第二十三話 山の神の娘【其の三】
芝居を観た数週間後のある日、その人はやって来た。
「こんにちは、白沢先生、お邪魔します」
慶次郎が人懐っこい顔で入ってくる。
「おやおやこれは主役のお越しですね」
慶次郎は恥ずかしそうな顔をして頭を掻く。
「やっぱりばれていたんですね、普段の顔では顔を指されることなどないのですが」
「わからいでか!」
お舞が奥からどすどすと廊下を歩いてきた。
「お舞ちゃん、今日は豆大福を持ってきたよ」
「そんなもので、わらわがごまかされると思うなよ、まあ食べるけど」
お舞は慶次郎の手から大福を奪い取る。
「どうして歌舞伎役者をしていることを隠してらっしゃったんですか? 名前も次郎とお伺いしてましたが」
怒るでもなく白沢が尋ねる。
「次郎は本名なんです。普段の自分は舞台の上とは別人のような人間ですから、自分が役者だなんて恥ずかしくて」
「何を言っておるのじゃ、すっぴんでも十分目立っとるわい」
早速、慶次郎が診療所に来たのを聞きつけた女性たちが遠目から慶次郎を眺めている。中には歌舞伎役者に慶次郎だと知っているものもいるのかもしれない。
それをお舞が目でけん制しながら言う。
「すみません、何だかご迷惑をかけているようで……」
慶次郎はどこまでも控えめだ。
「いえいえ、お気になさらず。今日もいつものお体の確認ですか?」
「ええ、今の出し物も昨日千秋楽が終わって、一息ついたものですから」
「私達も観させていただきましたが、素晴らしかったですね。確かに舞台上の荒々しいまでの演技は普段の慶次郎さんからは想像できませんね。舞台上でのあなたとは別人と言うわけですか」
慶次郎は赤くなりながら「そうですね」とうなずく。
「しかし次郎は役者の時は慶次郎でいずれは赤松清十郎になるのか、名前がいっぱいあって大変じゃのう」
「参りましたね、そんなことまでご存じでしたか、でもまだ決まったわけではないですから、後、呼び名はややこしいでしょうから今後は慶次郎とお呼びください」
そこへ、慶次郎が来たことをどこかで嗅ぎつけたのか、九尾の狐が入ってきた。
「ああ、やっぱり昨日千秋楽が終わったから、今日来ていると思っておったぞ」
「ああ、先日白沢先生と一緒にいらっしゃっていた方ですね。ご観劇有難うございました」
「いやいや、久方ぶりの歌舞伎であったが、存分に堪能した。しかし、化粧をとると存外地味な顔立ちだの」
遠慮のない九尾の狐の言葉に慶次郎は苦笑いする。
「わらわはすっぴんの慶次郎の方がよいがの」
お舞は少し怒ったように言った。
「しかし、あんなに飛んだり跳ねたりするとは思わなんだ。五十年も経つと、歌舞伎もずいぶん変わるもんじゃのう」
「はあ、五十年ですか?」
九尾の狐の言葉に慶次郎は首をひねる。九尾の狐の人間での見た目はどう見ても三十代なので当然だ。
「いやいや。戯言が好きな友人でして」
あわてて白沢がフォローする。
その日も白沢は慶次郎の体をくまなく検査し、問題ないことを確認した。
筋肉系の疲労は見られるものの、肉離れなどのけがはしていない。のども少し休ませれば回復しそうだ。
「はい、お疲れさまでした。けがや病気はしておられませんが、だいぶ疲労が溜まっているようですね。のども荒れているので二、三日は大きな声を出さず休ませたほうが良いでしょう。目の下に少し隈があるのも寝不足によるものでしょう、少しは休まれないと」
慶次郎は問題なしの診断に安堵した様子だった。
「一応今回の公演は終わったんですが、また来月から新しい出し物をするのでまたすぐに稽古しないと、私のように才のないものは稽古するしかないですから」
白沢は先日の茶屋の店主の言っていたことを思い出していた。
「芝居小屋近くの茶屋の主人の話では、優れた才能に今の当主が惚れ込んだという話でしたよ」
「いや、師匠には『お前は才がないのだから、人の倍いや三倍努力しろ』と言われ続けましたから、今の僕があるのは稽古のたまものです」
「そのとおりじゃ」
なぜかお舞が慶次郎に加勢する。
「すると、当主の息子と言うのは?」
白沢が龍野屋の実子のことに触れると、慶次郎の顔が曇る。
「宗太郎坊ちゃんの事ですか……、むしろ才能があるのは坊ちゃんの方です。なまじそのせいで反復練習が嫌いで、いつも師匠から怒られていました。本来は宗太郎坊ちゃんが三代目を名乗るべきなんですが……」
「よいではないか、慶次郎にはその資格があるのじゃから養子になって三代目を注げば良い」
お舞の言葉にまた慶次郎は苦笑いする。
「あ、いけない、そろそろ帰って稽古しないと、白沢先生有難うございました。よかったらまた来月の公演も観に来てください」
「ええ、ぜひ」
白沢が言うと、
「絶対に行くのじゃ」
とお舞も言った。
その日の診療も終わり、九尾の狐はついでとばかりそのまま居座って、また縁側で白沢と酒を飲んでいる。
お舞は疲れたようで奥の自分の部屋で寝ている。
「白沢よ。お主はどう見る?」
「何のことだ?」
九尾の狐に聞かれた白沢は何のことかわからない。
「お舞殿の事だよ、あれは慶次郎殿に惚れておるのではないか?」
白沢はちょっと腑に落ちない顔をしている。
「確かに慶次郎さんはいつもお舞にお菓子を持ってくるので、お舞は慕っているかもしれないけど、女性として惚れているのとはちがうような気がするが」
「元々はそうだったのかもしれんが、歌舞伎で違う一面を見て意識が変わったのではないか? 今日のお舞殿は少しおしとやかになっていたと思うがの」
「うーん、そうだとしても見た目が幼いから慶次郎さんから見たらどうなんであろうな?」
「慶次郎殿がどう思うかは一旦関係なかろうよ。ま、せいぜい気にかけておくんだな」
翌月となり、また同じ芝居小屋で慶次郎の公演が始まることとなった。
今回は小屋主に気を使われたくないと、自分達で普通の席を取った。席はさほど広くはないが、舞台からは近く臨場感がある席だ。
今回も麒麟は行きたがったが、上方にどうしても行かないといけない用があるということでしばらく江戸を留守にするという。
よほど、歌舞伎に縁がないらしい。
今回は慶次郎にも伝えていたため、先に楽屋に挨拶に行く事にした。
楽屋に通してもらうと既に歌舞伎者に変身した慶次郎がいた。
「これは、皆さんようこそ。小屋主さんは言ってもらえれば、また桟敷席を用意したのにと言っておられましたよ」
「こうゆうのは自分のお金で見た方が楽しいかと思いましてね」
そう言って白沢は手土産を渡す。
「なんだ、人気役者は違うな、舞台の前なのに客人の相手とは余裕があるじゃないか」
慶次郎の反対側で、化粧をしていた男が振り向いて不機嫌そうに言った。
「坊ちゃん、この方は私がお世話になっているお医者様で……」
すると、坊ちゃんと呼ばれた男は忌々しげに舌打ちをして、慶次郎を睨みつけた。
「その坊ちゃんと言う呼び方もやめろ、どうせお前が三代目を継ぐのだろう。馬鹿にしやがって!」
そうすると同じ楽屋に居た若い男が口をはさむ。化粧はしていなかった。歳は十三歳ほどであろうか。
「宗太郎坊ちゃん、やめて下さい。大事な公演の前ですよ」
「ふん、どうせお前もそいつの味方だろうが、そいつがいる限りお前の願いは叶わねえぜ」
「私は兄弟子を二人とも尊敬しております」
宗太郎と呼ばれた男は、その言葉を無視するように、顔を鏡に戻して化粧を続けた。
「あれが、例の当主の息子ですか?」
小さな声で白沢が慶次郎に確認する。
「ええ、そしてこっちは弟弟子の孫六です。
「お初にお目にかかります。孫六と申します」
孫六は深々と頭を下げる。
「私もいつかは兄弟子たちのように立派な歌舞伎役者になりたいですが、今はまだ見習いですので、裏方で頑張っています」
慶次郎はそう言う孫六の肩をぽんぽんと叩きながら、
「なに、筋がいいのでもうすぐ舞台に上がれますよ。坊ちゃんはああ言ったが、孫六もいつか必ず主役にもなれるさ」
と、言った。孫六は黙って頭を下げる。
さて、今回の舞台が始まった。
当主の二代目赤松清十郎は数年前にけがをした足の具合が悪く、このところ舞台には出ていないが、毎日欠かさず見に来ているそうだ。
そして今回も慶次郎の出来は素晴らしかった。特に最後の【急】の幕ではダイナミックに飛び回り、迫力のある舞台であった。
今回も満足した一行は、千秋楽を一度見に来る約束をして帰途に就いた。
ただ白沢は気になっていた。
最後の舞台挨拶。いわゆるカーテンコールだが、挨拶をする主役の慶次郎を憎しみのオーラをぶつける者がいたのを感じていた。
実は初めて見に行った日も同じことがあって、少し気になっていた。
まあ、こういう競争が厳しい世界なので、嫉妬や恨み事があってもそれほど不思議な話ではない。
杞憂であればよいが……白沢は心の中でつぶやいた。
続く




