第二十七話「返事をする」
木曜日。
十五件。
少ない。
私はエグチの包みを開いてから、個人端末を見た。
通知はない。
第7世界線も開いていない。
昨夜、向こうから十秒見られた。
「今日は、私が決めました」
そう言った。
それから私は、向こうを確認しなかった。
確認しないと決めた。
だから。
朝になって確認するのも、少し違う気がした。
エグチを食べる。
業務端末を開く。
一件目。
◇
第63世界線。
郵便物が、宛先ではなく「いちばん読んでほしい人」へ届く。
請求書までそうなるので、かなり困っていた。
解除。
第402世界線。
鏡を見ると、三秒だけ昨日の自分が映る。
事故なし。
生活影響、軽微。
処理不要。
第718世界線。
謝罪すると、相手の記憶から謝罪の原因だけが消える。
私は資料を二回読んだ。
学校。
男の子が、割った花瓶の前で頭を下げていた。
「ごめんなさい」
先生が瞬きをした。
床の破片を見る。
「これ、誰が割ったの?」
男の子は口を開いた。
閉じた。
別の映像。
夫婦。
「昨日はごめん」
「何が?」
「……何でもない」
謝るほど。
謝った理由が、相手からなくなる。
許されたのかどうかも分からない。
私は現象を解除した。
理由欄。
「関係当事者間の意思確認を継続的に阻害するため」
保存。
次。
◇
八件終わった。
コーヒーは冷めていた。
いつも通り。
そこへ秩序ちゃんが来た。
手には紙がなかった。
少し安心した。
「世達ちゃん」
「はい」
「昨日の第327世界線、追加報告です」
「男の子ですか?」
「はい」
端末をこちらへ向ける。
手術後二十四時間。
容体、安定。
重大な後遺症、現時点では確認されず。
私は一番下まで読んだ。
停止処理による追加異常。
なし。
「よかったです」
「はい」
秩序ちゃんは端末を戻した。
帰らない。
「何ですか?」
「いえ」
「始末書なら書きました」
「知っています」
「では」
「昨日も、見られたんですか?」
私は少しだけ黙った。
「はい」
「許可した?」
「しました」
「送信主体は?」
「分かりません」
秩序ちゃんは私を見た。
「それで、何を見せたんですか?」
「始末書です」
「……始末書」
「はい」
「なぜ?」
「昨日、私が決めたことだったので」
「そうですか」
秩序ちゃんはそれ以上聞かなかった。
代わりに、私の机の端にあるコーヒーを見た。
「冷めていますよ」
「知ってます」
「飲まないんですか?」
「飲みます」
飲んだ。
冷たかった。
秩序ちゃんは行った。
◇
十二件目。
第851世界線。
少し変わった案件だった。
世界線そのものに異常はない。
観測設備側の問題。
【観測対象から観測者への応答を検出】
私は手を止めた。
詳細を開く。
観測されていることを知った住民が、観測装置へ向けて行動する。
手を振る。
文字を書く。
物を置く。
話しかける。
技術的な通信は成立していない。
観測者がそれを見るだけ。
それでも、管理規則上は「観測への応答」に分類される。
対応候補。
一、観測継続。
二、観測停止。
三、対象へ観測不可視化処理。
私は映像を開いた。
海沿いの町。
小さな食堂。
店主らしい男性が、閉店後のテーブルを拭いている。
途中で顔を上げた。
観測点を見た。
布巾を置く。
紙を一枚持ってきた。
太いペンで書いた。
《見えてる?》
紙を持ち上げた。
観測記録によれば、これが七日続いている。
一日目。
《見えてる?》
二日目。
《昨日もいた?》
三日目。
《仕事?》
四日目。
《返事できない?》
五日目。
《まあいいや》
六日目。
《今日、魚うまかった》
七日目。
今日。
《そっちも飯食え》
私は映像を止めた。
重大な害。
なし。
対象者の心理状態。
安定。
観測拒否申請。
なし。
観測継続希望。
あり。
理由。
《誰かいるなら、たまに見てて》
私は処理画面を閉じた。
経過観測。
理由欄。
「対象者が観測を認識し、継続を希望しているため。観測者側の応答手段については別途検討」
保存。
そこで。
個人端末が鳴った。
◇
業務通知ではなかった。
【第7世界線に観測可能な状態変化があります】
私は通知を見た。
開かなかった。
十二件目を閉じる。
十三件目。
十四件目。
十五件目。
全部終わらせた。
始末書。
ゼロ。
珍しい。
業務端末を閉じた。
個人端末を見る。
通知は残っている。
私はそれを持って、203号室へ戻った。
◇
今日は味噌味だった。
お湯を入れる。
三分。
個人端末を机の中央へ置いた。
第7世界線。
接続。
夜。
川。
家。
縁側。
女性がいた。
湯呑みは一つ。
膝の上に、白い紙がある。
前に見た紙だった。
あの時は何も書いていなかった。
今日は。
文字があった。
私は拡大した。
《きのうは、おつかれさま》
見たまま、動けなかった。
女性は紙を持ち上げた。
こちらへ向けた。
私は昨日。
「今日は、私が決めました」
と言った。
始末書を見せた。
それを聞いた誰かがいる。
女性が観測者だった。
たぶん。
でも。
まだ、たぶんだった。
私は画面へ顔を近づけた。
女性は紙を下ろした。
裏返す。
もう一行。
《ごはん、ちゃんと食べて》
机の横で。
タイマーが鳴った。
三分。
私は止めた。
カップ麺の蓋を開けた。
女性は待っていた。
たぶん。
私は箸を持った。
一口食べた。
画面へ向けて、カップを少し持ち上げた。
「食べてます」
届かない。
今は、こちらから観測しているだけだから。
女性は動かなかった。
私はもう一口食べた。
それから。
机の引き出しを開けた。
白い紙を一枚出した。
ペン。
書く。
《こんばんは》
少し考えた。
その下。
《昨日、見ていたのはあなたですか》
紙を個人端末の横へ置いた。
まだ見せない。
今は向こうから見えていない。
私は観測を切った。
画面が暗くなる。
白い紙だけが残った。
◇
十七分後。
個人端末が鳴った。
【第7世界線から、あなたへの観測要求があります】
十秒。
送信主体、特定不能。
【許可】
【拒否】
私はすぐには押さなかった。
紙の位置を直した。
カップ麺を端へ寄せた。
ペンを紙の上に置いた。
それから。
【許可】
押した。
【観測開始】
私は紙を持ち上げた。
《こんばんは》
《昨日、見ていたのはあなたですか》
【残り七秒】
紙を下ろす。
何も起きない。
【残り四秒】
「返事は、急がなくていいです」
【残り二秒】
少し考えた。
「私も、そうだったので」
【観測終了】
画面が戻った。
私は紙を机に置いた。
第7世界線を開こうとした。
指が止まった。
やめた。
返事をした直後に、返事を覗きに行くのは。
たぶん。
少し違う。
私はカップ麺を食べた。
今度は伸びる前に。
◇
寝る前。
個人端末に新しい表示が一つ増えていた。
第7世界線。
【相互観測履歴 3】
昨日までは。
【観測履歴】
だった。
私はその文字を見た。
相互。
勝手に増えた分類だった。
第310世界線を残したとき。
処理画面に【処理不要】が増えた。
今度は。
見る側と見られる側を分けていた画面に。
【相互観測】
が増えた。
私は端末を伏せた。
白い紙は捨てなかった。
引き出しにも入れなかった。
机の上に置いた。
返事が来るかは。
分からない。
でも。
今夜から。
私はもう、ただ見ているだけではなかった。




