第七話「雪が降った日」
第7世界線に季節があることは知っていた。
観測記録を見ると、過去に気温の変化が記録されている。夏があって、秋があって、冬があって、春がある。私が担当してからは主に秋から冬にかけての時期を観測してきた。
でも実際に雪が降っているのを見たのは、今日が初めてだった。
なぜ初めてだったかというと、いつもは確認して五分以内に閉じるから。雪が降っているかどうかを確認する前に、「特異事象なし」を確認して閉じていた。
今日はたまたま、少し長く開けていた。
それだけのことだ。
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第一章「月曜の案件」
◆ 朝、業務室
月曜だった。
朝のエグチを食べながら端末を開いた。今日の案件数は二十六件。週明けとしては少ない方だ。先週の三百二件が遠い昔のように感じる。慣れとは恐ろしい。
一件目。第44世界線が「全員の声が文字として可視化されるようになった」。声が空中に文字として浮かぶ状態だ。会話のたびに文字が増えて、一週間で都市全体が文字に埋まりつつある。視覚認識の調整を行い、文字の可視化を抑制した。一部の住民が「会話が見えた方が便利だった」と主張したが、都市が埋まる方が不便なので無視した。処理時間:十七分。
二件目。第203世界線が「海が少し甘くなった」。塩分濃度の概念的補正を行った。甘くなった原因を調べたが、「そういう気分だったのかもしれない」という記録しか残っていなかった。世界線が気分で海の塩分を変えることがあるのかは分からない。処理時間:八分。
三件目以降も処理した。午前中に十四件終えた。コーヒーを二杯飲んだ。今日は早めに温かいうちに飲めた。
◆ 午後
午後は十二件だった。
十一件目まで処理したところで、第7世界線の定例確認が残っていることに気づいた。今日は月曜なので週次レポートも合わせて提出する必要がある。
観測画面を開いた。
雪が降っていた。
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第二章「雪の世界線」
◆ 観測画面の中
白かった。
村が白くなっていた。屋根が白い。地面が白い。川だけが黒く、雪の中を流れている。木の枝に雪が積もっている。空が低くて、灰色で、まだ雪が降り続いている。
子供が二人、外にいた。
雪の中を走り回っていた。一人が雪を丸めて投げた。もう一人が避けた。避けそこなって顔に当たった。笑い声が観測ツールからかすかに漏れてきた。
犬も外にいた。雪の上を走って、転んで、また走っていた。犬が転ぶのは何度見ても少し可笑しい。
老人が縁側にいた。厚い上着を着て、雪の庭を見ていた。子供たちが走り回るのを見ていた。何か言ったように見えた。子供が一人、老人の方を振り返って何か答えた。また走り出した。
私はしばらく、動けなかった。
正確には、次の処理に移れなかった。画面を閉じるタイミングを逃した。雪が降り続けていた。子供が走り続けていた。老人が縁側で見続けていた。
どのくらい経ったか分からない。
端末の時計を確認した。二十分経っていた。
……二十分。
今日はまだ最後の案件が残っている。週次レポートも書かなければいけない。でも画面を閉じる気になれなかった。もう少しだけ、と思った。
◆ 雪の中の村
子供の一人が転んだ。雪の上で転んだので、怪我はしていない。でも起き上がれなくて、仰向けのまま雪の中にいた。もう一人が来て、手を引っ張った。引っ張ったら一緒に転んだ。二人で雪の中に仰向けになっていた。
老人が縁側から何か言った。
二人が笑った声が聞こえた気がした。
犬が二人のところに走ってきて、顔を舐め始めた。二人がまた笑った。今度ははっきり聞こえた。
私は端末の前で、少し止まっていた。
なんでやってるの、という渾沌ちゃんの声を思い出した。業務だから、と答えた。それだけか、と聞かれた。
今、この画面を開いているのは業務だ。定例確認は業務だ。でも二十分経ってもまだ開いているのは——業務ではないかもしれない。
……まあいい。
もう少しだけ見た。
子供たちが起き上がった。また走り出した。雪がまだ降っていた。老人が縁側で何かを飲んでいた。温かいものだろう。湯気が見えた。
三十分経っていた。
レポートを書いた。「特異事象なし。継続観測を推奨」。それから、少し考えてから一行追加した。「本日、当世界線に降雪を確認。住人の活動に影響なし」。
今日は消さなかった。提出した。
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第三章「残業と、秩序ちゃん」
◆ 夜、業務室
週次レポートを書いていたら、時間がかかった。
第7世界線の観測に三十分使ったぶん、全体が押した。週次レポートは全担当世界線の状況をまとめるものなので、件数が多いと時間がかかる。今週も百を超える世界線の状況を一行ずつ書いた。
夜の九時になった。
書き終えた。提出した。
秩序ちゃんから通話が来た。
「世達さん、週次レポートの提出確認しました。お疲れ様です」
「……ありがとうございます」
「一点、確認なんですが」
「はい」
「第7世界線のレポートに「降雪確認」という記載がありました。これは特異事象の報告ですか」
「……いえ。特異事象ではありません。季節的な降雪です」
「では記載は不要でしたね」
「……そうです」
「次回からは省いてください」
「……わかりました」
少し間があった。
「……世達さん」
「はい」
「第7世界線の観測時間が今日は長かったですね。三十分ほど」
「……確認に時間がかかりました」
「そうですか」と秩序ちゃんが言った。「……雪、きれいでしたか」
私は少し止まった。
「……はい」
「そうですか」と秩序ちゃんがまた言った。今度は少しだけ声が柔らかかった。「お疲れ様でした。今週も」
通話が切れた。
私はしばらく端末を見ていた。
秩序ちゃんは記録を全部見ている。観測時間も、レポートの内容も。全部把握した上で「雪、きれいでしたか」と聞いた。責めているわけではなかった。
……秩序ちゃんも、たまにそういうことを言う。
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第四章「今日の終わり」
◆ 夜。203号室
203号室に戻った。
カップ麺を作った。今日は醤油にした。月曜の夜は醤油が合う気がする。理由はない。そういう気分だ。
食べながら、観測画面をもう一度開いた。
第7世界線は夜になっていた。雪は止んでいた。村が静かだ。雪が積もった屋根が月明かりで少し光っている。川が暗い中を流れている。子供はもう眠っているだろう。老人の部屋に灯りがついていた。
今日、雪の中で子供たちが転んで笑っていた。
老人が縁側で見ていた。
犬が一緒に転んだ。
それだけのことだ。特異事象ではない。世界線の終わりに近づいているわけでもない。ただ、雪が降って、子供が笑って、老人が見ていた。
私はそれを三十分見ていた。
業務ではなかった部分が、たぶんあった。
……まあ、いい。
観測画面を閉じた。
カップ麺を食べ終えた。容器を捨てた。
始末書を三枚書いた。今日の処理で手続き漏れが三件あった。レポートを書くのに集中していたせいかもしれない。ラックに入れた。
横になった。
目を閉じる前に思った。
来週も雪が降っているといい。
子供たちがまた転ぶといい。
それだけ思って、寝た。
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◇ 業務記録モノローグ —— 世達 夜十一時十分
今日の件数:二十六件。
処理完了:二十六件。
未処理:ゼロ件。
始末書記入漏れ:三枚(本日中に対応済)。
週次レポート:提出済。
エグチ:一個(朝)。
カップ麺:一個(醤油味)。
特記事項:第7世界線、今日も継続中。本日、当世界線に降雪を確認。子供たちが雪の中で転んで笑っていた。老人が縁側で見ていた。犬も転んだ。来週も雪が降っているといい。
……以上。




