第十三話 新蕎麦
今日は診療所の休診日、と言ってもこの時代に月曜日とか日曜日とかの概念は無いので大体十日おきに休むことにしている。そのほかお盆と正月三が日も休診日だ。
もちろん先日の様に私用で臨時休業することもあるのだが、そのあたりは白沢のさじ加減である。
そして季節はもう冬になり白沢は綿入れはんてんを着てお舞と二人で江戸の町を歩いていた。それに対して一緒に歩いているお舞は秋頃と変わらぬ着物姿で歩いていた。山育ちで寒さには強いらしい。
江戸の町は冬でも人がにぎわっている。家にいても火鉢とか暖房設備にお金がかかるので外に出ているということもあるらしい。
「のう、白沢殿、別におぬしは綿入れなんぞ着こまなくても寒さなど堪えぬのではないか?」
お舞が背中を丸めて横を歩く白沢の顔を覗き込む。
「そんなことありませんよ、今の私は普通の人間と同じです、寒いものは寒いですよ」
白沢がそう言うのも無理はない、化けタヌキは色々なものに化けられるがあれば半分幻術に近い。
本当に細胞レベルで違うものになっているわけではないので例えば魚に化けたとして、それなりに上手に泳げるようにはなるであろうが、えら呼吸が出来るわけではない。生物学的には元々の範疇からは抜けられてはいないのだ。
以前化けタヌキが恩人夫婦の為に屈強な若い男に化けて薬代を稼いだことがあったが、あれは見た目で雇ってもらえるように屈強に見せているだけで、力自体はで化けタヌキ本体の力とさして変わらない、さぞかし見掛け倒しだといじられただろう。
しかし白沢は違う。長年の研究で本当に人間と同じ姿に変化しているのだ。なので、今の人間の姿に以外の姿にはなれないし、一旦、元々の獅子のような姿に戻ったらまた人の姿に戻るのに数日はかかるだろう。
「なんじゃ不便なものじゃの、そうまでして人間として暮らしたいか」
そういうお舞に白沢はふっと微笑んだ。
「不便もいいものですよ」
「そういうもんかの、わらわは便利な方が良いがの、例えば採れたての山の幸が一瞬で家に届くとかの」
「美味しい山の幸を待ってる時間もまた楽しみですよ」
「坊主のようなことを言うのう」
お舞は口をへの字に曲げた。
とはいえ季節は冬、山の実りも多くはない、それでもセリやナズナなど冬の山菜や山中の川で採れた川魚の干物などを小次郎から持ってきてもらっている。
年明けには美味しい七草がゆが食べられるだろう。
しかし今日の目的は山菜ではない、なじみの蕎麦屋に行く途中だ。
神田には有名な蕎麦屋があり、今は新蕎麦の季節、白沢は暇があればこの蕎麦屋に通っていた。
店が近づくにつれて白沢の歩みは自然と早くなる。お舞も負けじとついていく。
やがて店の前についた。
「こんにちは」
「おや先生いらっしゃい」
暖簾をくぐると店主が迎えてくれる。
入った瞬間から蕎麦を茹でるいい香りがする。
店はさほど大きくはないが清潔で落ち着いた店内だ。白沢はいつものように角のテーブルに座る。お舞も向かいに座った。
店には女性の店員もいるのだが、店主自ら注文を聞ききた。この店主とは十年ほど前に腰を痛めて診療所に来たのを白沢が治療して以来の付き合いである。
「今日もいつものもりですか?」
白沢は冷たい蕎麦が好きで冬でも大体もりを頼む。
「こちらのお嬢ちゃんは初めてだね、うわさに聞いた先生の助手さんかい?」
「いかにも、わらわがうわさの美人助手じゃ」
うわさされている聞いて気をよくしたのかお舞はふんぞり返って答える。
「だれも美人とは言ってませんよ。それよりお舞さんは何を食べますか? 暖かいお蕎麦もありますよ」
「そうじゃの、地元でも田舎そばは食べたことがあるが江戸のそばは初めてじゃ、今日は冷えるから暖かいてんぷら蕎麦にしようかの」
「承知しました、ちょっと待っててください」
この店では蕎麦の皮と殻も入っているのでいるので麵の色は黒っぽくなっており、十対一の割合で小麦粉をつなぎに入れている。更科蕎麦の様に蕎麦の実の中心部だけを使うと色が白くなりつなぎ無しでも製麺できるが蕎麦の香りは少し薄くなる。
対して皮と殻の入った蕎麦は割れやすく舌触りもざらざらしがちになるため、つなぎを入れるのだ。
黒いほうが十割っぽくて、なめらかな白いほうがつなぎが入っているような印象があるがたいていの場合逆である。それでも、皮や殻の入っている黒いそばの方が香りが強く白沢はこっちが好きである。
お舞は蕎麦が来るのが待ち遠しくて貧乏ゆすりをしている。
「お舞さん、こういう場所での所作も修行の内です。行儀よく待たないといけませんよ」
「わかっておるが、足が勝手に動くのじゃ」
暫くすると店主と店員の女性が蕎麦を持ってくる。
白沢の前にはもり蕎麦、お舞の前にはてんぷら蕎麦がおかれた。
さっそく目の前の蕎麦から良い香りが漂ってくる。
「では、いただきます」
「いただきます」
二人は手を合わせてからそばに箸を付けた。
「うーん、やはりここのそばは絶品だ」
白沢が満足げに言うと、
「わらわは海のエビのてんぷらなど生まれて初めてじゃ、肉厚でめちゃくちゃ美味しいではないか! 川の小エビもうまいが大きさが全然違うの!」
お舞が興奮気味に言う。
山育ちのお舞にとって海の幸は珍しかろう。この時代江戸前と言って今の東京湾では豊富な海産物が獲れていた。
そこから江戸への流通も早いため、江戸の庶民は新鮮な魚介類を食べることだ出来ていたというわけだ。
しかし、やはりこの店で特筆すべきは蕎麦である。つゆはつけすぎず口に入れ、食べた後鼻から空気を出すと蕎麦の濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。
白沢は新蕎麦の香りを担当して一口ずつ大事に食べている。
一方お舞の方はてんぷらにむしゃぶりつきながら、蕎麦を口の中に放り込み、頬をリスの様ふくらませて食べている。
あれじゃ蕎麦の香りとかはわかんないかな、と白沢はお舞を見ながら思いながらも、食事を楽しんでいる姿をほほえましく見ていた。
そうした中、蕎麦屋の扉がやや乱暴にがらっと開けられた。
「白沢先生、こんなところにいなさったかい、ずいぶん探したよ」
日本橋の親分だ。
「探して欲しいものがあるんだ」
この寒いのにおでこから湯気が出ている。だいぶ走り回ったようだ。
こうして白沢の平穏な休日が終わりを告げた。
まったく落ち着かない日々である。
続く
これまで毎日更新で連載させていただいておりましたが、次のお話の更新は少し先になります。GW明けまでには更新したいと思います。




