第二十六話「私が決めます」
水曜日。
十七件。
私はエグチを半分食べたところで、個人端末を伏せた。
第7世界線は開いていない。
昨日の夜から、一度も。
見ようと思えば見られる。
向こうから十秒、こちらを見られた。
私も向こうを見た。
だから今日は、少し置いておくことにした。
業務端末を開く。
一件目。
◇
午前中は静かだった。
第52世界線。
雨の日だけ、建物の階数が一階増える。
被害なし。
処理不要。
第611世界線。
出生届を出すと、赤ん坊の名前が一日だけ町中の看板に表示される。
住民から苦情あり。
原因特定。
表示現象のみ除去。
第90世界線。
猫が全員、午後三時に西を向く。
理由不明。
害なし。
経過観測。
九件終わった。
コーヒーはまだ温かかった。
「今日は始末書、ゼロでいけそうですね」
言った。
誰も聞いていなかった。
たぶん、そのせいだった。
◇
十件目。
第327世界線。
開いた瞬間、赤い表示が出た。
【緊急案件】
異常内容。
その世界では、決定を保留した時間だけ、決定の対象が劣化する。
物なら壊れる。
契約なら条件が悪くなる。
道路ならひびが増える。
病気なら進行する。
保留を解除すれば、劣化も止まる。
いつからそうなったのかは不明。
住民はすでに対応していた。
買うか、買わないか。
行くか、行かないか。
結婚するか、しないか。
手術するか、しないか。
何でも早く決める。
迷わない。
正確には。
迷っている時間がない。
私は資料を送った。
社会影響。
重大。
誤決定率。
上昇。
医療事故。
上昇。
離婚率。
上昇。
自殺率。
上昇。
それでも、保留による被害の方が大きい。
画面の右上で数字が減っていた。
【重大劣化まで 00:08:41】
対象。
市立病院。
患者、二百十三名。
異常の中心が病院内へ移動している。
私は処理候補を開いた。
一、異常現象を即時停止。
二、局所隔離して原因解析。
三、世界線全体を一時停止して精査。
四、担当変更。
私は四を見た。
昨日、第104世界線で使った。
自分の判断が混ざるなら、別の人に渡す。
それは間違っていない。
押した。
【担当変更の完了見込み 十一分】
右上。
【重大劣化まで 00:08:12】
指を離した。
◇
病院の映像を開いた。
救急処置室。
白い照明。
カーテン。
金属のワゴン。
床に落ちた透明な包装。
ベッドの上に、小さな男の子がいた。
酸素マスク。
母親が手を握っている。
医師が二枚の同意書を持っていた。
「こちらなら成功率は高いです。ただし、後遺症の可能性があります」
「もう一つは?」
「後遺症の可能性は低いです。ただ、今の状態では成功率が下がります」
「どっちがいいんですか」
医師は答えなかった。
答えられないのだと思う。
母親も紙を見た。
決められない。
モニターの数字が一つ下がった。
その世界では。
決めないことも、待ってくれない。
私は映像を閉じた。
【重大劣化まで 00:06:55】
異常現象を止めればいい。
たぶん。
ただし警告がある。
【停止時、保留中対象の劣化状態は復元されません】
今まで迷った分は戻らない。
止めた後も、医師と母親は決めなければならない。
でも。
これ以上は減らない。
私は【即時停止】へ指を置いた。
止めた。
◇
何も光らなかった。
世界も暗くならなかった。
処置室のモニターが鳴っている。
医師が同意書を一枚、机へ置いた。
「今からなら、こちらを勧めます」
母親が男の子を見た。
「お願いします」
署名した。
医師が動いた。
看護師がワゴンを押した。
ベッドが画面の外へ出ていった。
右上のカウントは。
消えていた。
私は椅子に座り直した。
手の下に、汗が少し残った。
◇
「世達ちゃん」
秩序ちゃんだった。
「はい」
「緊急案件が入りましたね」
「終わりました」
「早いですね」
「七分くらいです」
秩序ちゃんが端末を見る。
「担当変更を試みましたか?」
「はい」
「間に合いませんでした?」
「はい」
「それで?」
「私が決めました」
言ってから。
変な感じがした。
昨日は。
今日は私が決めません。
そう言った。
今日は逆だった。
秩序ちゃんは処理記録を読んだ。
「原因は?」
「分かりません」
「副作用は?」
「分かりません」
「停止が正しかったかは?」
「まだ分かりません」
「そうですか」
紙を一枚、机へ置いた。
始末書だった。
「早くないですか?」
「原因未特定の世界線へ即時停止処理を実施していますので」
「まだ何も起きてません」
「起きてから書くものではありません」
「そうでした」
私は紙を取った。
十一枚の上に置く。
十二枚。
秩序ちゃんは帰ろうとした。
「秩序ちゃん」
「はい」
「昨日、私が決めなかったのは、間違いでしたか?」
秩序ちゃんは振り返った。
「第104世界線ですか?」
「はい」
「私はそうは言っていません」
「今日、私が決めたのは?」
「私が決めることでもありません」
「……そうですね」
「ただ」
秩序ちゃんは十二枚目の紙を指した。
「決めたなら、残してください」
行った。
私は始末書を見た。
◇
午後。
第327世界線から追加報告。
病院。
患者二百十三名。
異常停止後の追加劣化、ゼロ。
男の子。
手術終了。
生存。
後遺症。
現時点、不明。
原因。
不明。
停止処理による長期影響。
不明。
分からないものが多い。
でも。
一つだけ減っていた。
保留中。
ゼロ。
◇
十七件、終了。
始末書。
十二枚。
今日の分、一枚。
私は一番上の紙を書いた。
処理理由。
「判断を保留した場合、第三者への重大な被害が拡大すると判断したため」
そこで止まった。
少し考えた。
一行、足した。
「原因未特定の状態で停止を決定した責任は、担当者である私にあります」
読み返した。
消さなかった。
署名。
世達。
◇
夜。
203号室。
カップ麺にお湯を入れた。
三分。
個人端末は机の端にある。
第7世界線は開いていない。
二分。
通知も来ない。
一分。
私は始末書の控えを見た。
自分の名前。
今日は、そこが少し重かった。
ゼロ。
蓋を開ける。
個人端末が鳴った。
【第7世界線から、あなたへの観測要求があります】
十秒。
送信主体、特定不能。
【許可】
【拒否】
昨日と同じ。
私は少し考えた。
カップ麺は待ってくれない。
でも。
これは待てる。
私は端末を伏せた。
先に麺を食べた。
三口。
それから画面を戻した。
要求は、まだ残っていた。
私は【許可】を押した。
【観測開始】
今日は鞄を直さなかった。
上着も畳まなかった。
始末書の控えを机に置いたままにした。
【残り六秒】
「こんばんは」
返事はない。
【残り四秒】
私は紙へ手を置いた。
「今日は、私が決めました」
【観測終了】
十秒。
終わった。
私は第7世界線を開かなかった。
向こうが何を見たのか。
今は、確認しないことにした。
机の上には。
私の名前が残っていた。




