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第八話「退職願」

 退職願を書いたことが、十七回ある。



 一通目は入職してすぐだった。契約書をよく読まずにサインしたことに気づいた翌日に書いた。二通目はその一週間後。三通目はその翌週。最初の一ヶ月で五通書いた。



 その後はペースが落ちた。月に一通のこともあれば、三ヶ月に一通のこともある。書いて、捨てる。一度も提出していない。提出しても受理される可能性が極めて低いことは分かっているので、書いて、捨てる。



 でも書く。



 なぜ書くかは、うまく言葉にならない。ただ、たまに書きたくなる。書くと少し整理される。整理されたら捨てる。



 今日は十八通目を書いた。




───────────────────────


第一章「火曜の案件」



◆ 朝、業務室



 火曜だった。



 朝のエグチを食べながら端末を開いた。今日の案件数は二十二件。昨日より少し少ない。標準的な火曜だ。



 一件目。第77世界線が「全員が同時に同じ言葉を発し続けている」。内容は「ありがとう」だった。感謝の連鎖が止まらなくなった状態で、住民は眠れず食事もできていない。感謝の連鎖を断ち切る処理を行った。住民が「ありがとう」と言わなくなったことに少し寂しさを感じたが、それは業務とは関係ない。処理時間:十三分。



 二件目。第410世界線が「建物の中と外が入れ替わった」。建物の内外認識を補正した。建物の中が外になっているので、住民が屋外にいながら屋内にいると認識している状態だった。雨が降っても濡れないと思っているので困っていない住民が多く、処理の必要性を疑ったが、冬が来ると困るので補正した。処理時間:十五分。



 午前中に十一件処理した。コーヒーを三杯飲んだ。少し飲み過ぎかもしれない。




◆ 午後



 午後に十一件処理した。今日は案件の難易度が均一で、処理時間のばらつきが少なかった。淡々と進んだ。



 第7世界線の定例確認。画面を開いた。今日も雪が残っていた。先週の雪がまだ積もっている。子供が一人、雪を踏みながら歩いていた。足跡をつけながら歩いている。ゆっくりした歩き方だった。どこかに向かっているのか、ただ歩いているのかは分からない。



 老人の姿が今日は見えなかった。部屋の中にいるのかもしれない。



 「特異事象なし。継続観測を推奨」。提出した。



 二十二件、全部終わった。午後七時だった。今日は少し早い。




───────────────────────


第二章「退職願、十八通目」



◆ 夜、203号室



 203号室に戻った。



 カップ麺を作ろうかと思ったが、先にやることがある気がした。



 机の引き出しを開けた。便箋を出した。ペンを持った。



 書き始めた。



 退職願。



 宛先は秩序ちゃんだ。正確には統括マネージャーの秩序宛てに書く。形式はいつも同じだ。「私事、一身上の都合により退職いたしたく……」から始まって、退職希望日と、名前を書く。それだけだ。



 理由は「一身上の都合」と書く。毎回同じだ。本当の理由を書いたことはない。書いても受理されないので。



 今日の退職願を書きながら、少し考えた。



 本当の理由が何かというと——よく分からない。疲れているか、と言われると、疲れている。でも疲れているから辞めたいかというと、そういう感触でもない。疲れは慣れた重さで、それを下ろしたいとは思っていない気もする。



 では何かというと。



 ……分からない。



 分からないまま書き終えた。宛名を書いた。自分の名前を書いた。



 読み返した。



 十七通と同じ内容だった。



 折りたたんだ。捨てた。




◆ 捨てた後



 カップ麺を作った。今日は塩にした。



 食べながら、退職願を書く行為について考えた。



 十八回書いて、十八回捨てた。一度も提出していない。提出しても渾沌ちゃんが「やだ」と言う。秩序ちゃんが「渾沌の合意が必要です」と言う。どうにもならない。



 それでも書く。



 書くと、少し整理される。何が整理されるかというと——自分がまだここにいることが、整理される。退職願を書くことで、辞めていないことを確認している。辞めたければ書けばいい。書いて、捨てる。また来る。また業務をする。



 変な確認の仕方だ。



 でも私はそうやってきた。十八回。



 塩のカップ麺を食べ終えた。



 ……まあ、そういうものか。




───────────────────────


第三章「秩序ちゃんとの廊下」



◆ 夜、廊下



 カップ麺の容器を捨てに廊下に出た。



 秩序ちゃんがいた。



 今日も遅くまで業務をしていたのだろう。白と青の制服がいつも通り整っている。目の下に少し疲れが見えるが、それも見慣れた顔だ。手に書類を持っていた。



「お疲れ様です」と私は言った。



「お疲れ様です」と秩序ちゃんが言った。「今日は早かったですね、世達さん」



「二十二件でした。難易度が均一だったので」



「そうですか」秩序ちゃんが少し立ち止まった。「先週の週次レポート、確認しました。第7世界線の降雪記録、今後も継続して記載していただいて構いません」



 私は少し止まった。



「……先週、省くようにと言いませんでしたか」



「特異事象でなければ不要と言いました。ただ——」秩序ちゃんが少し間を置いた。「担当者が有意義と判断した観測記録は、業務記録として残す価値があります。私の判断です」



「……そうですか」



「はい」



 秩序ちゃんが書類を少し持ち直した。胃薬を一錠飲んだ。いつもの動作だ。



「世達さん」



「はい」



「今日、何か書きましたか」



 私は少し考えた。秩序ちゃんが何を言っているか、分かった。



「……退職願を書きました。十八通目です」



「そうですか」と秩序ちゃんが言った。「捨てましたか」



「はい」



「そうですか」



 秩序ちゃんがまた少し間を置いた。責めているわけでも、慰めているわけでもない間だった。



「……私は、世達さんがここにいてくれて、助かっています」



 私は何も言わなかった。



「業務上の話です」と秩序ちゃんがすぐに付け加えた。「処理効率と、記録の精度と、対応範囲が、世達さんがいることで安定しています」



「……ありがとうございます」



「それだけです」と秩序ちゃんが言った。でも少しだけ、声が柔らかかった。「おやすみなさい、世達さん」



「……おやすみなさい」



 秩序ちゃんが廊下を歩いていった。足音が整っている。乱れない。いつも通りだ。



 私はしばらく廊下に立っていた。




───────────────────────


第四章「今日の終わり」



◆ 夜。203号室に戻って



 部屋に戻った。



 机の引き出しを開けた。便箋がまだ残っている。ペンも残っている。



 次はいつ書くだろう。来週かもしれない。来月かもしれない。しばらく書かないかもしれない。



 分からない。でも書く時は書く。十九通目も、いつか書く。書いて、捨てる。



 それが私の確認の仕方だから。



 横になった。



 秩序ちゃんの言葉を思い出した。「世達さんがここにいてくれて、助かっています」。業務上の話です、とすぐに付け加えていた。



 業務上の話。



 そうだろう。秩序ちゃんはそういう人だ。感情を業務の言葉で包んで言う。それが秩序ちゃんのやり方だ。



 でも——業務上の話でも、助かっていると言われたのは本当のことだ。



 私がここにいることが、誰かの役に立っている。業務として。それだけかもしれない。でも業務として、確かに。



 なんでやってるの。



 渾沌ちゃんの声が頭の中で聞こえた。



 ……まだ答えは出ていない。



 でも今日、少しだけ何かが足された気がした。答えではない。でも、何か。



 目を閉じた。



 第7世界線の観測画面を開かなかった。今日は開かなくていい気がした。



 寝た。




──────────────────


◇ 業務記録モノローグ —— 世達 夜十一時三十分



 今日の件数:二十二件。


 処理完了:二十二件。


 未処理:ゼロ件。


 始末書記入漏れ:二枚(本日中に対応済)。


 退職願:十八通目。記入・破棄。


 エグチ:一個(朝)。


 カップ麺:一個(塩味)。


 特記事項:第7世界線、今日も継続中。子供が雪の上を一人で歩いていた。老人の姿は見えなかった。秩序さんに「助かっています」と言われた。業務上の話だった。



 ……以上。


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