第二十五話 山の神の娘【其の五】
支度が出来たお舞は馬ほどの大きさの狐の姿になった、九尾の狐の背中にまたがった。
九尾の狐は人に見えないよう姿を消せるがお舞はそうもいかない為、人に見られないよう、人気の少ない空き地から出立することになった。
「くれぐれも気を付けて」
白沢が心配そうにお舞を見る。
「任せておけ、あの山はわが家じゃから造作もないわ」
「急ぐからの、しっかり捕まっておれ」
九尾の狐はお尻あげ、クラウチングスタートのような体制をとった。
ジャッ!
九尾の狐は山の方向へ向かって駆け出した。駆け出したといっても足地面についていない。風に乗って飛ぶように走って行き、すぐに見えなくなった。
「さて私は私のできることをやりますか」
白沢はそう言ってまた診療所へ戻って行った。
九尾の狐の言うことは大げさではなく、お舞の故郷の山(今でいう奥多摩のあたり)まで半時もかからず、到着することが出来た。
「九尾殿かたじけない。すぐそこに、この山を祭る小さな神社がある。山師たちが管理しておって、普段は誰もおらんからそこで待たれるがよい」
「あいわかった」
九尾の狐はそう言って神社へと向かった。
「さてと、まずは親父殿じゃな」
そういってお舞は軽やかな足取りで山道を駆ける。自分のテリトリーに入ったことで、力が増しているようだ。
お舞はいつも山の神、つまり父親がいる頂上付近の岩場にたどり着いた。
「親父殿はおるか?」
そう言うと岩陰から大男がのっそりと体を起こした、体長三メートル以上、肌は浅黒く筋肉隆々、黒くて長いあごひげと長い髪、体には木の皮を薄くなめして作った服を着ている。
お舞の父親である山の神だ。
「おお、わが娘よ、山に入ってきた時から気が付いておるぞ、しかしまだ江戸の町に出て半年ほどではないのか? 見た目は大して変わっとらんように見えるが、もう修業は終わりなのか?」
山の神は長いあごひげゆっくり上下にこすりながら聞く。
「いや、今回は別に用があってきた。親父殿、今この山に消熱草は生えておるか?」
「消熱草? あれは冬の草じゃからのう、もうかなり寒くなっておるからどうだろうかの?」
「何とかならんのか? 備蓄はしていないのか?」
「そう言われてものう、近頃はあまり使うこともなかったし……あ!」
山の神は何事かを思い出したようにぱんと手を叩く。
「山の裏側にある滝の裏にほら穴があるのを知っておるじゃろう。そのほら穴は冬が終わっても涼しい気温を年中保っておるから、あるいはそこにまだ生えているかもしれん」
「真か?」
「真じゃ。ただその道は険しいぞ。数年前にお前とも一緒に行ったことがあったが、お前は途中で怖くなってわしの背中にしがみついておったからの」
「あの滝の裏のほら穴か! 確かにわらわにはかなり険しい道じゃった。では、親父殿もついてきてはくれまいか?」
「それが、先日大雨の際、土砂崩れが起きそうになったのじゃが、それを食い止めるためにわしが途中でずっと土砂を食い止めておっての、そのせいでひどい腰痛のなってさっきも横になっておったところじゃ」
「なんと! いざというときに頼りにならん! 山の神が腰痛とは山師が聞いたらなんというか」
お舞は顔を覆った。オーマイガー! である。
「そういうな。わしも千歳超えとるんじゃから」
「良い! わらわが一人で行ってくる!」
「いや、お前だけでは危険だ。そんなにまでしていかねばならん理由があるのか? さては男がらみか?」
山の神が言うと、お舞は顔を真っ赤になった。
「うるさい! 急いでおるのじゃ! わらわはもう行くぞ」
お舞は今度は滝に向かって走り出した。
「危なくなったら引き返すか、山猿どもに助けてもらうんだぞ!」
山の神の言葉が小さくなっていくお舞の背中を追いかけた。
そして、白沢診療所では依然、慶次郎は高熱度出して、苦しそうに呻いていた。
お舞が今朝薬草を取りに出発してからかなりの時が立ち、日も暮れてきている。
慶次郎のそばには、徹夜で疲労困憊であった、おあさと先ほど交代した孫六が慶次郎を看病していた。
慶次郎が寝る部屋に入ってきた白沢に孫六が聞く。
「白沢先生、このまま熱が続けば兄弟子はどうなりますか?」
「元々体力がある方だが、あと一日二日熱が続いたらもう意識が戻らなくなる可能性がある。お舞が取りに行った薬草が頼みの綱だな」
「そんなに効く薬なのですか?」
「ああ、それが手に入れば熱が下がることは間違いない」
「それはすごい……見つかるといいですね」
「それにしても、宗太郎さんは一度も顔を出さないですね」
白沢の言葉に孫六は首を振った。
「もう何を考えているのかわかりません。お嬢さんには怒られますが、私には宗太郎坊ちゃんがやったとしか思えなくなってきました……」
そういって、孫六がまた慶次郎の頭を冷やしている手拭いを氷水で冷やして、替えようとしたとき、診療所の入り口の扉が勢いよく開いた。
「白沢殿! 持ってきたぞ!」
入って来たのはお舞と人間の姿に戻った九尾の狐だった。
「やれやれ、帰りも急がされて大変であった」
九尾の狐が息切れしながら膝をつく。
「話はあとじゃ、これを慶次郎殿に処方してくれ!」
お舞から手渡された草はまさしく消熱草だった。
薬草を持っていたお舞の手は傷だらけであった、いや手だけではない膝や肘、鼻先など無数の傷があり、薬草探しの過酷さを物語っていた。
白沢は少し思案顔で薬草を眺めてからこう言った。
「分かりました。しかし今の慶次郎さんの弱った体にそのままこの草を使うと刺激が強すぎるので、いったん薬庫で乾燥してから煮だします。大丈夫、明日の朝までには出来ます」
「そんな悠長なことで慶次郎殿は大丈夫か?」
「今のツユクサの薬も少しは聞いているので大丈夫。私を信じてください」
ほかならぬ白沢にそう言われて、お舞は安心したのか、診療所の土間に座り込んでそのまま寝てしまった。
白沢はそんなお舞を抱え上げて、孫六を見た。
「孫六さん、薬草が手に入った話を清十郎さんたちに知らせてあげて下さい。明日の昼前には回復するはずなので、そのころ来るようにと」
「わかりましたでは直ぐに」
そう言って孫六は診療所を飛び出し、夜道を駆けて行った。
「わしも休むぞ、久々に全力で走ったから疲れた」
「じゃあ、縁側でゆっくりしててください。あ、でもお主にはもう一仕事頼みたいことがあるので、すぐに起こすから熟睡はしないように」
白沢はそう言って、「えーっつ?」とでも言いたげな顔の九尾の狐を尻目にお舞を抱きかかえて奥の部屋に連れて行った。
元々診療所には部屋は畳敷きの部屋は三部屋しかなかったが、お舞の為、縁側から入れる畳部屋を裏庭に増築していた。
お舞も寝静まり、しばらくすると孫六が帰って来た。
「伝えて来ました。私は引き続き慶次郎さんの看病をしますので、白沢先生達はどうぞおやすみになってください」
「ではお言葉に甘えて少し休むとします。私の友人も疲れたと言って家に帰ったし、お舞もよく寝ています。それに、消熱草の乾燥はは明日の朝までかかりますので、それまではどのみち何もできませんからね」
そう言って白沢は自分お部屋に布団を敷いて寝る準備をする。
「では、よろしくお願いします」
慶次郎と孫六のいる部屋以外の明かりが消え、診療所は暗闇に包まれる。
——そして、草木も眠る丑三つ時。
廊下をそうっと音を出さないように歩く男がいた。
男のねらいは薬庫にある薬草である。
わずかな音もたてないようにあるくその忍び足は、舞台上の役者がすり足で移動するそれでもあった。
やがて男は慎重に薬庫にたどり着き、ゆっくりと扉を開け薬庫への侵入に成功した。乾燥中の消熱薬を盗み出そうと、棚を物色を始めたその時、薬庫の扉がすっと開く。
そこに立っていたのは灯りを持った白沢だった。
「やはりあなたでしたか」
白沢の持った灯りに照らされた顔は、慶次郎の看病をしているはずの孫六だった。
次回この話の最終話に続く




