第五話「渾沌ちゃんが来た」
業務室に人が来ることは、あまりない。
秩序ちゃんは通話で済ませる。摩天ちゃんは用件があれば廊下で言う。流焔ちゃんは来る時は来るが、用件が終わると即座に出ていく。郷愁ちゃんは来ない。来る時は「黄昏」に呼ばれる。
だから業務室は基本的に静かだ。私と端末と始末書のラックと、コーヒーだけがいる。それが標準だ。
今日は標準ではなかった。
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第一章「朝と、エグチと、来客」
◆ 朝、業務室
木曜だった。
朝のエグチを食べながら端末を開いた。今日の案件数は三十一件。昨日の反動か、少し多い。昨日がゼロだったので、体が三十一という数字を重く感じる。慣れの問題だ。
一件目を開いた。第66世界線が「全員の声が一オクターブ上がった」。音域の調整を行った。処理時間:九分。
二件目。第177世界線が「時計が全部逆回りになった」。時間概念の補正を行った。処理時間:十一分。
三件目を開いたところで、ドアがノックされた。
ノックの仕方に特徴があった。リズムが不規則で、少し強い。
……渾沌さんだ。
「どうぞ」
ドアが開いた。渾沌ちゃんだった。黒赤のツインテールが廊下の光を受けている。今日も元気そうだ。目が「何か面白いことを探している」という光をしている。
「世達ちゃん! 今日、暇?」
「……暇ではないです。三十一件あります」
「ふーん」と渾沌ちゃんが言って、入ってきた。
暇ではないと言ったが、入ってきた。
渾沌ちゃんが業務室の中を見回した。机と端末と始末書のラックを見た。「せまいね」と言った。「四畳半です」と答えた。「私の部屋より小さい」と言った。「渾沌さんの部屋は惑星が入っているので比較になりません」と言った。渾沌ちゃんが「そうだね!!」と笑った。
椅子がないので、渾沌ちゃんは始末書のラックの横に立った。
「何してるの」
「世界線の調整です」
「どういう作業なの」
「……今処理したのは、ある世界線で全員の声が一オクターブ上がったので、元に戻しました」
「なんで上がったの」
「原因は不明です。たまにそういうことが起きます」
「面白いじゃん」
「……面白くはないです。修正が必要なので」
渾沌ちゃんが「まあそうか」と言って、端末の画面を覗き込んだ。私は三件目の処理を続けた。
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第二章「仕事を見られながら仕事をする」
◆ 午前中
渾沌ちゃんはそのまま帰らなかった。
立ったまま、私が作業するのを見ていた。質問してくる時と、黙って見ている時がある。黙っている時の方が多い。渾沌ちゃんが黙っているのは珍しい気がするが、今日は珍しい日なのかもしれない。
四件目。第290世界線が「全員が同じ夢を見続けている(三週間目)」。共有認識の切断処理を行った。処理時間:十六分。
「今のは何」と渾沌ちゃんが聞いた。
「全員が同じ夢を三週間見続けていた世界線です。接続を切りました」
「どんな夢だったの」
「……広い草原を歩く夢だったそうです」
「それ、悪い夢じゃないじゃん」
「でも三週間は長いです。社会が機能不全になります」
「そっか」と渾沌ちゃんが言った。少し考えるような顔をした。「……その人たち、夢から覚めたくなかったのかな」
私は少し手を止めた。
「……わかりません。原因は共有認識の誤接続で、夢の内容に依存しないので」
「でも広い草原の夢なら、覚めたくない人もいるんじゃない」
「……そうかもしれません」
「世達ちゃんはどんな夢見るの」
「……見ません」
「見ないの!?」
「熟睡しているので」
「それはそれですごいね」と渾沌ちゃんが笑った。
私は五件目を開いた。
◆ 午前十一時
五件、六件と処理した。渾沌ちゃんはずっといた。
七件目。第38世界線が「重力が水平方向に変わった」。空間の重力ベクトルを補正した。処理時間:二十二分。やや複雑な案件だった。
処理している間、渾沌ちゃんは黙って見ていた。
「……大変じゃない、これ」と渾沌ちゃんが言った。終わった後で。
「慣れました」
「慣れるもんなんだ」
「慣れます」
「世達ちゃんって、ここに来てどのくらい経つの」
私は少し考えた。正確には覚えていない。体感では長い。でも最初の頃と今で、何かが大きく変わったかというと——変わっていないかもしれない。案件が来て、処理して、始末書を書いて、寝る。それが続いている。
「……正確には把握していません。けっこう経ちます」
「最初の頃と今、違う?」
「……処理速度は上がりました」
「それだけ?」
「……それだけです」
渾沌ちゃんが「ふーん」と言った。否定でも肯定でもない「ふーん」だった。
◆ 昼前
八件目を処理し終えた頃、渾沌ちゃんが聞いた。
「なんでやってるの、この仕事」
私は手を止めた。
なんでやっているか。
業務だから。それが最初に出てくる答えだ。でも渾沌ちゃんはたぶん、それを聞いている。業務だから業務をしている、というのは答えになっていない。
少し考えた。
「……業務だからです」
「それだけ?」
「……それだけです」
渾沌ちゃんが私を見た。何かを考えている顔だった。渾沌ちゃんが何かを考えているのは珍しい。
「世達ちゃん、嘘ついてない?」
「……ついていません」
「でも「それだけ」って言う時の顔、いつもと少し違った」
私は何も言わなかった。
渾沌ちゃんも何も言わなかった。
しばらく静かだった。業務室が静かなのはいつものことだが、今日の静けさは少し質が違った。
「……まあいっか」と渾沌ちゃんが言った。「また今度聞く」
「……そうですか」
「うん。そういう答えは、急いで出さなくていいやつだから」
渾沌ちゃんが伸びをした。「おなかすいた、ご飯行こ」と言った。「私は業務中です」と言ったら「昼休みにすれば」と言われた。「昼休みの概念がありません」と言ったら「今から作れば」と言われた。
論破された。
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第三章「昼と、午後」
◆ 昼休み(臨時)
渾沌ちゃんとリビング・オブ・カオスに行った。
渾沌ちゃんが何かを食べ始めた。私はエグチを一個持ってきた。昼のエグチは初めてだ。朝のエグチとは少し違う感触がした。スイッチを入れるためではなく、ただ食べている感触。
「おいしい?」と渾沌ちゃんが聞いた。
「……おいしいです」
「そっか。よかった」
渾沌ちゃんがそれ以上何も言わなかった。私も何も言わなかった。二人でリビング・オブ・カオスで食べた。モニターに何かの世界線が映っていたが、音は出ていなかった。
昼休みというのは、こういう時間なのかもしれない。何も処理しない時間。何も片付けない時間。ただ食べている時間。
悪くない。
でも午後の案件が気になり始めたので、早めに戻った。渾沌ちゃんが「もう行くの」と言った。「案件があります」と言ったら「まあそうか」と言った。
業務室に戻った。
午後の案件を処理した。渾沌ちゃんは来なかった。業務室がいつもの静けさに戻った。
◆ 午後の処理
二十二件処理した。合計で三十件。残り一件。
最後の案件を開いた。第7世界線の定例確認だった。
画面を開いた。夕方だった。第7世界線の夕方は橙色が濃い。村の輪郭が夕日で滲んでいる。老人が縁側にいた。今日も縁側だ。子供が庭に出てきて、老人の隣に座った。二人で夕日を見ている。
何かを話していた。
言葉はわからない。でも二人がそこにいて、同じ方向を向いているのは分かった。
レポートを書いた。「特異事象なし。継続観測を推奨」。
今日は余分な一行を追加しなかった。してもよかったが、しなかった。してもしなくても、あの二人が夕日を見ていたのは本当のことだから。
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第四章「今日の終わり」
◆ 夜
三十一件、全部処理した。
業務室が静かになった。今日は渾沌ちゃんが来た分、いつもより少し長く人がいた。静けさの質がいつもと少し違う。誰かがいた後の静けさは、最初からいない静けさと違う。
どちらが良いかは分からない。ただ、違う。
カップ麺を作った。醤油味だった。食べながら、渾沌ちゃんの質問を思い出した。
「なんでやってるの、この仕事」
業務だから、と答えた。それだけ、と答えた。渾沌ちゃんは「嘘ついてない?」と言った。
嘘はついていない。業務だから業務をしている。それは本当のことだ。
ただ——今日、昼のエグチを食べた時の感触を思い出した。朝のエグチとは少し違った。スイッチを入れるためじゃなく、ただ食べていた。それがどういうことかは、うまく言葉にならない。
始末書を四枚書いた。今日の処理で手続き漏れが四件あった。ラックに入れた。
第7世界線の観測画面を開いた。夜だった。村が暗い。老人の縁側に灯りがついている。子供はもう眠っているだろう。老人が一人、灯りの中にいる。
……今日も一日、ここにいたんだな。
私も今日一日、ここにいた。三十一件処理して、渾沌ちゃんに質問されて、昼のエグチを食べて、カップ麺を食べた。
それが今日だった。
観測画面を閉じた。
横になった。目を閉じる前に少しだけ思った。
渾沌ちゃんが「また今度聞く」と言っていた。また今度、何を答えるかは分からない。でも業務だから、以外の何かが出てくるかもしれない。出てこないかもしれない。
どちらでもいい。今は。
寝た。
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◇ 業務記録モノローグ —— 世達 夜十一時
今日の件数:三十一件。
処理完了:三十一件。
未処理:ゼロ件。
始末書記入漏れ:四枚(本日中に対応済)。
来客:渾沌さん(午前中〜昼)。
エグチ:二個(朝・昼)。昼のエグチは初めてだった。
カップ麺:一個(醤油味)。
特記事項:第7世界線、今日も継続中。老人と子供が夕日を見ていた。渾沌さんに「なんでやってるの」と聞かれた。答えは出ていない。
……以上。




