第二十八話「名前を書く」
金曜日。
十七件。
私は出勤して、エグチを机に置いた。
個人端末は鞄の中。
昨夜から一度も見ていない。
返事は急がなくていい。
自分でそう言ったので。
待つことにした。
業務端末を開く。
一件目。
◇
第214世界線。
名前を呼ばれるたび、呼ばれた人の身長が一ミリ伸びる。
学校で被害が大きい。
解除。
第699世界線。
捨てた物が、一度だけ持ち主の玄関へ戻ってくる。
粗大ごみの日が大変なことになっていた。
解除。
第35世界線。
生まれた子供に、二十歳になった本人が決めるはずの名前が先に付く。
私は資料を止めた。
赤ん坊。
母親が抱いている。
「ミナ、だって」
「いい名前じゃない」
「うん。でも、私たちが付けたかったな」
父親が笑った。
「二十年後に本人へ文句言おう」
二人とも困っていた。
でも、嫌がってはいなかった。
別の家庭では違った。
表示された名前を拒否して、親が別の名前を付けている。
その子も普通に育っていた。
強制力はない。
未来が確定するわけでもない。
ただ、名前だけが先に届く。
私は経過観測にした。
理由欄。
「選択可能性が維持されているため」
保存。
次。
◇
昼。
秩序ちゃんが私の机の前を通った。
通り過ぎた。
三歩戻ってきた。
「世達ちゃん」
「はい」
「今日は見ないんですか?」
「何をですか」
「聞き返すなら、いいです」
「待ってます」
秩序ちゃんは少しだけ眉を動かした。
「何を?」
「返事を」
「確認しないで?」
「はい」
「難しくありませんか」
「かなり」
「そうでしょうね」
秩序ちゃんは持っていたファイルを机に置いた。
「第104世界線の処理結果です」
前に私が担当を外れた案件。
毎日十秒、知らない誰かの生活が見える世界線。
別の担当者の判断は。
【処理不要】
理由。
【現時点で重大な生活侵害を確認できず。対象者が観測を認識した場合は再評価】
私は二回読んだ。
「同じですね」
「何がですか?」
「私が決めても、たぶんこれでした」
「だから担当を外れた意味がない?」
「少し思いました」
秩序ちゃんはファイルを取った。
「同じ結論になることと、自分で決めてよいことは、別ですよ」
「はい」
「では」
今度は戻ってこなかった。
私はエグチの包みを丸めた。
コーヒーを飲む。
まだ温かかった。
珍しい。
◇
十六件目。
第570世界線。
住民全員が、自分の名前を一日に一度忘れる。
平均四分十二秒で思い出す。
その間も家族の名前は分かる。
仕事も住所も分かる。
自分だけが抜ける。
映像の中で、老人が病院の受付に立っていた。
「お名前をお願いします」
「ええと」
老人は笑った。
「今ちょうど、ないんです」
受付の人も慣れていた。
「では、思い出すまでこちらで」
椅子を示す。
老人は座った。
三分ほどして。
「ああ」
立ち上がった。
「ありました」
重大事故はない。
社会制度も対応済み。
私は処理不要を選んだ。
確認。
保存。
その瞬間。
鞄の中で、個人端末が鳴った。
私は見なかった。
十七件目を終わらせた。
◇
203号室。
今日は醤油味。
お湯を入れる前に、個人端末を机へ置いた。
通知、一件。
【第7世界線に観測可能な状態変化があります】
私はカップ麺にお湯を入れた。
三分待った。
先に食べた。
半分くらい。
それから通知を開いた。
第7世界線。
夜。
縁側。
女性がいた。
白い紙を持っている。
私は拡大した。
《こんばんは》
昨日、私が書いたのと同じ言葉。
紙を裏返す。
《きのう見ていたのは、私です》
私は箸を置いた。
「やっぱり」
女性は紙を下ろした。
もう一枚ある。
《あなたの名前は?》
そこで映像が終わった。
◇
名前。
私は机の上の紙を見た。
昨日の紙。
《こんばんは》
《昨日、見ていたのはあなたですか》
裏は白い。
ペンを持つ。
書こうとして。
止まった。
世界線管理業務では、担当者の個人情報を観測対象へ伝えない。
規則がある。
相互観測は昨日できたばかりで、まだ規則がない。
ないから書いていい。
とはならない。
私は業務端末を開いた。
規定を検索する。
【観測対象への個人識別情報開示】
禁止。
対象は業務観測。
個人観測については。
【規定なし】
私は画面を閉じた。
個人端末を見る。
女性はもう映っていない。
名前を聞かれただけだった。
答えなくてもいい。
それで終わる。
たぶん。
引き出しを開ける。
奥に、退職届があった。
まだ途中。
取り出さない。
その手前から新しい紙を取った。
書く。
《世達です》
見た。
少し足す。
《そちらは?》
それだけ。
◇
二十一時十三分。
【第7世界線から、あなたへの観測要求があります】
私は許可した。
十秒。
紙を持ち上げる。
《世達です》
《そちらは?》
残り六秒。
私は紙を下ろした。
「世達です」
言ってから。
少し変な感じがした。
仕事では毎日、名前を使う。
書類にも書く。
始末書にも書く。
でも。
世界線の向こうへ名乗ったことは、一度もなかった。
【観測終了】
部屋が静かになった。
カップ麺は伸びていた。
「またですか」
食べる。
◇
翌朝。
私は少し早く起きた。
個人端末には通知があった。
すぐ開いた。
第7世界線。
朝。
縁側に誰もいない。
白い紙だけが置いてある。
風で端が浮いている。
拡大。
《世達さんへ》
その下。
《私は、澄です》
澄。
私は声に出さなかった。
もう一行あった。
《おじいちゃんから、あなたのことを聞いていました》
私は画面を止めた。
指が、そのまま動かなかった。
おじいちゃん。
あの人。
通信経路はなかった。
少なくとも。
私が知っている限りでは。
紙の下には、まだ余白がある。
でも文字は、それだけだった。
私は時計を見た。
出勤まで二十三分。
端末を閉じる。
鞄に入れる。
今日は。
たぶん、コーヒーが冷める。
玄関を出る前に。
もう一度だけ、鞄を見た。
名前を知った。
名前を知られた。
それだけで。
第7世界線は昨日までと同じ場所には、もう戻らなかった。




