第十一話「全員が正しかった世界」
正しいことと、そうでないことの区別は、たいていの世界線で機能している。
機能していない世界線がある。
今日はその種類だった。
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第一章「金曜の朝」
◆ 朝、業務室
金曜だった。
朝のエグチを食べながら端末を開いた。今日の案件数は三十三件。週末前にしては多い。でも今週は異形対応もあったし、秩序ちゃんとの雑談もあったし、色々あった週だったので、三十三件くらいは受け入れられる気がした。
一件目を開いた。
第601世界線。概要欄を読んだ。
「【報告】第601世界線において、全住民が「自分が正しい」という確信を持ちながら、互いに矛盾する行動を同時に取り続けている。物理的な矛盾が発生しており、世界線の構造が不安定化している」
……全員が正しい。
詳細を読んだ。
第601世界線では三日前から、全住民が「自分の行動は完全に正しい」という絶対的確信を持ち始めた。問題はその確信が全員に同時に発生したことで、全員の「正しい行動」が互いに矛盾している。
具体的には——
ある住民が「道は左側を歩くべきだ」と確信して左を歩いている。別の住民が「道は右側を歩くべきだ」と確信して右を歩いている。どちらも間違っていない。でも正面衝突する。衝突した瞬間、二人の「正しさ」が物理的に干渉して、その場の空間が少し歪む。
これが世界線全体で同時多発的に起きている。
歪みが積み重なって、世界線の物理構造が不安定になりつつある。
……なるほど。
処理方法を考えた。「正しさの絶対確信」を抑制すればいい。ただ、全住民の認識に同時に干渉する必要がある。規模が大きい。処理時間がかかりそうだ。
始めた。
◆ 処理中
第601世界線の認識調整は、想定より複雑だった。
全住民の「正しさの確信」を抑制しようとすると、その抑制自体が「正しくない」と判断されて跳ね返ってくる。全員が自分の正しさを絶対視しているので、外部からの修正を拒絶する。
方法を変えた。
正しさの確信を抑制するのではなく、「他者の正しさも同時に存在できる」という概念を追加する形で処理した。全員が正しい。でも全員が正しいなら、一つの正しさだけが絶対ではない。その論理を認識に追記した。
少し時間がかかった。
全住民が「自分が正しい、でも他者も正しい」という状態になった。空間の歪みが止まった。世界線の構造が安定した。
住民たちが少しぼんやりした顔をしていた。全員が正しくて、でも全員違うことをしている。それが成立する世界線になった。
処理時間:四十一分。
……長かった。
コーヒーを一口飲んだ。二件目を開いた。
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第二章「続く案件たち」
◆ 午前中
二件目。第38世界線が「全住民の夢が現実に漏れ出している」。住民が夢で見たものが翌朝、物理的に部屋に出現している。ある住民が巨大な魚の夢を見たら、翌朝部屋に巨大な魚がいた。魚は生きていた。住民が困っていた。夢と現実の境界を補正した。巨大な魚はどうするか迷ったが、川に返した方がいいと判断してそう記載した。処理時間:十九分。
三件目。第777世界線が「全員が透明になった」。透明化の原因を調べたら、「全員が同時に恥ずかしいと思った瞬間があった」という記録があった。何が恥ずかしかったかは記録されていなかった。透明化を解除した。住民が自分の姿を見て安心していた。処理時間:十四分。
四件目。第2世界線が「数字の2だけ世界から消えた」。
……2が消えた。
詳細を読んだ。第2世界線では三日前から「2」という数字が物理的に消滅した。時計の2が消えた。カレンダーの2が消えた。建物の2階が消えた。2という概念が消えたので、2階にいた住民は突然1階と3階の間の虚空に浮いた。
数字の概念補正を行った。2を世界線に再定義した。建物の2階が戻った。虚空に浮いていた住民が床を取り戻した。
処理時間:二十二分。
……2階が消えるのは困る。
五件目を開いた。
◆ 午後に差し掛かる頃
六件目。第55世界線が「全員の左右感覚が毎時間入れ替わる」。一時間ごとに左右が逆になるので、住民が常に混乱している。一時間おきに正しい方向に戻ることになるが、それまでの一時間が毎回地獄らしい。恒常化した逆転サイクルを解除した。処理時間:十七分。
七件目。第1001世界線が「全員の影が本体より先に動く」。
……影が先に動く。
詳細を読んだ。影が本体の行動を五秒先に行っている。住民が右に曲がろうとすると、影がすでに右に曲がっている。影が先に転ぶと、本体も五秒後に転ぶ。影が先に笑うと、本体も五秒後に笑う。
影が先に行動することで本体の行動が確定するのか、本体の行動が確定しているから影が先に出るのか、因果関係が不明だった。
どちらにせよ不便なので、影を通常状態に戻した。
処理後、一部の住民が「影が先に動いていた方が、転ぶ前に分かって便利だった」と言った。それについては何もしなかった。
処理時間:二十五分。
……影が先に動く世界線の住民は、五秒後の未来を常に知っていたことになる。それを不便と感じていたのか。複雑だ。
八件目を開いた。
◆ 午後
九件目。第404世界線が「全員が別の誰かの感情を感じている」。自分の感情ではなく、どこか遠くにいる別の住民の感情が流れ込んでくる状態だ。自分が悲しいのか、誰かが悲しいのか、区別がつかない。認識の分離処理を行った。住民が自分の感情を取り戻した。中には「他の人の感情の方が豊かで、自分の感情が寂しかった」という住民もいたが、それについては何もしなかった。処理時間:三十一分。
十件目。第13世界線が「不運な出来事だけが繰り返し起きている」。ある住民が転んだら、次の日も転んだ。その次の日も転んだ。不運の連鎖が世界線全体で起きていて、良いことは一切起きない。不運の連鎖を断ち切る処理を行った。処理後、住民が「良いことが起きると違和感がある」と言っていた。処理時間:二十八分。
十一件目。第零世界線が「存在と無の区別がなくなった」。
……存在と無の区別がない。
詳細を読んだ。第零世界線では、あるものとないものの差異が消えていた。机があっても、机がなくても、住民には同じに見える。存在しているものと存在していないものが等価になった状態だ。住民は困っていないが、物を置いても置いていなくても同じなので経済活動が完全に停止していた。
存在概念の再定義を行った。あるものとないものの差異を復元した。
処理後、住民が急に「机がある」「椅子がある」「家がある」と発見し始めた。今まであったものを、今日初めて見つけた顔をしていた。
処理時間:三十七分。
……存在を再発見した顔をしていた。
少しだけ、見ていたかった。でも次の案件があった。
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第三章「夕方と、今週の終わり」
◆ 夕方
三十三件、全部終わった。
夜の九時だった。週末前の三十三件は思ったより時間がかかった。第601世界線の全員が正しい案件と、第零世界線の存在と無の案件が特に時間を取った。
秩序ちゃんから通知が来た。「今週も処理完了の確認をしました。お疲れ様でした。来週の月曜は案件が少ない見込みです」。
少し安心した。来週の月曜が少ない見込み、という情報は素直にありがたい。
週次レポートを書いた。今週は異形対応もあったので、備考欄が少し長くなった。全部書いた。提出した。
第7世界線の観測画面を開いた。
夜だった。雪がまだ少し残っている。でも昨日より明らかに減っていた。春に向かっている。子供はもう眠っている。老人の部屋の灯りがついていた。
今日、第零世界線の住民が存在を再発見していた。机がある、椅子がある、家がある。ずっとあったものを、今日初めて見つけた顔で。
私は第7世界線の画面を見た。
村がある。川がある。老人がいる。子供がいる。犬がいる。
……ずっとあった。
私が担当してからずっと、あった。
それを今更みたいに思った。変な感触だった。でも悪くなかった。
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第四章「今日の終わり」
◆ 夜。203号室
部屋に戻った。
カップ麺を作った。今週はカップ麺をたくさん食べた。醤油、塩、醤油、醤油、また醤油。今日も醤油にした。金曜の夜は醤油が合う気がする。月曜も醤油が合う気がする。たぶん醤油が好きなのだと思う。
食べながら、今週を振り返った。
異形対応があった。秩序ちゃんと胃薬の話をした。第7世界線に雪が降った。退職願を十八通目まで書いた。渾沌ちゃんが業務室に来た。
今日は三十三件処理した。全員が正しかった世界線。夢が現実に漏れた世界線。2が消えた世界線。影が先に動いた世界線。存在と無の区別がなくなった世界線。
一件一件は地味だ。処理して、書類を書いて、次に行く。それの繰り返しだ。
でも、処理した後の世界線では何かが変わっている。全員が正しい世界線では、今日から全員が「他者も正しい」と思いながら生きている。存在を再発見した世界線では、住民が今日から机を見るたびに「ある」と感じるかもしれない。
私が処理して、そうなった。
業務だった。
でも——
「なんでやってるの」
頭の中で渾沌ちゃんの声がした。今週で何回目だろう。
……まだ答えは出ていない。
でも今日、少しだけ何かが見えた気がした。答えではない。でも答えに隣接した何かが。
カップ麺を食べ終えた。
始末書を四枚書いた。今週の締めくくり分だ。ラックに入れた。
横になった。
目を閉じる前に思った。
来週も、変な世界線が来る。処理する。書類を書く。また来る。また処理する。
それが続く。
……まあ、続けばいい。
寝た。
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◇ 業務記録モノローグ —— 世達 夜十一時四十分
今日の件数:三十三件。
処理完了:三十三件。
未処理:ゼロ件。
始末書記入漏れ:四枚(本日中に対応済)。
週次レポート:提出済。
エグチ:一個(朝)。
カップ麺:一個(醤油味)。今週の醤油は何杯目か分からない。
特記事項:第7世界線、今週も継続中。雪が少し溶けた。春に向かっている。第零世界線の住民が存在を再発見していた。机がある、椅子がある、家がある。ずっとあったものを、今日初めて見つけた顔で。
……以上。




