第二十九話「おじいちゃんは知っていた」
金曜日。
出勤まで、二十三分。
私は玄関で靴を履いたまま、鞄から個人端末を出した。
《世達さんへ》
《私は、澄です》
《おじいちゃんから、あなたのことを聞いていました》
昨日と同じ文字だった。
読み直しても増えない。
「……確認事項がまた増えましたね」
誰もいない玄関で言った。
端末を閉じる。
出勤した。
◇
十八件。
私はエグチを置いて、業務端末を開いた。
第7世界線は開かない。
業務中に個人的な確認をしない。
これは前から決めている。
今日は少し守りにくいだけだった。
一件目。
第144世界線。
忘れ物をすると、持ち主の名前がその場所の床に表示される。
学校と飲食店で問題になっていた。
解除。
第730世界線。
誰かを待っている間だけ、時計の秒針が二倍速く見える。
実時間は変わらない。
処理不要。
第501世界線。
遺品を捨てると、一度だけ持ち主の声で「ありがとう」と聞こえる。
私は資料を止めた。
害はない。
ただ。
捨てられなくなった人がいる。
逆に、その声を聞くために捨てる人もいる。
本人の声かどうかは確認できない。
私は経過観測にした。
理由。
「現象が遺族の意思決定へ与える影響を追加確認するため」
保存。
次。
◇
昼。
コーヒーは冷めていた。
やっぱり。
「世達ちゃん」
秩序ちゃんが来た。
「はい」
「朝から同じ画面を三回開いています」
私は業務端末を見た。
第812世界線の資料。
「四回目です」
「そうですか」
「何かありました?」
「個人的な確認事項が一件」
「緊急ですか?」
「分かりません」
「では、勤務中に四回同じ資料を読む理由にはなりません」
「はい」
正しい。
私は第812世界線を処理した。
秩序ちゃんはまだいた。
「聞かないんですか?」
「何を?」
「個人的な確認事項」
「世達ちゃんが話したいなら聞きます」
少し困った。
そう言われると。
話す方を自分で決めないといけない。
「第7世界線の人に、名前を聞きました」
「はい」
「澄さん、だそうです」
「そうですか」
「それと」
私は冷たいコーヒーを一口飲んだ。
「前に観測していたおじいさんから、私のことを聞いていたそうです」
秩序ちゃんの目が止まった。
「世達ちゃんは、おじいさんへ情報を送りましたか?」
「いいえ」
「観測要求を受けたことは?」
「ありません」
「業務設備に双方向通信機能は?」
「ないはずです」
「はず、ですね」
「はい」
秩序ちゃんは少し考えた。
「記録しますか?」
私は答えなかった。
記録する。
業務上の異常として。
そうすれば第7世界線は、また私の仕事になる。
観測終了を押して。
個人的に見始めて。
名前を交換した。
そこまで来たものを。
「まだ、しません」
「理由は?」
「事実が足りません」
秩序ちゃんはうなずいた。
「では、先に確認してください」
「はい」
「ただし」
「はい」
「確認して異常だった場合は?」
私は少し黙った。
「記録します」
「分かりました」
秩序ちゃんは行った。
紙は置いていかなかった。
◇
十八件終わった。
始末書。
ゼロ。
私は203号室へ戻った。
カップ麺は塩味。
お湯を入れる前に、第7世界線を開いた。
夕方。
縁側。
澄さんがいた。
白い紙。
《おかえりなさい》
私は時計を見た。
十八時四十七分。
「……ただいま、でいいんでしょうか」
届かない。
澄さんが紙を替えた。
《聞きたいこと、ある?》
私は椅子へ座った。
紙を出す。
書く。
《おじいさんは、私の何を知っていましたか》
その下に。
《どうして知っていたんですか》
書いてから、二行目を消した。
まず一つ。
観測を切る。
◇
十九時六分。
観測要求。
許可。
私は紙を見せた。
《おじいさんは、私の何を知っていましたか》
十秒。
終わる。
待つ。
カップ麺にお湯を入れた。
三分。
食べる。
今日は伸びなかった。
十九時二十一分。
状態変化。
第7世界線を開く。
澄さんの紙。
《名前は知らなかった》
次。
《仕事も知らなかった》
次。
《でも、毎晩来る人がいるって》
私は箸を止めた。
澄さんがもう一枚出した。
《疲れてる日は遅いって》
次。
《ごはん食べながら見る日もあるって》
「……」
カップ麺を見る。
塩味。
まだ半分ある。
紙が替わる。
《おじいちゃん、あなたが来ると嬉しそうだった》
そこで。
澄さんは紙を下ろした。
◇
私は観測記録を開いた。
第7世界線。
過去の業務観測。
映像、音声。
観測者側から対象側への通信。
【なし】
通知。
【なし】
双方向接続。
【なし】
記録上は。
何もない。
でも。
老人は知っていた。
毎晩来ること。
遅い日があること。
食事をしながら見る日があること。
私が見ていた映像の中で。
老人は何度か、こちらを見た。
私はずっと。
たまたまだと思っていた。
あの日。
「今日は遅かったね」
そう口が動いたように見えた。
「お疲れさま」
そう見えた。
記録には残さなかった。
記録すれば、固定する気がしたから。
私は椅子の背へ寄りかかった。
「見えてたんですか」
画面の向こうで。
澄さんは湯呑みを持っていた。
◇
紙を書く。
《おじいさんは、私が見ている時に分かったんですか》
今度は消さない。
二十分後。
観測要求。
見せる。
待つ。
返事は、すぐには来なかった。
二十一時。
二十二時。
私は始末書を一枚書いた。
今日のものではない。
第7世界線。
異常報告。
題名だけ。
【観測対象による観測者認識の可能性】
本文は空欄。
保存もしない。
二十二時十三分。
通知。
澄さんが縁側にいた。
紙は一枚。
《分かった、じゃないよ》
裏返す。
《感じた、って言ってた》
私は画面を見た。
もう一枚。
《窓の外に、誰かがいる感じ》
次。
《でも怖くなかったって》
最後。
《ひとりじゃない感じがしたって》
澄さんは紙を下ろした。
私はしばらく動かなかった。
通信ではない。
少なくとも。
老人がそう呼んだものは。
通信ではなかった。
私は空欄の異常報告を見た。
題名を消した。
閉じる。
まだ、異常かどうか分からない。
ただ。
私が一方的に見ていたと思っていた夜に。
向こうでは。
名前も知らない老人が。
誰かが来た、と感じていた。
私は個人端末へ戻った。
紙を一枚出す。
《教えてくれて、ありがとうございます》
少し考える。
その下に書いた。
《私も、ひとりじゃない感じがしていました》
消さなかった。




