第三十話「異常ではなく」
月曜日。
二十件。
私はエグチを机に置いた。
業務端末を開く前に、紙を一枚出した。
《教えてくれて、ありがとうございます》
《私も、ひとりじゃない感じがしていました》
金曜日に書いたもの。
まだ澄さんには見せていない。
土日は、第7世界線を開かなかった。
向こうからの観測要求もなかった。
返事をしないまま二日。
紙を引き出しへ入れる。
仕事を始めた。
◇
第202世界線。
留守番電話へ残した声が、本人の帰宅一分前に玄関から聞こえる。
害は軽微。
経過観測。
第677世界線。
誰かと同じ傘に入ると、その人が次に見る夢へ一度だけ出る。
苦情、少数。
処理不要。
第931世界線。
独居者の部屋だけ、夜になると人がもう一人いる程度に暖かくなる。
私は資料を止めた。
暖房ではない。
室温は変わらない。
体感だけ。
住民アンケート。
【不快】十二パーセント。
【安心する】六十八パーセント。
【何も感じない】二十パーセント。
発生原因。
不明。
私は処理不要を押しかけた。
止める。
金曜日の紙が頭に浮かんだ。
戻す。
経過観測。
理由欄。
「感覚の発生条件と、本人の意思による停止可否を確認するため」
保存。
次。
◇
十一件終わったところで。
業務端末に見慣れない通知が出た。
【観測系統 未分類事象】
私は開いた。
対象。
第7世界線。
発生日。
過去九十三日間。
検出内容。
【観測対象側に、観測実行時刻との相関を持つ行動変化を確認】
私は画面を見た。
老人。
九十三日。
私が業務で第7世界線を見ていた期間だった。
検出例。
観測開始後、平均十一秒以内に縁側へ視線を向ける。
観測が遅れた日は、通常より長く縁側に残る。
観測終了直前、湯呑みを持ち上げる頻度が上昇。
統計上の偶然。
【可能性低】
「今ですか」
思わず言った。
老人が亡くなってから。
名前を交換してから。
私が金曜日に過去記録を開き直したから、解析対象になったらしい。
画面の下。
【事象を業務異常として登録しますか】
【登録】
【保留】
【対象外】
指を止めた。
◇
「世達ちゃん」
秩序ちゃんを呼んだ。
今回は向こうからではない。
数分後、来た。
「どうしました?」
私は画面を見せた。
秩序ちゃんは最初から最後まで読む。
「金曜日に話していた件ですね」
「はい」
「記録が出ましたね」
「はい」
「登録しますか?」
「それを聞こうと思って」
「私に?」
「はい」
「世達ちゃんの案件です」
「今は私的観測です」
「事象が起きた時点では業務観測です」
逃げ道が一つ減った。
「異常だと思いますか?」
秩序ちゃんは画面を見た。
「分かりません」
「ですよね」
「ただ、異常かどうかと、記録するかどうかは別です」
私は黙った。
それは。
前にも聞いた気がする。
決めたなら、残してください。
私は【登録】へ指を置いた。
まだ押さない。
「登録したら、第7世界線はまた業務案件になりますか?」
「可能性はあります」
「担当を外されることは?」
「あります」
「個人観測権限は?」
「再審査になるでしょう」
「澄さんとの相互観測は?」
「停止される可能性があります」
全部。
嫌だった。
私は画面を見た。
【保留】なら、今は何も変わらない。
追加確認という理由も立つ。
実際、分からないことは多い。
でも。
私は金曜日に秩序ちゃんへ言った。
確認して異常だった場合は、記録します。
異常かどうかは、まだ分からない。
だから。
記録しない。
それは少し違う。
「異常として登録するのは嫌です」
「はい」
「でも、なかったことにするのはもっと嫌です」
秩序ちゃんは何も言わなかった。
私は【登録】を押した。
◇
登録画面。
【分類を選択してください】
異常。
障害。
干渉。
観測事故。
その他。
私は【その他】を選んだ。
名称。
空欄。
少し考える。
「相互認識」
入力。
説明。
「観測対象が、技術的通知を伴わず観測者の存在を認識する可能性」
そこで止める。
認識。
老人は「感じた」と言った。
私は一語消した。
「観測対象が、技術的通知を伴わず観測者の存在を感知する可能性」
保存。
【登録完了】
【暫定分類:その他/相互認識】
秩序ちゃんが画面を見る。
「異常ではなく?」
「まだ分からないので」
「そうですか」
「だめですか?」
「分類理由が残っていれば、私は構いません」
「残します」
「では、始末書ではありません」
「よかったです」
「追加報告書です」
「何枚ですか?」
「三枚です」
「増えましたね」
「はい」
◇
午後。
第7世界線の状態が変わった。
【通常監視】
から。
【観測研究対象】
へ。
担当者。
【世達】
私はそこを二回読んだ。
外されなかった。
個人観測権限。
【継続】
相互観測。
【継続可】
ただし、新しい項目が一つ増えていた。
【対象者同意:未確認】
私は手を止めた。
澄さんは観測を送ってくる。
私の質問にも答える。
だから、同意している。
そう思っていた。
でも。
何に同意しているのかは聞いていない。
私と話すこと。
観測されること。
研究対象になること。
全部、同じではない。
私は三枚の追加報告書を脇へ置いた。
◇
二十件終了。
203号室。
今日はカップ麺を作らなかった。
紙を机へ出す。
金曜日のもの。
《教えてくれて、ありがとうございます》
《私も、ひとりじゃない感じがしていました》
その下に、新しい紙を置いた。
書く。
《一つ、伝えないといけないことがあります》
次。
《おじいさんが私を感じていたことを、仕事の記録に残しました》
ペンが止まる。
次の一行は。
少し時間がかかった。
《これからも、私に見られていて大丈夫ですか》
見直す。
研究対象という言葉は書かなかった。
だめだと思った。
紙を替える。
《記録は、調べるためにも使われます》
《嫌なら、やめます》
これで全部。
私は第7世界線を開いた。
夜。
縁側は空だった。
白い紙もない。
観測を切る。
待つ。
◇
二十一時四十二分。
【第7世界線から、あなたへの観測要求があります】
私は許可した。
十秒。
最初の紙。
《教えてくれて、ありがとうございます》
《私も、ひとりじゃない感じがしていました》
次。
《おじいさんが私を感じていたことを、仕事の記録に残しました》
残り五秒。
次。
《これからも、私に見られていて大丈夫ですか》
次。
《記録は、調べるためにも使われます》
《嫌なら、やめます》
【観測終了】
十秒では足りなかった気がした。
でも。
全部見える位置には置いた。
◇
二十二時十一分。
状態変化。
第7世界線。
澄さんが縁側にいた。
紙を持っている。
《記録するのは、いいよ》
次。
《調べるのも、いい》
次。
《でも》
私は画面へ少し近づいた。
最後の紙。
《見るのをやめるかどうかは、私にも決めさせて》
私はその一行を読んだ。
一度。
二度。
それから。
業務端末を開いた。
【対象者同意:未確認】
編集。
【対象者同意:条件付き】
条件。
「観測継続・停止の判断に対象者本人の意思確認を必要とする」
保存。
画面の表示が変わった。
【対象者同意:条件付き】
私は個人端末へ戻った。
紙を一枚出す。
《分かりました》
その下。
《次から、二人で決めましょう》
今度は。
それを仕事の記録にも残した。




