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第二十二話「残す理由」


 木曜日だった。


 朝のエグチを食べながら、端末を開いた。


 今日の案件数は二十三件。


 少ない。


 昨日は二十六件だった。


 三件少ない。


 だから少し早く帰れるかもしれない。


 そう思った。


 端末の右上に、小さな通知が出ていた。


 【昨日の判断記録に基づき、処理基準を更新しました】


 私はエグチを食べる手を止めた。


 昨日の判断記録。


 第241世界線。


 第88世界線。


 第712世界線。


 私は昨日、いくつかの世界線を「正常に戻さなかった」。


 その理由を書いた。


 ただ、それだけだった。


 通知を開いた。


 そこには、新しい項目が一つ増えていた。


 【処理不要】


 私はしばらく、それを見ていた。


 ……私が作ったのだろうか。


 そんなつもりはなかった。


 でも。


 たぶん、私が作った。


───────────────────────


第一章「処理不要」


◆ 朝、業務室


 一件目を開いた。


◆ 第310世界線「一年に一度だけ、死者が帰宅する世界線」


 概要欄を読んだ。


「【報告】第310世界線において、死亡した住民が一年に一度、かつて生活していた住居へ帰還する現象を確認。帰還時間は日没から翌朝まで。物理的接触および会話が可能。日の出と同時に消失する」


 ……死者が帰ってくる。


 かなり異常だった。


 詳細を読んだ。


 映像があった。


 ある家。


 玄関が開いた。


 老婦人が立っている。


 家の中から、若い男性が走ってきた。


「母さん」


 男性が抱きついた。


 老婦人も抱き返した。


 二人とも泣いていた。


 その後、食卓で夕飯を食べていた。


 老婦人は肉じゃがを作っていた。


 男性は三杯おかわりした。


 午前五時四十分。


 空が明るくなった。


 老婦人は玄関に立った。


「また来年ね」


 そう言った。


 男性は、


「うん」


 と答えた。


 日の出。


 老婦人は消えた。


 私は映像を止めた。


 異常原因。


 死者の一時的物質化。


 修正可能。


 世界線の死生境界を再固定すれば、帰還現象は停止する。


 処理時間予測、十八分。


 カーソルを処理ボタンへ動かした。


 止めた。


 昨日増えた項目があった。


 【処理不要】


 選択した。


 確認画面が出た。


 【理由を入力してください】


 私は少し考えた。


「現象による世界線機能への重大な障害を確認できないため」


 入力。


 送信。


 処理完了。


 ……。


 死者を生き返らせたわけではない。


 死者を消したわけでもない。


 何もしなかった。


 なのに。


 以前より、仕事をした感じがした。


 二件目を開いた。


◆ 第119世界線「嘘をつくと声が届かなくなる世界線」


 概要欄を読んだ。


「【報告】第119世界線において、発話者が自身で虚偽と認識している内容を口にした場合、音声が物理的に発生しない。社会活動に広範な影響あり」


 ……嘘が言えない。


 詳細を読んだ。


 政治家が演説台で口をぱくぱくしていた。


 営業マンが商品の説明中に突然無音になった。


 子どもが割れた花瓶の前で、


「ぼくじゃ」


 まで言って声を失っていた。


 でも。


 別の映像があった。


 病室。


 重い病気の女性が横になっている。


 夫らしい男性が手を握っていた。


「大丈夫」


 声が出なかった。


 男性は少し驚いた。


 女性も気づいた。


 二人とも、しばらく黙った。


 それから男性は言った。


「怖いよ」


 今度は声が出た。


 女性は笑った。


「私も」


 声が出た。


 私は画面を閉じなかった。


 処理方法。


 認識と音声の連動を解除する。


 十四分。


 昨日までなら、たぶん解除していた。


 でも。


 今日は少し考えた。


 嘘をつけない世界。


 不便だ。


 かなり不便だ。


 傷つく人もいる。


 必要な嘘もあるかもしれない。


 だからといって。


 私が嘘を言えるように戻す必要があるのだろうか。


 私は住民アンケートを確認した。


 現状維持希望、四十一%。


 解除希望、四十六%。


 分からない、十三%。


 割れていた。


 ……困った。


 昨日の私なら、


「本人たちに選ばせる」


 と言ったかもしれない。


 でも世界線は一つしかない。


 四十一%だけ嘘を禁止して、四十六%だけ嘘を許可する。


 そういう処理も技術的にはできる。


 ただ。


 それをすると、世界の法則が人によって変わる。


 社会そのものが壊れる可能性がある。


 私は初めて気づいた。


 選ばせればいい。


 それだけでは終わらない。


 選択がぶつかることもある。


 私は処理を保留した。


 【経過観測】


 理由。


「住民間で希望が分裂しており、単一処理による利益と損失を確定できないため」


 保存。


 ……難しい。


 三件目を開いた。


───────────────────────


第二章「残すことにも責任がある」


◆ 午後、業務室


 十五件目だった。


◆ 第550世界線「誰も老化しない世界線」


 概要欄を読んだ。


「【報告】第550世界線において、全住民の身体的老化が二十五歳前後で停止。死亡は事故・疾病等によってのみ発生する。人口増加により資源不足が進行中」


 ……不老。


 昔なら、羨ましいと思ったかもしれない。


 詳細を読んだ。


 人口。


 増加。


 食料。


 不足。


 住宅。


 不足。


 出生制限。


 世代交代の停滞。


 若い世代が役職に就けない。


 家族関係が数百年単位で固定される。


 そして。


 ある映像があった。


 二百三十一歳の女性。


 外見は二十代だった。


 インタビューに答えていた。


「もう十分です」


 そう言った。


「でも、死にたいわけじゃないんです」


 少し笑った。


「ただ、変わりたいんです」


 私は映像を止めた。


 昨日までの考えが、少し揺れた。


 本人が望むなら。


 自由に選べるなら。


 それでいい。


 そう思っていた。


 でも。


 選択できても。


 その結果が二百年、三百年、五百年と積み重なれば。


 最初は問題がなくても。


 後から問題になる。


 私は処理画面を開いた。


 老化を再開させる。


 不老を維持する。


 個人選択制にする。


 どれも簡単だった。


 でも、押せなかった。


 何を選んでも。


 誰かの人生が変わる。


 私は思った。


 ……処理しないことも。


 誰かの人生を変える。


 昨日までは。


 何もしないことは、中立だと思っていた。


 違う。


 残すことも選択だ。


 放置も判断だ。


 世界がこのまま続くなら。


 その続きを認めたのは、私になる。


 私は端末から手を離した。


 少し怖くなった。


 処理する責任。


 処理しない責任。


 どっちもある。


 逃げ道がなくなった。


 私はコーヒーを飲んだ。


 冷めていた。


 ……いつも冷めている気がする。


 十六件目を開こうとした。


 その時。


 端末に通知が出た。


 【第7世界線に状態変化を検出】


 私は動かなかった。


 もう一度表示された。


 【第7世界線に状態変化を検出】


 昨日までなら。


 すぐ開いていたと思う。


 今日は。


 開くのが少し怖かった。


───────────────────────


第三章「老人のいない縁側」


◆ 第7世界線


 開いた。


 昼だった。


 珍しい。


 私はいつも業務終了後に見る。


 だから夜の第7世界線ばかり知っている。


 昼の第7世界線。


 川が光っていた。


 木々が風で揺れていた。


 春。


 家。


 庭。


 縁側。


 老人がいなかった。


 私は画面を見た。


 縁側。


 空。


 川。


 道。


 誰もいない。


 状態変化の内容を確認した。


 【観測対象個体の生命反応を確認できません】


 私は読み直した。


 もう一度。


 【観測対象個体の生命反応を確認できません】


 ……。


 老人。


 生命反応なし。


 私は詳細情報を開いた。


 死亡時刻。


 本日、午前九時十二分。


 死因。


 自然死。


 異常現象。


 なし。


 世界線への影響。


 なし。


 処理必要性。


 なし。


 私は画面を見た。


 老人は。


 死んだ。


 普通に。


 何の異常もなく。


 私はしばらく動けなかった。


 昨日まで。


 ずっといた。


 縁側に座っていた。


 空を見ていた。


 川を見ていた。


 こちらを見たこともあった。


「今日は遅かったね」


「お疲れさま」


 音はなかった。


 でも。


 そう言った。


 今日はいない。


 私は処理画面を開いた。


 死亡した個体。


 復元可能。


 バックアップ。


 存在した。


 昨日までの身体情報。


 記憶情報。


 人格情報。


 全部保存されている。


 世界線管理システムなら。


 老人を戻せる。


 処理時間。


 十一分。


 私はカーソルを置いた。


 復元。


 押せば。


 老人が戻る。


 また縁側に座る。


 明日もいる。


 明後日もいる。


 私は。


 昨日。


 何を考えた。


 処理する必要がないから残している。


 そう思った。


 違った。


 私は。


 老人がいてほしかった。


 それだけだった。


 端末の前で、ずっと考えた。


 復元。


 処理不要。


 経過観測。


 選択肢が並んでいる。


 どれも押せる。


 どれも私が選べる。


 それが。


 嫌だった。


 老人は、私に残してほしいと言っただろうか。


 戻してほしいと言っただろうか。


 知らない。


 私は老人と会話したことがない。


 老人の名前すら知らない。


 毎日見ていただけだ。


 勝手に安心して。


 勝手に残して。


 勝手に明日もいると思っていた。


 私は復元ボタンからカーソルを外した。


 処理記録。


 入力。


「自然死。異常なし。処理不要」


 そこまで書いた。


 消した。


 もう一度書いた。


「自然死。異常なし」


 止まった。


 それだけでいい。


 処理不要。


 なんて書く必要もない。


 そもそも。


 老人の死は案件ではない。


 私は記録を閉じた。


 何もしなかった。


 縁側には。


 誰もいなかった。


 風だけが吹いていた。


───────────────────────


第四章「秩序ちゃん」


◆ 夕方、業務室


「世達ちゃん」


 呼ばれた。


 振り向いた。


 秩序ちゃんだった。


「第7世界線を長時間観測していましたね」


「はい」


「異常がありましたか?」


「ありません」


「そうですか」


「老人が死にました」


 言った。


 思ったより普通の声が出た。


 秩序ちゃんは少し黙った。


「……そうですか」


「はい」


「自然死ですか?」


「はい」


「復元は?」


「できます」


「しましたか?」


「してません」


「そうですか」


 それだけだった。


 私は少し待った。


 秩序ちゃんは何も言わなかった。


 だから、私から聞いた。


「復元した方がよかったですか?」


「世達ちゃんは、そうしたかったんですか?」


「したかったです」


 すぐ答えた。


 自分でも驚いた。


「戻したかったです」


「では、なぜ戻さなかったんですか?」


 私は考えた。


「私が戻したいからです」


 秩序ちゃんは黙っていた。


「それだけだったので」


「……はい」


「老人が戻りたいかは、分からないので」


「はい」


「だから、しませんでした」


 秩序ちゃんは少しだけ目を伏せた。


「世達ちゃん」


「はい」


「それは、規則に書いてありますか?」


「たぶん、書いてません」


「そうですね」


「始末書ですか?」


「違います」


「よかった」


「でも」


 秩序ちゃんは言った。


「判断記録は残してください」


「……はい」


「理由も」


「はい」


 私は端末を開いた。


 判断理由。


 入力欄。


 何を書けばいいか分からなかった。


 しばらく考えた。


 そして。


「本人の意思を確認できない状態で、観測者の希望のみを理由に状態を変更すべきではないと判断したため」


 入力。


 保存。


 秩序ちゃんが読んだ。


「……世達ちゃん」


「はい」


「それも、昨日までは書かなかった理由ですね」


「そうですか?」


「はい」


「よく覚えてますね」


「仕事ですから」


「大変ですね」


「世達ちゃんほどではありません」


 私は少し考えた。


「私も仕事です」


「そうですね」


 秩序ちゃんは少し笑った。


 私は始末書を三枚書いた。


 今日は少なかった。


───────────────────────


第五章「空席」


◆ 夜、第7世界線


 業務は終わった。


 帰る前に。


 もう一度だけ、第7世界線を開いた。


 夜。


 いつもの時間。


 川。


 家。


 道。


 春の空。


 縁側。


 誰もいない。


 私は画面を見ていた。


 老人がいなくても。


 第7世界線は続いている。


 川は流れる。


 風が吹く。


 家の灯りが消える。


 虫が鳴く。


 雲が動く。


 老人がいなくなったからといって。


 世界は終わらなかった。


 当たり前だった。


 でも。


 私は少しだけ。


 第7世界線が終わったように感じていた。


 それは間違いだった。


 終わったのは。


 老人の時間だけだった。


 世界は続く。


 私は画面を閉じようとした。


 その時。


 家の玄関が開いた。


 私は手を止めた。


 誰かが出てきた。


 若い女性だった。


 知らない人。


 女性は縁側に座った。


 老人がいつも座っていた場所。


 手には湯呑みを持っていた。


 しばらく空を見ていた。


 それから。


 隣に。


 もう一つ湯呑みを置いた。


 誰もいない場所に。


 私は何もできなかった。


 ただ見ていた。


 女性は泣かなかった。


 話しかけもしなかった。


 ただ。


 二つの湯呑みを置いて。


 星を見ていた。


 ……。


 私は観測を終了した。


 今日は。


 それでいい。


───────────────────────


第六章「203号室」


◆ 夜、203号室


 カップ麺を作った。


 今日は味噌味。


 お湯を入れて。


 三分待った。


 その三分が。


 少し長かった。


 食べながら考えた。


 世界を直すこと。


 世界を残すこと。


 本人に選ばせること。


 選ばせないこと。


 どれにも責任がある。


 正しい選択肢なんて。


 最初から表示されていないのかもしれない。


 私はずっと。


 世界線管理システムには正解があると思っていた。


 異常。


 正常。


 修正。


 維持。


 削除。


 復元。


 選択肢があるから。


 どれかが正しいのだと思っていた。


 でも。


 今日。


 復元できる人を復元しなかった。


 技術的には十一分で戻せた。


 それでも戻さなかった。


 理由は。


 戻せることと。


 戻していいことは。


 同じではないと思ったから。


 カップ麺を食べ終えた。


 机の引き出しを開けた。


 昨日の退職願があった。


「退職願」


 そこまで書いてある。


 続きを書こうと思った。


 ペンを持った。


 少し考えた。


 今日は。


 紙を破らなかった。


 続きを書かなかった。


 ただ。


 引き出しの一番奥に入れた。


 それから横になった。


 目を閉じた。


 老人はもういない。


 明日、第7世界線を開いても。


 たぶん、いない。


 それでも。


 私は明日も見ると思う。


 老人を見るためではない。


 第7世界線を見るために。


 ……。


 たぶん。


 それが。


 今日分かったことだった。


──────────────────


◇ 業務記録モノローグ —— 世達 夜十一時四十二分


 今日の件数:二十三件。


 処理完了:二十二件。


 経過観測:一件。


 未処理:ゼロ件。


 始末書記入漏れ:三枚(本日中に対応済)。


 エグチ:一個。


 カップ麺:一個(味噌味)。


 コーヒー:二杯。


 退職願:昨日のものを保管。追記なし。


 特記事項:


 第310世界線。


 死者の年一回の帰還現象を維持。


 処理不要。


 第119世界線。


 虚偽発話不能現象について住民の希望が分裂。


 経過観測。


 第550世界線。


 不老化現象について継続調査。


 第7世界線。


 観測対象だった老人が午前九時十二分、自然死。


 異常なし。


 復元処理は実施せず。


 夜間観測時。


 別の住民が縁側に座っていた。


 湯呑みを二つ置いていた。


 世界線は継続中。


 ……今日も、そこにある。


 以上。

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