第十話「秩序ちゃんと胃薬」
秩序ちゃんはいつも胃薬を持っている。
制服のポケットに入っている。会話の途中で、さりげなく一錠飲む。飲んでいることを特に説明しない。誰も聞かない。それが秩序ちゃんの日常の一部だ。
私も胃薬を持っている。
いつからか持つようになった。理由は特にない。ただ、あった方がいい気がした。秩序ちゃんを見ていて、そう思ったのかもしれない。思ったのかもしれないが、確認したことはない。
今日、初めて秩序ちゃんと胃薬の話をした。
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第一章「木曜の案件」
◆ 朝、業務室
木曜だった。
朝のエグチを食べながら端末を開いた。今日の案件数は二十八件。昨日の異形対応の疲れが少し残っているが、二十八件なら処理できる範囲だ。
一件目。第7世界線——今日は定例確認を朝に回した。画面を開いた。朝の第7世界線は静かだった。雪がまだ残っている。炊事の煙が出ている。子供の姿はまだない。眠っているのだろう。老人が縁側に出てきていた。厚い上着を着て、空を見ていた。昨日の夜、灯りの中にいた老人だ。今朝は外に出てきた。
空を見ている顔が、遠いので表情は分からない。でも急いでいる感じではなかった。ただ、朝の空を見ている。
「特異事象なし。継続観測を推奨」。提出した。
二件目から本格的に処理を始めた。第22世界線が「全員の名前が数字になった」。名称概念の補正を行った。処理時間:十一分。第189世界線が「太陽が二個になった」——これは先週も別の世界線で処理した。太陽の複数化は意外と頻繁に起きる。一個を消した。処理時間:九分。
午前中に十三件終えた。
◆ 午後
午後に入って十五件処理した。
今日は案件の密度が均一で、処理が流れるように進んだ。昨日の異形対応の翌日にしては、体が動いた。疲れが残っているはずだが、動ける。業務認識型全能のおかげか、それとも慣れか。どちらかは分からない。
最後の一件を処理し終えたのは午後六時だった。二十八件、全部終わった。
今日は始末書の手続き漏れがなかった。珍しい。
端末を閉じた。業務室が静かになった。
ポケットを確認した。胃薬が入っていた。今日は一錠も飲まなかった。それも珍しい。
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第二章「廊下の秩序ちゃん」
◆ 夕方。廊下
業務室を出た。
廊下を歩いていたら、秩序ちゃんの執務室のドアが開いていた。秩序ちゃんの執務室は基本的にドアが閉まっている。「入室時ノック厳守」という表示がある。開いていることは珍しい。
中を見たら、秩序ちゃんが机で書類を見ていた。いつも通りの姿だ。ただ、少し肩が落ちている。いつもより、わずかに。
ノックした。
「どうぞ」
「……失礼します。ドアが開いていたので」
秩序ちゃんが顔を上げた。「ああ、世達さん」と言った。「少し換気していました」
「そうですか」
「今日の業務は終わりましたか」
「はい。二十八件、全部終わりました」
「お疲れ様でした」秩序ちゃんが少し間を置いた。「昨日の件、改めて確認しました。異形対応、適切でした」
「……ありがとうございます」
「接続部の閉鎖確認書と損傷報告書も確認しました。記載に問題ありません」
「書類が増えました」
「……そうですね」秩序ちゃんが少し、口元が動いた。笑ったのかもしれない。「四件は多いですね」
「事後処理が業務の半分を占めることがあります」
「それは世達さんの業務全般に言えることです」と秩序ちゃんが言った。「記録と処理の精度が高いので」
褒め方が事務的だった。でもそれが秩序ちゃんのやり方なので、違和感はない。
私はポケットから胃薬を出した。
「……一錠、いりますか」
秩序ちゃんが少し止まった。
「……なぜ」
「肩が落ちていたので。渾沌さんが何かしましたか」
秩序ちゃんがしばらく私を見た。それから、ため息をついた。短いため息だった。
「……今朝、第44世界線の処理記録に不備があって、その修正作業が三時間かかりました」
「……渾沌さん関係ではないんですね」
「関係ありません。純粋に業務上の問題でした」秩序ちゃんが胃薬を自分のポケットから出した。「私のがあります」
「そうですか」
二人でそれぞれ一錠飲んだ。廊下でもなく、業務室でもなく、秩序ちゃんの執務室の入口で、二人で胃薬を飲んだ。
特に何も言わなかった。でも何かが成立した気がした。
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第三章「胃薬の話」
◆ 執務室の入口
秩序ちゃんが「少し話しますか」と言った。
珍しかった。秩序ちゃんから「話しますか」と言われたのは、初めてだった。
「……いいですか」
「業務の話ではありません」と秩序ちゃんが言った。「雑談です。三分くらい」
「三分くらい」
「はい。私は雑談が得意ではないので、時間を決めています」
私は少し可笑しかった。雑談に時間制限を設ける人は初めて見た。
「……わかりました」
秩序ちゃんが机の横に寄ったので、私は入口のところに立ったままでいた。
「世達さんは、いつから胃薬を持ち歩いていますか」
「……正確には覚えていません。気づいたら持っていました」
「私は入職した翌週から持ち歩いています」と秩序ちゃんが言った。「理由は分かっています。姉さんが原因です」
「……そうですか」
「世達さんの場合は原因が分からないということですか」
「……あるとすれば業務全般ですが、特定できません」
「業務全般」と秩序ちゃんが繰り返した。少し考えるような顔をした。「それは——つまり、業務に真剣に向き合っているということです」
「……そういう解釈もできますか」
「できます」と秩序ちゃんが即座に言った。「私はそう解釈しています」
私は何も言わなかった。
秩序ちゃんがポケットの胃薬を確認した。「残り三錠です。補充しなければ」と言った。「私は十二錠入りを週に一箱使います」
「……多いですね」
「渾沌さん換算で妥当な量です」
「渾沌さん換算というのは」
「渾沌さんが一週間で起こす問題の数と規模から逆算した、必要な胃薬の量です。渾沌さんが穏やかな週は五錠で足ります。暴れた週は十二錠では足りません」
「……計算されているんですね」
「全てにおいて計算しています」と秩序ちゃんが言った。「それが私の仕事なので」
少し間があった。
「……姉さんのことは、好きですよ」と秩序ちゃんが急に言った。
私は少し止まった。
「……知っています」
「知っていますか」
「全員知っています」
秩序ちゃんが少し黙った。それから「そうですか」と言った。声が少しだけ低かった。恥ずかしいのかもしれない。
「……三分、経ちましたか」と秩序ちゃんが言った。
時計を確認した。「四分経ちました」と言った。
「そうですか」と秩序ちゃんが言った。「一分オーバーしました。始末書を一枚書きます」
「……雑談のオーバー時間に始末書を書く必要はないと思いますが」
「私が必要と判断しました」
秩序ちゃんがペンを持った。本当に書き始めた。
私はそれ以上何も言わなかった。
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第四章「今日の終わり」
◆ 夜。203号室
部屋に戻った。
今日は始末書の手続き漏れがなかった。珍しい一日だった。案件も全部終わって、事後処理も問題なかった。秩序ちゃんと四分間の雑談をした。
カップ麺を作った。今日は醤油にした。食べながら第7世界線の観測画面を開いた。
夜だった。雪が少し溶け始めている。積もっていた雪の端が崩れていた。少しずつ春に向かっているのかもしれない。子供はもう眠っている。老人の部屋に灯りがついていた。
今朝、老人が朝の空を見ていた。何を見ていたんだろう。空に何かあったわけではない。ただ空を見ていた。
私も時々、第7世界線の画面を見ている。何かあるわけではない。ただ見ている。
……似ているかもしれない。
カップ麺を食べ終えた。
ポケットの胃薬を出した。今日は一錠も飲まなかった。でも持っている。持っているだけでいい日もある。
秩序ちゃんが「業務に真剣に向き合っているということです」と言った。胃薬を持ち歩く理由として。そういう解釈もあるのか、と思った。疲れているとか、胃が弱いとか、そういう解釈ではなく。
……まあ、どちらでもいいか。
胃薬をポケットに戻した。
始末書のラックを見た。今日は増えなかった。珍しい。明日はたぶん増える。
横になった。
目を閉じる前に思った。
秩序ちゃんが「姉さんのことは、好きですよ」と言った。全員知っている、と言ったら、少し恥ずかしそうだった。
秩序ちゃんがそういう顔をするのを初めて見た気がする。
……いい雑談だった。
四分間だったが。
寝た。
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◇ 業務記録モノローグ —— 世達 夜十一時
今日の件数:二十八件。
処理完了:二十八件。
未処理:ゼロ件。
始末書記入漏れ:ゼロ枚。今日は増えなかった。
秩序さんと雑談:四分間(予定三分)。
エグチ:一個(朝)。
カップ麺:一個(醤油味)。
胃薬:今日は飲まなかった。でも持っていた。
特記事項:第7世界線、今日も継続中。雪が少し溶け始めた。老人が朝の空を見ていた。秩序さんが「業務に真剣に向き合っているということです」と言った。胃薬の話をした。いい雑談だった。
……以上。




