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逃避行  作者: 眠気
7/16

7.満たされることなんて


 それから私は勇気の帰りを待って一日を過ごすようになった。部屋の鍵はいつでも開けられたけど、私は出なかった。

 一日中本を読んだり、絵を描いたりする日々。勉強もした。勉強は好きだ。でも、張り合いがなくてあまり楽しくない。

 どうせやる意味もない。この先どうなるかも分からないのに、未来を見据えて何かする意味があるのだろうか。そう思ってからは、勉強もしなくなった。

 勇気は基本的に夜8時くらいにならないと帰ってこなかった。だから私は先にご飯を食べてお風呂に入った。お風呂から上がる頃には、勇気は帰っていて、ご飯を食べている。そんな感じだった。

 情報量が少ない日々。だからか、一日が過ぎるのが本当に早かった。

 カーテンの隙間から天気を見る。今日は晴れだ。星が綺麗で少し外に出たくなった。けど我慢我慢。

 勇気は自炊をしないタイプらしい。基本的にはコンビニで買ったおにぎりやらを食べている。あとデリバリー。しかし私はもう随分ピザばかりの生活に嫌気が差していた。

 いつも通り風呂から上がると、勇気が机で冷凍パスタを食べていた。私はそれを見て一言。


「勇気、自炊したい」

「え、料理できるの?」

「うん。家にいながらできる趣味だからよくしてた。だから、それなりにできるよ。ね、材料買って」

「いいよー全然。欲しいもの書いて渡してくれ」

「分かった」


 あっさり許可されて舞い上がる。何を作ろう。まずは定番の和食。鮭の塩焼き、味噌汁、漬物、白ご飯。ああ、夢が膨らむ。

 好きなように書き綴っていく。できあがったものを勇気に渡すと、多!と驚いたものの買ってくると言っててくれた。


「今日はどんなお仕事をしてきたの?」

「そんな大したことはしてないよ」

「気になる。暇だから面白い話聞きたい 

「面白くないと思うけどなー」


 そう言いつつも、勇気は色んなことを話してくれた。

 なんでも、勇気は件の黒街景太郎さんという人の元で働いているらしい。親父、と勇気が言っていた人だ。その人の部下として、勇気は取引先との付き合いをしたり、悪い人を追いかけたりと忙しくしているらしい。

 まあヤクザのやることなんて碌でもないに違いないのだが、暇つぶしとしては刺激が多くてよかった。

 勇気は線引きをちゃんとしていた。あまりに残酷なことは私に伝えようとしなかった。表面的で重すぎない話だけを、ぽつりぽつりと晩酌と共にこぼした。

 私はそれを静かに聞いていた。勇気の髪が揺れるのを見つめる。爪が伸び始めているのを見つめる。大きすぎない目が、時折伏せられて、光を消すのを見つめる。そうやって夜が更けていく。私は、時にはただ俯いて酒を揺らす勇気を見つめていた。

 寝る前、隣の布団にいる勇気の手にそっと触れる。温かくて私よりもかたい。骨を感じる手は、なんだか心強くて、ホッとした。

 勇気は身じろぎしたけど、酒を飲んで眠いのだろう。なにもせずそのまま寝息を立て始めた。

 そんな風に日々が過ぎていった。


 勇気は毎日忙しそうだった。私はその帰りを待つだけ。一人の時間は寂しい。だから、一ヶ月が過ぎる頃には、随分独り言を言うようになっていた。

 8時になって、勇気が帰ってくる。私が作ったものをおいしそうに勇気は食べてくれる。それが嬉しい。私はもう、そのためだけに生きているみたいだった。

 いつものように布団に入って、暗い視界の中、ぼんやりと考える。

 幸せ……なのかな、私。一人で、家にいるとき、たまにこのままずっとこうなのだろうかと思う。

 あのとき……そう、屋上に行ったとき、私には死ぬよりマシなことがあると思っていなかった。こんな人生にその先を望むのかと自分に問うた。

 家は、冷たかった。お母さんは専業主婦だった。物静かな人だった。いつも感情を押し殺したような顔で、じっと私を見つめていた。

 私はよく、だっこ、とねだっていた。頭を撫でて、とねだっていた。

 でも、お母さんがそれに答えてくれたことは一度もなくて。後にして、お母さんを困らせたいの、なんでそんなことしたいの。そうやって問い詰められて、私はなにも答えられなかった。

 そうして沈黙の時間が訪れて、お母さんは肩を落として家事に戻る。私は一人取り残されたまま、寂しいと叫ぶ小さな心の涙を感じて俯く。

 お父さんは仕事が忙しいのか、帰らない日も多かった。時々香水の匂いを、あるいは煙草の匂いを漂わせて帰ってきた。私にシーッと指を立てるお父さんは笑顔だった。

 お母さんは怖い人だったけど、お父さんはいつも優しくて、私をよく撫でてくれた。だから私はお父さんの方が好きだった。お父さんは私に色んなことを教えてくれた。

 椎名林檎の曲とか、信用できる人の見極め方とか、喧嘩した子との仲直り方とか。

 お母さんが夕食を作って持ってくるまでの間、お父さんは私に「女の子は可愛くなきゃいけないんだぞ」と言って頭を撫でた。「稲穂は可愛いから、良い子だ」

 可愛いから、良い子。私にはよく分からなかった。だけど褒められたことが嬉しくて、ずっと可愛くいようと思った。

 お母さんはよくお父さんと喧嘩していた。お母さんが声を張り上げて、お父さんが怒号を飛ばす。次第にお父さんがお母さんを殴り出す。私はやめて、と叫んだ。お父さん、やめて。お母さんが痛いよ。

 そう言うと、お父さんは私を見て、また笑った。「稲穂、世の中には、痛くしないと伝わらないことだってあるんだぞ」真っ黒な目が、私を見ているはずなのに、見ていない気がした。

 お父さんはもっと激しく、お母さんを殴った。

 私はお父さんが怖くて、でもどうすればいいか分からなくて、ぎゅっと目を瞑って黙っていた。そうすると、いつの間にか、お父さんは気が済んで殴らなくなる。そうして、どこかへ出かけていくのだ。

 ガチャンと扉が閉まる音がして、私は目を開ける。明るいはずなのに薄暗い室内で、取り残されたお母さんが、ゆっくりと立ち上がる。お母さんは私を一瞥することもなく、割れた食器を片づけた。なにも言わず、なにも見えていないように、ただ事務的に。

 お母さん、大丈夫?

 そう言った瞬間、お母さんは私を見た。ただジッと、私を見ていた。真っ黒で光の通らない目で、私の前にそびえ立っていた。

 痣になった青い頬が私の目に写った。怒号がなくなった家は重苦しい沈黙に包まれていた。

 お母さんは視線を私から逸らして、また、食器を片づけ始めた。私は近づけなかった。まるで、大きな川が私たちの間を流れていたみたいに。

 そうだ、私は彼女とは違うのだ。私は唐突に理解した。お父さんから殴られなかった私。ただお父さんを更に怒らせることしか言えなかった私。お母さんは私になんの期待もしていない。なんの感情も持っていない。

 私は、なになのだろう。二人にとって、私の存在は、なんの意味があるんだろう?

 学校では、私は一人だった。お父さんは、友達を作るためには明るく愛嬌を持てと言った。だから私は明るく優しく、愛嬌を見せた。誰にでも笑顔の仮面を見せた。

 はじめは皆、私の傍に来てくれた。でも少しずつ、仮面は剥がれていく。だって私は明るくない。優しくもない。愛嬌もない。笑い方なんて、うまくできてるのかも私には分からない。

 気づけばいつも一人になっている。なにか決定的な間違いを犯したと気づいた後には、もう遅くて。陰で私を貶す言葉を聞いてしまっても、私はそれに立ち向かう勇気なんてなかった。

 じくじく痛み出した胸の中が、だんだんともう死にたいと私に叫んでくる。お願い、こんな世界から早く逃げ出させて。早く、終わらせて。

 はじめは無視できた。頑張れた。まだ大丈夫、心臓が痛んでも耐えられた。でも一日が過ぎていくごとに、体が軋み出す。声が大きくなっていく。

 近づかないで、誰も私を見ないで。誰も、私に、なにもしないで。

 だって、皆私を傷つけるのだから。私の思い通りにいってくれることなんてなにもないくせに。誰も私のことなんて好きになってくれないだろう。私は愛を知らないのだから。

 朝起きたとき、どこにもいたくないと思った。だから、家を出た。屋上へ上った。ここから飛び降りれば、全部終わらせられると思った。もう耐えられなかったし、これ以上この世にいたら気が狂うと分かっていた。

 一歩踏み出そうとしたとき、腕を掴まれた。勇気がそこにいた。勇気は、私を連れ出してくれた。私がいたくなかった全ての場所から。


 でも、と思う。私は、勉強が好きだった。勉強だけは私を認めてくれた。私は頭が良かった。成績が良かった。それだけで、生きている価値があると思えた。

 今は、テストもない。授業も、宿題もない。一人で、毎日、本を読んで一日が終わる。

 私は、幸せなんだろうか?全てから逃げられた。でも、大切なものまで失ってしまった。

 布団の中で目を瞑る。私から離れていった同級生たちの顔が浮かぶ。お母さんの暗い目が浮かぶ。お父さんの笑顔が浮かぶ。そして、勇気の顔が浮かぶ。

 私は目を開けて隣の勇気を見た。勇気はすっかり寝入っているようだった。すーすーと寝息を立てる姿は、無防備で、裏社会で後ろ暗いことをしているのに、少年のように無垢に見えた。

 勇気、ありがとう。私は心の中でそっと呟いた。大好きだよ、勇気。知らない幸せを教えてくれてありがとう。でも、やっぱり私、どこにもいたくないみたい。ここも、幸せだけど、つまらないよ。私はきっと一生満足できないんだと思う。だから、もう、諦めさせて。素直に、死なせて。

 私は静かに布団から出た。ガチャリと鍵を開ける。ドアノブを回した。そのときだった。

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