第二十二話 山の神の娘【其の二】
——そして、休診日の朝。
まだ寝ている白沢の布団をお舞が叩く。
「白沢殿、朝じゃぞ、支度せんか」
「……まだだいぶ早いじゃないですか、今から行ってもまだ芝居小屋が開いてないでしょうに……」
「でもほら」
お舞が部屋の隅を指さすと、よそ行きの着物を着た九尾の狐が貧乏ゆすりをしながら、部屋の隅で胡坐をかいていた。
三人は芝居小屋に向かう道を歩いている。
「お主がそこまで芝居を楽しみにしていたとはな」
白沢が眠い目をこすりながら九尾の狐に言う。
「なんせ五十年ぶりであるからのう、だんだん待ちきれんようになってきて、少し早起きしてしもうた」
「少し? 九尾殿はわらわが日の出とともに起きたときには、もう入口で待っておったぞ」
お舞が言うと、さすがに九尾の狐は少し気恥ずかしそうな顔をした。
芝居小屋で歌舞伎の公演が始まるには少し早かったので、少し茶屋で時間をつぶすことにした。
芝居小屋の近くにあるなじみの茶屋に三人で腰かけると、店主自ら挨拶に出てきた。
この店の小柄な店主は人当たりの良い男で、結わえた髪には少し白髪が混じっている。
「これは白沢様、お揃いでお出かけですか?」
「ええ、今日は芝居小屋に」
そう言うと茶屋の店主は「ほう」と言う顔して言った。
「というと今評判の、慶次郎ですな?」
「その役者はそんなに有名なのか?」
九尾の狐が聞いた。
「そりゃもう、名跡の団十郎に並びかけるのではないかと言われているくらいで」
店主によると、この慶次郎という若い歌舞伎役者は歌舞伎の家柄でもないのに、今から十二年前、六つの頃に広島から江戸に出てきて、強引に龍野屋に弟子入りし、ついにはあまりの才能に当主が惚れ込んで養子にするという話になっているらしい。
慶次郎と言う名前は歌舞伎の初舞台を踏む際に師匠に付けてもらった名前だそうだが、いずれは龍野屋の後継ぎとして三代目赤松清十郎を襲名すると言われている。
「その龍野屋さんには跡継ぎはいなかったんですか?」
白沢の問いに店主は声を小さくしてひそひそと話す。
「いや、いるのはいるんですけどね、これが才能が無い上に、努力もしないという困りもので、器量は悪くないんですが、なまじそのせいで女性関係のもめごとも絶えなくて」
「まあ、要するに役立たずのボンボンということじゃな」
お舞が率直な感想を言うと、店主は周りをきょろきょろしながら人差し指を口の前に立てる。
「い、いまお茶をお持ちしますので……」
慌てて奥に引っ込む店主を見て、
「あの口の軽い感じであれば、どうせどの客にも行っておるだろうから、この界隈では有名な噺なんであろうな。まあ、今日はよくできた跡継ぎの方を見られるのだから楽しみだの」
「しかし、実の息子がいるのに養子にするというのは、ちょっと乱暴な気もしますけどね」
白沢と九尾の狐が話していると、女中がお茶とみたらし団子を運んできた。お舞の目が輝く。
「おお、これこれ。今日は九尾殿が朝早く押し掛けてきたせいで、朝餉を食べておらんでな、腹が減ってかなわんかったんじゃ」
「すまんすまん。詫びにここはわしが奢らせてもらおう、いくらでも食べるがよい」
九尾の狐が言うと一層お舞の瞳が輝くが、白沢から、
「ほどほどにしておきなさいよ、歌舞伎では昼餉に幕の内弁当が出るはずですからね」
と言われ、お代わりするのを我慢していた。
さて、いよいよ芝居小屋が開く時間が近づいてきたので三人は腰を上げ、茶屋の店主に挨拶して、芝居小屋へと向かった。
芝居小屋に前に着くと、もう人が並んでいて、中に入るのをいまかいまかと待っている。
白沢達ははあらかじめ桟敷席という見やすい席を取っていたので、ゆっくりと待つことにした。。
芝居小屋の小屋主は白沢の診療所の患者でもあり、話を聞いた小屋主が気を利かせて席を用意してくれたのだ。
麒麟も行きたいと言っていたが、なにやら商売事の面倒事が片付いておらず、なくなく断念したのだ。
「それにしてもすごい人じゃな、江戸は人が多いとは思うとったが、これほど賑やかなのは初めてじゃ」
お舞の言葉に白沢もうなずく。
そんな白沢達に声をかけたのは小屋主の半兵衛だ。
「これは、白沢先生ようこそおいで下さいました」
「これは半兵衛さん。こちらこそ、結構な席まで用意して下さったありがとうございます」
「まこと、そうであるな。かたじけない」
礼を言う白沢に続けて九尾の狐も半兵衛に礼を言う。
「わらわも楽しみにしてきたのじゃ」
半兵衛は診療所の患者でもあるのでお舞も無邪気に話しかける。
「それはよろしゅうございました。きっとご満足いただけると思いますよ」
半兵衛は頭を下げ小屋へと戻って行く。
小屋とは言うものの、彼らの目の前にある芝居小屋は三階建ての勇壮なつくりである。
それを所有する半兵衛は、現代で言う所の大企業の社長であったが、腰が低く、非常に丁寧な人間である。今も昔も本当の成功者は謙虚なものだ。
ようやく芝居小屋の前の人だかりが少なくなってきたところで、白沢達は半兵衛が問ってくれた桟敷席に座る。正面に舞台があり、全体がよく見える。
また、足がしびれないよう広い席で個人ごとの荷物置き場まである。
「良い席ですね」
珍しく白沢が感嘆の声をあげる。
しばらくすると、休憩時間に食べるための幕の内弁当も運ばれてきた。
幕の内弁当というのはこのような芝居の幕の合間に食べるので幕の内弁当と呼ばれるようになったと言われている。
思わずお舞が飛びついて弁当の紐をほどこうとするが、白沢に制されて泣く泣く休憩時間まで我慢することとして、いよいよ幕が開いた。
序盤から、主役の役者である慶次郎が歌舞伎らしくダイナミックな動きとセリフ回しで観客を魅了する。拍手喝さいの中、あっという間に休憩時間になった。
お舞が待ってましたとばかり弁当に飛びつくかと思いきや、幕が下りた舞台をじっと見ている。
「どうかしましたか?」
白沢の問いに、
「あの主役の役者って、次郎殿ではないのか?」
「お舞さんも気づきましたか? 確かにあれはよく診療所にくる次郎さんですね」
「なんだ、知り合いか?」
お舞と白沢の会話を聞いて、九尾の狐が訪ねる。
「ああ、私の患者なんだが、とりわけ体が悪いわけではないようだが、のどや肺、あるいは眼の調子を定期的に確認しに来ていた人だ。今思うと長い公演が始まる前に体に異常がないか確認しに来ていたんですね」
「次郎殿は一言もそんなこと言っておらんかったぞ、職業を聞いてもはっきり言わんかったからの」
慶次郎は診療所に来る際、必ずお舞に菓子などを持ってきてくれていたため、お舞も慶次郎のことはたいそう気に入っていた。
もちろん診療所にはすっぴんで来ているわけだが、歌舞伎役者にしては少し地味ながらも端正な顔立ちの男前であったため、診療所に彼が来ると近所からも女たちが覗きに来るほどだった。
「まさか、いま大人気の歌舞伎役者だったとはね」
白沢が感心したように言う。
歌舞伎なので隈取などで顔は出ていないが、人でない者はそういったものに惑わされずに相手を見ることが出来るので、気づいたのだ。
やがて次に幕が開く。
歌舞伎は序破急という、あのアニメのような、というかこっちの方が当然元祖なのだが、三部構成になっている。
そしてすべての物語が終わり、大盛況のうちに幕が下りた。
最後の挨拶、つまりカーテンコールの時に慶次郎は白沢達の方を見てはにかんだようにも見えた。
お舞は
「今度診療所に来たら正体を隠していたこと説教してやる!」
と息巻いていた。
ともあれ、素晴らしい芝居を観た三人は満足して帰って行った。
続く




