第六話「確認の日」
ストレスには重さがある。
比喩ではなく、物理的な重さだ。私の場合、蓄積したストレスが刃の形を取ることがある。必要な時に出てくる。必要でない時は出てこない。でもなくなったわけではない。どこかにある。
たまに、それを確認する必要がある。
確認しないと、気づかないうちに重くなっている。重くなっていることに慣れて、それが普通だと思い始める。それが良くないことは、経験上分かっている。
今日は確認する日だった。
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第一章「金曜の案件」
◆ 朝、業務室
金曜だった。
朝のエグチを食べながら端末を開いた。今日の案件数は十九件。週の終わりに向けて少し減ってきた。標準的な一日だ。
一件目。第501世界線が「全員の影が喋り始めた」。影の独立意識を抑制した。影が何を喋っていたかは確認しなかった。たぶん本体と似たようなことを喋っていたと思う。処理時間:十四分。
二件目。第73世界線が「建物が全部二センチ沈んだ」。地盤の概念的補正を行った。二センチという中途半端な数字が気になったが、原因は分からなかった。処理時間:十一分。
三件目。第155世界線が「全員の利き手が入れ替わった」。身体認識の再マッピングを行った。一部の住民が「左利きになったままでいい」と言ったので、その人たちは元に戻さなかった。処理時間:十八分。
午前中に十二件処理した。コーヒーを二杯飲んだ。
◆ 午後
午後は七件だった。
最後の案件、第7世界線の定例確認を行った。今日の第7世界線は午後の風があった。川のそばの住人が、何かを川に流していた。小さな何かを。葉っぱか、花か、遠いので分からない。流れていく何かを、しばらく見送っていた。
何かの儀式かもしれない。レポートに書こうかと思ったが、やめた。「特異事象なし。継続観測を推奨」とだけ書いた。
十九件、全部終わった。時計を見た。午後四時だった。早い。
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第二章「自分を整える」
◆ 午後四時。203号室
業務が早く終わったので、203号室に戻った。
ベッドの端に座った。
静かだった。業務室の静けさとは少し違う。業務室は「処理すべきことがある静けさ」だ。203号室の静けさは、そういう義務のない静けさだ。
少し、自分の状態を確認しようと思った。
目を閉じた。
今週を振り返った。月曜、三百二件——いや、それは先週だった。今週は水曜がゼロで、木曜が三十一件で、今日が十九件だ。合計で七十件前後。渾沌ちゃんが来た。有給を七時間取った。昼のエグチを初めて食べた。
蓄積しているものを確認した。
始末書の枚数。有給が取れなかった回数。処理した世界線の数。それぞれ「終わった案件」だが、終わったからといって消えるわけではない。どこかに積み重なっている。重さとして残っている。
どのくらい重いか。
……けっこう重い。
でも持てる重さだ。今のところは。
目を開けた。
重さを確認できた。それだけで少し違う。重さがあることを知らないのと、知っているのでは、同じ重さでも扱い方が変わる。これが私なりの整え方だ。誰かに教わったわけではない。いつからかそうなっていた。
少し、軽くなった気がした。
気がするだけかもしれない。でも気がするだけでも、悪くない。
◆ 整えながら
目を閉じたまま、もう少し続けた。
今週積み上がった重さの中で、特に引っかかっているものを探した。
渾沌ちゃんの質問が出てきた。「なんでやってるの、この仕事」。業務だから、と答えた。それだけ、と答えた。渾沌ちゃんは「嘘ついてない?」と言った。
嘘はついていない。でも答えとして十分かどうかは分からない。
その「分からない」が、少し重さになっている。
分からないことを分からないまま持っておく。急いで答えを出す必要はない。渾沌ちゃんも「また今度聞く」と言っていた。今度でいい。
重さを確認して、それだけにした。
目を開けた。
少し、すっきりした。刃を出して振るうより、こちらの方が自分には合っている気がする。ストレスを放出するより、ストレスと一緒に座っている方が。それが良いことかどうかは分からないが、私はそういうやり方をしてきた。
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第三章「夕方と、郷愁ちゃん」
◆ 夕方。廊下
203号室を出て廊下を歩いた。整えた後は少し外に出たくなることがある。理由は分からないが、そういう気分になる。
廊下の突き当たりに、郷愁ちゃんがいた。お盆に何かを乗せて、「黄昏」の方向に歩いていた。いつもの柔らかい制服で、歩き方が静かだ。気づかないうちに隣にいる、という感じがする人だ。
「あら、世達ちゃん。今日は早いのね」
「十九件で終わりました」
「それはよかった。少し顔が違うわね、今日」
「……そうですか」
「うん。整えてきた顔だから」
郷愁ちゃんが静かに言った。責めているわけでも、褒めているわけでもない。ただ見えているものを言っている声だった。
「お茶、飲んでいく?」
「……少しだけ」と私は言った。
◆ 「黄昏」にて
「黄昏」に入った。いつもの夕暮れが差し込んでいた。郷愁ちゃんがお茶を入れてくれた。今日は前回と別の茶葉だった。
「何の茶葉ですか、今日は」
「第19世界線の茶葉よ。一年中秋みたいな気候の世界線で、お茶の文化が発展してたの。焙じたような香りがするでしょう」
鼻に近づけた。確かに、少し焙じたような香りがした。温かくて、落ち着く香りだ。
「……第19世界線は」
「もう終わった世界線よ」と郷愁ちゃんが静かに言った。「でも茶葉は残ってる。こうして飲んでいれば、少しだけあの秋の空気が残る」
一口飲んだ。温かかった。焙じた香りと、少し渋い味と、それからどこか遠くの秋の感触があった。
「……おいしいです」
「でしょう」と郷愁ちゃんが言った。
しばらく二人で静かにいた。郷愁ちゃんは何も聞かなかった。私も何も言わなかった。「黄昏」の夕暮れが変わらずそこにあった。
「……今週、渾沌さんに「なんでやってるの」と聞かれました」と私は言った。
郷愁ちゃんが少し顔を向けた。
「なんて答えたの」
「業務だから、と答えました」
「そう」
「……それだけ、と言ったら、「嘘ついてない?」と言われました」
「渾沌ちゃんは、そういうところ鋭いのよ」と郷愁ちゃんが言った。「嘘ついてたの?」
「……ついていません。業務だから業務をしている。それは本当のことです」
「でも」
「……でも、それだけかどうかは、分かりません」
郷愁ちゃんが少し笑った。窓の外の夕暮れを見ながら。
「そういう答えって、急いで出さなくていいのよ」
「……渾沌さんも同じことを言いました」
「そうでしょうね」と郷愁ちゃんが言った。「渾沌ちゃんは、そういうことをちゃんと知ってるから」
お茶を一口飲んだ。第19世界線の秋の味がした。もう終わった世界線の、残った味だ。
終わった世界線の茶葉がここにある。それを今日、私が飲んでいる。
……まあ、そういうものか。
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第四章「今日の終わり」
◆ 夜。203号室
「黄昏」を出て、203号室に戻った。
今日はカップ麺を作る気にならなかった。冷蔵庫にあったおにぎりが二個あった。鮭と梅だった。両方食べた。
食べながら、今週を振り返った。
案件の数だけじゃない色々があった週だった。渾沌ちゃんの質問。有給七時間。昼のエグチ。郷愁ちゃんの茶葉。川で何かを流していた住人。
整えた後の自分は、少しだけ軽い。重さが消えたわけではない。でも重さの在り処を確認できた分、扱いやすくなっている。これが私の週末の始め方だ。
始末書を二枚書いた。今週の締めくくりだ。ラックに入れた。
横になった。
目を閉じる前に思った。
業務だから業務をしている。それは本当のことだ。でもそれだけかどうかは、まだ分からない。急いで出さなくていいなら、出さない。今は。
今日は第7世界線の観測画面を開かずに寝た。
毎晩開いていたのに、今日は開かなかった。理由は分からない。ただそういう気分だった。
それだけのことだった。でも少し、意外だった。
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◇ 業務記録モノローグ —— 世達 夜十時四十分
今日の件数:十九件。
処理完了:十九件。
未処理:ゼロ件。
始末書記入漏れ:二枚(本日中に対応済)。
自分の整備:実施。所要時間約三十分。重さの確認完了。
エグチ:一個(朝)。
夕食:おにぎり二個(鮭・梅)。カップ麺なし。
郷愁さんのお茶:第19世界線産。焙じた香り。おいしかった。
特記事項:第7世界線、今週も継続中。今日は観測画面を開かずに寝た。
……以上。




