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第四話「案件ゼロの水曜日」


 数字のゼロは、何もないことを意味する。



 何もないことは、良いことのはずだ。案件がゼロなら処理する必要がない。処理する必要がなければ残業が発生しない。残業が発生しなければ始末書が増えない。論理的には、良い一日になるはずだ。



 ただ私は今朝、端末を開いてゼロという数字を見た瞬間に、ゼロが良いことだという論理を一時的に信じられなくなった。



 ……何かあったのか。



 何もないことが、不安だ。



 これは社畜の職業病だと思う。




───────────────────────


第一章「ゼロ件の朝」



◆ 朝、業務室



 水曜日だった。



 朝のエグチを食べ終えたところで、端末を開いた。右上の数字を確認した。



 ゼロ、だった。



 私は画面を閉じた。もう一度開いた。ゼロだった。端末を再起動した。ゼロだった。



 ……本当にゼロか。



 秩序ちゃんに通話した。



「おはようございます、世達さん」


「おはようございます。今日の案件数がゼロなんですが」


「把握しています。今日は偶然そういう日です」


「……偶然そういう日というのは」


「複数の世界線の処理サイクルが今日だけ重なっておらず、新規案件の発生も確認されていません。統計的に極めて稀なケースですが、起こり得ます」


「……どのくらい稀ですか」


「私が記録を取り始めてから初めてです」


「……そうですか」


「何かご不満がありますか」


「……いえ」



 通話を切った。



 コーヒーを入れた。飲んだ。温かかった。



 端末をもう一度開いた。ゼロだった。



 ……何をすればいいんですか。




◆ 午前九時。有給申請



 有給申請フォームを開いた。



 「取得日時:本日」「取得理由:案件がゼロのため」と入力した。申請ボタンを押した。



 三十秒後に秩序ちゃんから通話が来た。



「世達さん。有給申請を確認しました」


「はい」


「有給は事前申請が必要です。前日までに申請してください」


「今が事前です。本日はまだ午前九時です」


「……規定上、前日の業務終了前までの申請を事前申請とみなしています」


「それは今日初めて知りました」


「規定書の四十二ページに記載があります」


「……読んでいませんでした」


「お読みください。それから、有給承認には渾沌の合意が必要です」


「渾沌さんは今どこにいますか」


「……把握していません。今朝から行方不明です」


「行方不明」


「恐らく別の世界線にいます。戻り次第確認します」


「……わかりました」



 通話を切った。



 申請は却下された。今日も有給が取れなかった。案件がゼロの日ですら。



 コーヒーをもう一杯飲んだ。




───────────────────────


第二章「することがない午前」



◆ 午前十時。第7世界線の観測



 することがないので、第7世界線の観測を早めに行った。



 画面を開いた。水曜の朝だった。村に朝の光が入っている。炊事の煙が三軒から出ている。川のそばの住人がいつものように水を汲んでいる。子供が二人、何かを追いかけている。鳥だろうか。犬も一緒になって走っている。



 今日も変わっていない。



 私は画面を閉じずに、そのまま次の作業を考えた。次の作業がなかった。仕方なく観測を続けた。



 十分が経った。



 子供の一人が転んだ。もう一人が戻ってきて、手を貸した。二人でまた走り出した。



 ……元気だな。



 二十分が経った。



 老人が川のそばに来た。住人と何か話している。二人で川を見ている。笑ったように見えた。



 三十分が経った。



 私は今日初めて、観測画面を三十分開けたままにしたことに気づいた。いつもは確認して、レポートを書いて、五分以内に閉じる。今日は三十分経っていた。



 別に何もしていない。ただ見ていた。



 レポートを書いた。「特異事象なし。継続観測を推奨」。それから少し考えて、一行だけ追加した。「本日、老人と住人が川のそばで笑っていた」。



 それを書いてから、余分だと思って消した。



 提出した。




◆ 午前十一時。始末書



 することがないので、始末書を書いた。



 滞納していたものが十三枚あった。先週の処理でいくつか手続き漏れがあって、書かなければと思いながら後回しにしていたものだ。



 一枚ずつ書いた。



 書きながら、ふと思った。今日は案件がゼロだ。今日の処理はゼロだ。つまり今日の始末書はゼロのはずだ。でも今書いているのは先週の分で、始末書は案件がない日でも増える可能性がある。



 ……ゼロの日でも始末書は増えるのか。



 答えは出なかった。十三枚書き終えた。ラックに入れた。



 コーヒーが三杯目になっていた。




───────────────────────


第三章「午後と、渾沌ちゃんの帰還」



◆ 午後一時。昼食



 昼になった。



 エグチをもう一個食べようかと思ったが、やめた。午前中に業務をしていないので、スイッチを入れ直す必要がない。



 コンビニに行った。珍しく時間があるので、いつもより少し丁寧に選んだ。サンドイッチと、温かいスープと、プリン。プリンは節目の日に食べるものだが、今日は案件ゼロという意味では節目かもしれない。



 業務室に戻って食べた。スープが温かかった。サンドイッチはタマゴサラダだった。プリンは甘かった。



 食べながら、ぼんやりした。



 することがない午後だ。案件がゼロなので。



 ……案件がゼロの午後というのは、こういう感触なのか。



 悪くない。悪くないが、少し落ち着かない。何か見落としている気がする。でも見落としているものが何かは分からない。



 たぶん、何も見落としていない。今日だけは。




◆ 午後二時。渾沌ちゃんが戻ってきた



 廊下から大きな声がした。



「ただいま〜!! いやあ面白い世界線に迷い込んじゃって、全員が逆立ちしながら生活してるとこだったんだけど、私も逆立ちしてたら普通に時間経ってた!!!」



 渾沌ちゃんが戻ってきた。



 私は業務室のドアを開けた。



「渾沌さん」


「あ、世達ちゃん! どしたの」


「今朝、有給申請を出しました」


「え、いいじゃん! あげるあげる!!」


「……今から承認していただけますか」


「いいよ! 今日残り何時間あるの」


「……午後二時なので、あと七時間程度です」


「じゃあ今日の残り七時間、有給ね!!」



 渾沌ちゃんが親指を立てた。



 私は少し考えた。午後二時からの有給。案件はゼロ。業務室にいる必要はない。



「……ありがとうございます」


「珍しく素直じゃん」と渾沌ちゃんが笑った。「案件ゼロの日だもんね。こういう日くらい休みなよ」


「……そうします」


「どっか行くの」


「……どこにも行きません」


「なんで!?」


「……行く場所が思いつきません」


 渾沌ちゃんがしばらく私を見た。



「……世達ちゃんって、休み方知らないんだね」


「……そうかもしれません」


「まあいっか! またね!!」



 渾沌ちゃんが廊下を走っていった。どこかでまた何かをするつもりだろう。秩序ちゃんのため息が遠くから聞こえた気がした。




───────────────────────


第四章「七時間の有給」



◆ 午後二時十分。203号室



 203号室に戻った。



 狭い部屋だ。机と、本棚と、始末書のラックと、冷蔵庫と、ベッド。それだけで満杯になる。窓の外は現代日本の景色で、光が少し入っている。



 ベッドに座った。



 することがない。



 退職願の下書きを書こうかと思ったが、有給中に書くものではない気がした。始末書も今日の分はない。業務端末は見ない。



 ……有給というのは、何をする時間なんですか。



 答えが出なかった。



 仕方なく、横になった。



 天井を見た。白い天井だ。何もない。ぱんでむの壁にはどこかの世界線の記録が染み込んでいると聞いたが、天井を見てもそれは分からない。ただ白い。



 目を閉じた。



 眠れなかった。



 目を開けた。天井はまだ白かった。時計を見たら十五分経っていた。



 起き上がった。




◆ 午後三時。第7世界線、もう一度



 端末を開いた。業務端末ではなく、個人用の観測ツールだ。



 第7世界線を開いた。



 午後の光だった。村が静かだ。子供の姿が見えない。昼寝をしているのかもしれない。老人が縁側に座っている。何かを編んでいる。手が動いている。遠いので何を編んでいるかは分からない。



 私はベッドに横になったまま、観測画面を天井に向けた。



 天井に第7世界線が映った。



 老人が何かを編んでいる。手が動いている。風が少し吹いていて、縁側の端に置かれた何かが揺れた。



 ……のんびりしてるな。



 私もわりとのんびりしている。有給なので。



 そのまま三十分、天井の第7世界線を見ていた。老人が編み物を終えた。中に入った。子供が起きてきて、また走り出した。犬が慌てて後を追った。



 特に何もなかった。



 それで十分だった。




◆ 午後五時。秩序ちゃんから通知



 端末に通知が来た。



「世達さん、今日お疲れ様でした。明日の案件数は二十九件です」



 二十九件。普通の日だ。



 私は少し考えてから返信した。「わかりました。明日の朝のエグチ、一個多めに用意しておきます」。



 秩序ちゃんから「……体に気をつけてください」と返ってきた。胃薬の絵文字が一個ついていた。秩序ちゃんが絵文字を使うのは珍しい。



 私も胃薬の絵文字を一個返した。



 それだけのやりとりだったが、少し気持ちが前に向いた。




───────────────────────


第五章「今日の終わり」



◆ 夜。203号室



 夜になった。



 カップ麺を作った。今日は醤油ではなく、塩にした。理由はない。気分だ。有給の日くらい、気分で選んでいい。



 食べながら、今日一日を振り返った。



 案件ゼロ。有給七時間。始末書十三枚(先週の滞納分)。第7世界線を合計一時間以上観測した。プリンを食べた。天井に世界線を映した。秩序ちゃんと胃薬の絵文字を交換した。



 何もしなかった日のわりに、いろいろあった気がする。



 カップ麺を食べ終えた。容器を捨てた。



 横になった。



 目を閉じる前に思った。



 有給の使い方は、まだよく分からない。でも今日は悪くなかった。案件がゼロで、少し落ち着かなくて、天井に第7世界線を映して、塩のカップ麺を食べた。



 それが今日だった。



 明日は二十九件ある。朝のエグチを一個多めに用意する。それだけ考えて、寝た。




──────────────────


◇ 業務記録モノローグ —— 世達 夜十時二十分



 今日の件数:ゼロ件。


 処理完了:ゼロ件。


 未処理:ゼロ件。


 始末書記入漏れ:ゼロ枚。


 始末書滞納分:十三枚(本日処理済)。


 有給取得:午後二時〜。渾沌さん承認。七時間。


 エグチ:一個(朝)。


 カップ麺:一個(塩味)。プリン:一個。


 特記事項:第7世界線、今日も継続中。老人が縁側で何かを編んでいた。何を編んでいたかは分からなかった。



 ……以上。


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