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第十七話「真実の賞味期限」


 噂というものがある。



 誰かが言って、誰かが広めて、誰かが信じる。信じる人と信じない人がいる。たいていは信じない人の方が多い。



 でも今日処理した世界線を見ると——噂が正しかった世界線が、いくつかあった。



 正しかった場合の方が、処理が複雑になることが多い。



 なぜかは、処理しながら少し分かった気がした。




───────────────────────


第一章「木曜の朝」



◆ 朝、業務室



 木曜だった。



 朝のエグチを食べながら端末を開いた。今日の案件数は二十七件。木曜にしては少し多い。コーヒーを入れた。



 一件目を開いた。




◆ 第1947世界線「月面に別の文明の痕跡があった世界線」



 概要欄を読んだ。



「【報告】第1947世界線において、衛星探査の過程で月面に既存の地球文明とは無関係の構造物が発見された。構造物は数万年前のものと推定され、内部に情報記録媒体が保管されていた。問題は記録媒体の解析が進んだ結果、内容が「この世界線はシミュレーションである」という記述であることが判明し、解析に関わった研究者百四十七名が職務放棄して哲学的議論を始めており、関連機関の業務が停止している」



 ……月に文明の痕跡があった。そしてシミュレーションだと書いてあった。



 詳細を読んだ。研究者百四十七名が「自分たちがシミュレーションの中にいるなら、業務を続ける意味があるか」という議論を始めており、三週間にわたって結論が出ていない。関連機関の業務が停止しているので、世界線の社会機能に影響が出ていた。



 記録媒体の内容が「シミュレーションである」という主張の論拠を精査した。論拠に致命的な欠陥があった。「この世界線はシミュレーションである」という記述は、別の世界線の研究者が別の世界線について書いたものが、情報伝達の過程で混線して月面の記録媒体に混入したものだった。



 記録媒体の出所を研究者たちに提示した。議論が終わった。研究者たちが業務に戻った。



 処理時間:二十二分。



 ……「シミュレーションかもしれない」という議論自体は、私には判断できない。でも今回の世界線の場合は、記録の出所が違っただけだった。



 ただ——処理しながら少し思った。



 この世界線がシミュレーションかどうかは分からない。でもそれが分からなくても業務は続く。続けている。



 私もシミュレーションの中にいる可能性はある。だとしても、カップ麺は醤油味だ。それで十分だ、と思った。



 二件目を開いた。




◆ 第1969世界線「月面着陸が撮影されなかった世界線」



 概要欄を読んだ。



「【報告】第1969世界線において、人類初の月面着陸の映像が「撮影スタジオで制作されたもの」であることが公式に認められた。ただし実際の月面着陸は行われており、映像だけが別途制作されたものだった。問題は「本物の映像」が存在することも後に判明し、現在「公式映像」「本物の映像」「本物を否定するための偽映像」「本物を肯定するための別の偽映像」の四種類の映像が流通しており、住民がどれが本物か判別できなくなっている。情報の混乱により社会的信頼が崩壊しつつある」



 ……映像が四種類ある。



 詳細を読んだ。四種類の映像のうち、本物は一種類だけだ。残りの三種類は様々な意図で制作された偽物だった。情報の出所を全て追跡した。



 本物の映像の出所を確認し、真正性を証明するメタデータを付与した。偽物の映像にはそれぞれ「制作経緯」のタグを付けた。



 住民が四種類の映像を見分けられるようになった。社会的信頼が部分的に回復した。



 処理時間:二十九分。



 ……本物の証明をするために、偽物が何かを示す必要があった。偽物があるから本物が分かる。逆もある。本物があるから偽物が分かる。



 真意ちゃんがこの案件を処理したら、もっと速かったかもしれない。真意ちゃんはこういう仕事が得意そうだ。



 三件目を開いた。




◆ 第5555世界線「水道水に何かが混入されていた世界線」



 概要欄を読んだ。



「【報告】第5555世界線において、全国の水道水に微量の物質が混入されていることが判明した。混入された物質は住民の「現状への不満」を緩和する作用を持ち、三十年間にわたって投与され続けていた。発覚後、投与が停止された結果、住民が三十年分の抑圧されていた不満を同時に感じ始めており、社会的混乱が急速に拡大している」



 ……三十年分の不満が同時に解放されている。



 詳細を読んだ。不満の緩和物質が消えたことで、住民は本来感じるべきだった不満を三十年分まとめて経験していた。個人の不満だけでなく、社会制度への不満、歴史的な問題への不満、人間関係への不満が同時に噴出していた。都市部では大規模な社会的混乱が起きていた。



 不満の急激な解放速度を緩和する処理を行った。三十年分の不満を一度に感じるのではなく、段階的に処理できるよう認識調整を行った。



 社会的混乱が緩和された。



 処理時間:三十三分。



 ……三十年間、不満を感じないようにされていた住民が、今日から段階的に不満を感じ始める。



 不満を感じることが正常な状態だ。感じないようにされていた方が異常だった。



 でも三十年分を一度に感じると社会が崩壊する。段階的に感じるようにした。



 ……私は有給が取れないことへの不満を、毎回その都度感じている。段階的に積み上がっている。三十年分溜まったらどうなるか考えたくない。



 四件目を開いた。




◆ 第3333世界線「地球が平面だった世界線」



 概要欄を読んだ。



「【報告】第3333世界線において、地球が実際に平面構造を持つことが測量技術の発達により証明された。問題は平面の端が存在することが確認されたため、住民の一部が端を目指して移動しており、端に近づくほど世界線の物理定数が不安定になっている。端から転落した住民が七名おり、転落先の世界線が不明」



 ……本当に平らだった。



 詳細を読んだ。七名が転落した先を追跡した。全員、別の世界線に転落していた。無事だった。転落先の世界線に七名が突然出現したので、そちらの世界線では混乱が起きていたが、それは別案件として処理される予定だ。



 地球の端に近づく住民を引き留める物理的バリアを設置した。端への接近が不可能になった。



 端の不安定な物理定数を補正した。世界線が安定した。



 処理時間:十七分。



 ……本当に平らだった世界線があった。端から転落した七名は別の世界線に着いた。何の準備もなく別の世界線に転落するのは大変だっただろうと思う。



 でも全員無事だった。それは良かった。



 五件目を開いた。




───────────────────────


第二章「午後の案件たち」



◆ 第2012世界線「古代の暦が正確に世界の終わりを予言していた世界線」



 概要欄を読んだ。



「【報告】第2012世界線において、古代文明が残した暦が特定の日付で終了しており、その日付が近づくにつれて世界線に異常が発生し始めた。暦の終了日に世界線の物理定数が変動し、重力・光速・時間の流れが通常値から逸脱し始めている。現在、世界線の物理構造が再編成の途中にあり、住民には「世界の終わり」に見えているが、実際には世界線の「バージョンアップ」が起きている」



 ……バージョンアップ中だった。



 詳細を読んだ。古代文明は世界線のバージョンアップのサイクルを正確に把握しており、暦の終了はそのサイクルの区切りを示していた。問題はバージョンアップの過渡期に物理定数が不安定になることで、住民が恐慌状態に陥っていた。



 バージョンアップの進行を外部から補助した。物理定数の変動を滑らかにした。住民が感じる揺れを緩和した。



 バージョンアップが完了した。世界線の物理構造が新しいバージョンで安定した。



 処理時間:二十五分。



 ……世界の終わりだと思っていたものが、更新だった。住民が恐慌状態で経験したことは、実際には世界が新しくなる過程だった。



 終わりと更新は、外から見ると似ている場合がある。



 私の始末書も、ある意味では更新の記録かもしれない。一枚ごとに何かが処理されて、次に進む。終わりではなく、更新。



 ……少し違う気もするが、まあいい。



 六件目を開いた。




◆ 第7777世界線「爬虫類型知的生命体が人類に扮している世界線」



 概要欄を読んだ。



「【報告】第7777世界線において、爬虫類型知的生命体が人間の外見を模倣して社会の要職に就いており、世界の意思決定に関与していることが判明した。問題は当該生命体が人間社会に適応しすぎた結果、自分が爬虫類型知的生命体であることを忘れており、人間として完全に生活している個体が三百名を超えている。本来の種族に帰還させようとする本国からの連絡を受け取っても、「帰る気がない」と返答している」



 ……帰る気がない爬虫類型知的生命体。



 詳細を読んだ。三百名を超える個体が、人間社会に完全に溶け込んでいた。仕事を持ち、家族を持ち、友人を持っていた。本国から「正体を明かして帰還せよ」という命令が来ていたが、全員が拒否していた。拒否の理由を確認したところ、「ここが自分の場所だから」という回答が最多だった。



 本国との交渉が世界線の外交問題に発展しかけており、それが世界線の社会的安定を脅かしていた。



 外交問題の調整を行った。本国との間に「自発的に帰還を望む個体のみ帰還可能」という合意を形成した。



 三百名のほぼ全員が帰還を拒否した。世界線の社会は安定した。



 処理時間:二十八分。



 ……爬虫類型知的生命体が「ここが自分の場所だから」と言って帰らなかった。



 私もぱんでむを「自分の場所」と思っているかどうか、考えたことがなかった。



 ……退職願を十八回書いた。でも提出しなかった。提出できない構造だったのもあるが——提出しようと思ったかどうかは、また別の話かもしれない。



 少し、静かに考えた。



 答えは出なかった。次の案件を開いた。




◆ 第4649世界線「人間の感情が天候を操作していた世界線」



 概要欄を読んだ。



「【報告】第4649世界線において、人間の集合的な感情状態が天候に直接影響を与えることが科学的に証明された。喜びが多い地域は晴天が続き、悲しみが集中する地域には長雨が降り続ける。問題は世界的な規模で「怒り」の感情が増大した結果、世界線全体で嵐が止まらなくなっており、農業・交通・建築に甚大な被害が出ている」



 ……怒りで嵐になっている。



 詳細を読んだ。世界的な怒りの増大の原因を調べた。原因は複合的だった。経済的不満、社会制度への不信、気候変動、情報の混乱——複数の要因が重なって、集合的な怒りが臨界点を超えていた。



 天候への直接介入を行った。嵐の規模を緩和した。



 ただし怒りの根本原因には介入しなかった。感情は処理対象外だ。天候は処理対象だ。



 処理時間:三十一分。



 ……嵐は止まった。でも怒りはまだある。次の雨が降るのは時間の問題かもしれない。



 根本原因に介入しないと、また嵐になる。でも感情には介入できない。天候だけ処理し続けることになるかもしれない。



 それが私の業務の範囲だ。



 ……有給が取れないことへの私の怒りを誰かが処理してくれることはない。自分で処理するしかない。処理の仕方は、退職願を書いて捨てることだ。



 まあ、機能しているのかよく分からないが。



 八件目を開いた。




◆ 第1111世界線「時間の流れが場所によって違っていた世界線」



 概要欄を読んだ。



「【報告】第1111世界線において、地球上の各地点で時間の流れる速度が微妙に異なることが精密計測で証明された。山頂は海抜ゼロ地点より時間がわずかに速く流れる。問題はこの差異を利用した「時間差ビジネス」が発展した結果、富裕層が高高度施設で生活することで相対的に長寿になっており、寿命の格差が社会問題化している」



 ……時間の速度差が寿命格差になっている。



 詳細を読んだ。これは実際には物理的に正しい現象だった——相対性理論的な意味で。ただしこの世界線では差異が通常より大きく設計されていたため、実用的な格差が生まれていた。富裕層は平均寿命より三十年長く生きており、貧困層との寿命差が広がっていた。



 時間差の格差を補正した。高高度での時間加速を通常値に近づけた。ビジネスとしての有効性が失われた。



 処理時間:十九分。



 ……時間の流れが場所によって違う。それを利用して長生きしようとした人たちがいた。処理して、その利用価値をなくした。



 私は時間の流れを変えることはできないが、時間の使い方は選べる——はずだ。有給が取れないので、あまり選べていない。



 まあ、それも業務の一部だ。



 九件目を開いた。




◆ 第9111世界線「夢の中で死ぬと現実でも死ぬ世界線」



 概要欄を読んだ。



「【報告】第9111世界線において、夢の中で致死的なダメージを受けた場合、現実の肉体にも同様のダメージが発現することが医学的に証明された。問題はこの事実が広く知られた結果、住民の多くが「眠ることへの恐怖」を抱えており、世界線全体の平均睡眠時間が一時間を下回っている。慢性的な睡眠不足により、世界線の社会機能が著しく低下している」



 ……眠れない世界線。



 詳細を読んだ。夢の中での死が現実の死につながるメカニズムを確認した。夢と現実の神経接続が通常より強い設計になっていた。強すぎるため、夢のダメージが現実に漏れていた。



 夢と現実の神経接続強度を標準値に補正した。夢の中で死んでも現実には影響しない状態になった。



 住民に補正の事実を通知した。平均睡眠時間が徐々に回復し始めた。



 処理時間:二十四分。



 ……眠ることが怖くて眠れない住民が、今日から眠れるようになった。



 眠れることは当たり前ではなかったんだな、とこの世界線を処理して思った。



 私は毎晩よく眠れる。熟睡するので夢を見ない、と秩序ちゃんに言ったことがある。それは良いことだったのかもしれない。



 十件目を開いた。




───────────────────────


第三章「夕方と、今日の整理」



◆ 夕方。業務を終えて



 二十七件、全部終わった。夜の九時だった。



 今日も、どこかで聞いた気がする世界線だった。



 月面に別の文明の痕跡があった。四種類の映像が流通した。水道水に不満緩和物質が混入されていた。本当に平らだった地球。世界のバージョンアップ。帰還を拒否した爬虫類型知的生命体。怒りが嵐になった世界。時間差ビジネス。眠れなかった住民。



 全部、誰かが噂していたような話だった気がする。



 どこかで噂を聞いた気がする——でも聞いたはずがない。



 コーヒーを飲んだ。ぬるかった。今日は忙しくて温かいうちに飲めなかった。



 今日特に気になったのは、第7777世界線の爬虫類型知的生命体だった。



 「ここが自分の場所だから」と言って帰らなかった。



 私は十八回退職願を書いて、十八回捨てた。



 帰る場所があるかどうかは分からない。ぱんでむに来る前のことはよく覚えていない。でも、退職願を出さなかったのは事実だ。構造的に難しい部分もあるが——



 出さなかった。



 ……まあ。



 第7世界線の観測画面を開いた。




◆ 第7世界線



 夜だった。春の夜が続いている。風がある。木の葉が揺れているのが見えた。今まで葉がなかった木に、葉が出始めていた。



 老人が縁側にいた。今日は何も持っていなかった。ただ、風の音を聞いているような姿勢だった。



 風の音は観測ツールからは聞こえない。でも老人の姿勢で、風があることは分かった。



 今日もここにある。



 老人がいる。風がある。葉が出始めた木がある。



 確認した。



 ……退職願を出さなかった理由が、今日少し分かった気がした。



 答えとして声に出せるほど明確ではない。でも何かが、少しだけはっきりした。



 まあ、今日はここまでだ。




───────────────────────


第四章「今日の終わり」



◆ 夜。203号室



 部屋に戻った。



 カップ麺を作った。今日も醤油にした。食べながら今日の案件を振り返った。



 陰謀論が本当だった世界線が多かった。



 ……陰謀論、という言葉も自然に出てきた。どこで覚えたんだろう。ぱんでむに来てからはそういう話をした記憶がない。でも言葉が出てきた。



 まあ、気のせいだ。



 カップ麺を食べ終えた。



 始末書を三枚書いた。ラックに入れた。



 机の前で少し座っていた。



 退職願を書こうかと思った。十九通目だ。



 でも今日は書かなかった。



 書かない日もある、と気づいた。十八回書いてきたが、書かない日もある。今日がそうだった。



 特に理由は分からない。ただ、今日は書かなかった。



 横になった。



 目を閉じる前に思った。



 爬虫類型知的生命体が「ここが自分の場所だから」と言った。



 私が「ここが自分の場所だ」と言えるかどうかは、まだ分からない。でも今日、退職願を書かなかった。それだけは確かだ。



 答えではない。でも何かだ。



 寝た。




──────────────────


◇ 業務記録モノローグ —— 世達 夜十一時二十分



 今日の件数:二十七件。


 処理完了:二十七件。


 未処理:ゼロ件。


 始末書記入漏れ:三枚(本日中に対応済)。


 退職願:書かなかった。初めてではないが、今日は意識して書かなかった。


 エグチ:一個(朝)。


 カップ麺:一個(醤油味)。


 コーヒー:ぬるかった。


 特記事項:第7世界線、今日も継続中。葉が出始めた木があった。風があった。老人が風を聞いていた。第7777世界線の爬虫類型知的生命体が「ここが自分の場所だから」と言って帰らなかった。退職願を書かなかった日だった。



 ……以上。


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