第三十二話 麟太郎の上方日記【破】
本屋の安兵衛の家は賑やかな堺の市場の近くにあるが、庭付き一軒家で家族四人で住んでいた。
「麟太郎や、邪魔すんで」
「邪魔するにやったら帰ってや」
「あいよ~……って、このくだり省略でけへんのか?」
麟太郎はめんどくさそうに、一旦帰るふりをしてからまた入ってくる。
「まあまあ、久し振りですからええやないですか、まあ、おあがり下さい」
安兵衛はにこにこして客間に案内してくれるが、少し目の下に隅が出来ているようであった。
家人は今日は留守なのか、家の中は静かであった。お茶を持ってきたのも安兵衛である。
「なんや、寝不足なんか? 目の下に隅ができとるで」
安兵衛は黙って返事の代わりに一冊の本を麟太郎に差し出した。
「これは?」
麟太郎が聞くと、安兵衛は次のように語った。
「これは、かの弘法大師様が修行中に書き記した旅日記のようなものなんですが、修行の旅の最中に摂津の国のとある村で、化け猫があちこちの村で盗みを働いているという話を聞いたそうです。村人たちが食料を奪われるのを不憫に思った弘法大使様が、お札に犬の絵を描くとその絵が神から飛び出し、犬神になったそうです。そしてその犬神を家の中に潜ませて、忍び込んできた化け猫を捕まえたという逸話がありまして」
「ほう、さすが弘法大使が生み出した犬神は優秀やな」
「はい、それで捕まえた化け猫なんですけど、自分のやったことを反省もせず、悪態をつくもんですから弘法大師様は、この化け猫を本の中に閉じ込めることで反省を促したっちゅう話なんです」
そうして安兵衛は、先ほどの本をぺらぺらとめくり、最後の頁を開いた。そこには十五歳ほどの歳ほどの女の子の絵が描いてあった。しかしよく見ると頭の上に猫の耳があり、お尻には尻尾が生えていた。
「これがその本ってことなん?」
「そうです。かなり貴重なものでっせ」
「そうかもしれんけど、わし別に変った本の収集家やないからなあ。そんな貴重なものやったら、大名にでも売ったらええのに」
麟太郎は本を手に取って中を見る。前半は確かに弘法大師の日記らしく、道中での出来事や村びとの為に化け猫を退治した話がつづられている。
確かに本には結界に似た封印の術が施されているようだ。
「それが、ちょっと困ったことがありまして」
安兵衛は誰が盗み聞くわけでもないのに声を潜めて言う。
「最近になって弘法大師様の封印の力が弱まっているのか、この本を手元においてから、不思議なことが起きるんです」
「というと?」
「夜になるとこの本から声が聞こえるんです」
「声?」
「ええ、最初はかすかな声だったんですが、徐々に声が大きくなってきて、特に満月の夜にははっきりと、『ここから出せ~、ださんとお前を食うてしまうぞ~』って」
「そんな本売ったら絶対アカンやん」
麟太郎はあきれてため息を漏らす。おそらくは夜の月の満ち欠けにより、化け猫の力の方が上回る時間帯があるのかもしれない。
「それ以来、恐ろしいやら、うるさいやらで、すっかり寝不足に」
「それで顔色が悪いんか」
「ええ、女房と子供達も気味悪がって今は実家に……」
「どうりで家の中が静かすぎると思ったわ。その本をお祓いするなり、燃やすなりしたらアカンのか?」
安兵衛は大きくかぶりを振った。
「お寺の和尚さんには相談しましたが、『自分にはとても手に負えない。また本を燃やしたりしたら、封印が解かれて化け猫が逃げ出すだろう』といわれまして」
「ほな、なんでそれをわしに売ろうと思ったんや?」
「麟太郎さんは私も驚くほどの博識で、あやかしにもお詳しいようでしたから、麟太郎さんならこの本も扱えるんやないかと思いまして」
麟太郎は昨年堺に居た際、京で茶碗を探す傍ら、貸本屋をするために色々な本を買い求めていた。結果的には江戸で商うこととなったが、最初は堺か京都で商うつもりだったため、色々な本屋や版元と交渉していたのだ。
そのうちの一人が安兵衛だったが、この安兵衛はちょっと変わった本ばかりを扱っていて、妙に気が合った。いわゆる都市伝説的なものから、あやかしに関する本など、今でいうカルト的な分野を売りにしていた。
実際、麒麟堂でもそういった本も置いてあり、江戸でも中々人気がある。
「そんなおっかない本お断りや! ……って言いたいところやけど弘法大師直筆の書となると興味はあるな。その封じ込められている化け猫も含めてな」
麟太郎がそう言うと、安兵衛は満面の笑みを浮かべた。
「そうゆうてくれると思てました」
麒麟は例の本を風呂敷に包み、小脇に抱えて宿屋に戻った
「おかえりなさいませ、麟太郎さん」
宿に戻ってきた麒麟を玄関で真生が出迎えてくれた。
「お買い物ですか?」
小脇に抱えた風呂敷の包みを見て、真生が尋ねる。
「まあな、一種の研究材料やな」
実際何事にも興味を持って探求するところがあり、そういう面で白沢と似た所があった。
「なんや面白そうですね、またなんの研究か教えてください」
「ああ、また今度な。そういえば、あんたも真生って変わった名前やな。どこの生まれなん?」
生まれは摂津の国ですが。親が坊主なもので、私の名前もちょっと変わった名前になったんですわ。真っ当に生きよ、って意味らしいです」
「ふうん。ええ名前やな」
「ありがとうございます」
真生は照れくさそうに礼を言って、奥に戻って行った。今からち厨房の手伝いに入るらしい。
さて、夕餉の前にひとっぷろ浴びてくるか。今日は満月の夜やし、面白いことが起こりそうや。麟太郎は腹の中でほくそ笑んだ。
麟太郎は近くの湯屋(銭湯)に行って、旅の疲れを癒していた。この時代宿屋いえど、大浴場のついた宿屋はほとんどない。お湯を沸かすのにとんでもない量の水と燃料がいるからで、その代わり近所の湯屋の割引券を渡したりしていた。
宿に戻ってきたのはちょうど夕餉の支度が出来た所で、麟太郎は自分の部屋で食事をとることにした。
普通この時代の宿では一汁一菜程度の食事が主であるが、堺は大阪湾に面しているため、新鮮な魚が取れる。
夕餉には大阪湾で獲れたメバルの煮つけやキジハタの刺身が付いており、とても満足できる食事であった。
「いや、うまかった。やっぱり堺の魚は最高やな」
「お口に合って何よりです」
真生は食器を片付けながら、にこやかに頭を下げた。
急に続く




