本橋の歌舞伎小屋の近くにでもどんと開いてみるか、名前はそうさな、白沢につけてもらった名前で、【九十九茶屋】としよう」
こうして、九尾の狐は茶屋を経営することになったが、新しく商売を始めるというのは並々ならぬ苦労がつきもの。働き手も理子だけという訳には行かないし、人材確保や商業組合への加入などいろいろと苦労するのだが、その話はまた別の機会に。
ともあれ、江戸に人外が経営するお店がもう一つ増えることとなった。
次エピソードへ続く




