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凍京愛徒  作者: 蒼原悠
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 雪は予報通り、二十五日の昼まで断続的に降り続けた。

 その間、都心部で記録された最大の積雪量は実に七十三センチ。観測史上最大の記録を堂々と塗り替えた大雪は、日本の人口の実に三割の集中する首都圏の都市機能に甚大な被害をもたらし、気象庁によって『関東大雪害』と命名された。実に五十人超の死者が発生し、高速道路や空港はことごとく雪に埋もれ、完全な都市機能の回復は二十六日を待たねばならなかった。

 東北地方や北陸地方から除雪車がかき集められ、足りない部分は人海戦術で除雪が進められた。真っ先に除雪されたのは停電を起こした高圧送電線の近隣だった。すぐさま復旧作業が開始され、二十五日のうちに都内の電源は何とか回復した。古い家屋に住んでいて、雪の重みで自宅を潰されてしまった人の中には、長期間の避難所生活を強いられた人もいたらしい。そのあたりのことは(のち)に報道で知ることになった。

 きっと住人の日頃の行いがよかったのだろう。おれの住むアパートは雪に耐え、中の家財に損害が及ぶことはなかった。ダメになったのは冷蔵庫の中身くらいのもの。命と家が無事だったことに比べれば些細な被害と言い切れた。

 赤羽家も結局は倒壊を免れたようだ。倒れ込んだ電柱も撤去され、大穴の開けられた壁にはひとまずブルーシートで応急措置が施されたという。もっとも、実際の被害状況をおれがこの目で見たわけではなくて、すべては赤羽家の母親の弁に過ぎなかったのだけれど。

 八丈島行きの飛行機の飛び立つ羽田空港は、順調に除雪が進めば三十日には滑走路の復旧が完了し、飛行機が通常通りの離着陸を行えるようになるという見込みだった。その見込みに期待をかけて、三十日当日の八丈島便のチケットを取った。五体満足で島に里帰りできそうであることを伝えると、電話口の向こうで母親は半泣きになった。弟からは体験談をねだられた。父親はほっと息を漏らして、おれの耳元にささやいてくれたっけ。

──『安心して帰ってきなさい』

 身一つで故郷を飛び出した息子が下宿先で大変な災難に遭遇したことを、みんな、それぞれの形で気にかけてくれていたのだと知った。不覚にも涙ぐんでしまったけれど、悟られないように胸を張って、笑ったものだった。安心して帰るよと告げて。

 この広い世界のどこかに、帰る場所がある。心の()るべき場所がある。

 それがどれほど大切で、尊いことなのか、今のおれは知っていた。




 電話を切って、口の中に溜まった息を床へ落としてから、おれは談話室のソファを離れて院内の廊下を歩いた。胸元に面会証代わりの名札が光っているのを確認して、

「侑莉」

 スライド式のドアを開いて、名前を呼んだ。

 窓際のベッドに眠る顔が、すぐに目に入った。

 外は陽が差している。暖かな冬晴れの光は、あの銅像やベンチのあった中庭いっぱいの雪に乱反射して、病室には(まぶ)しいほどの白い光が満ちていた。誰も除雪をしていないから、きっとあの庭の雪はしばらく残り続けることだろうと思う。一週間か、一ヶ月か、あるいはそれより先までか。雪に埋もれたあの中庭は、今となっては何よりもその面影を克明に留める、あの大雪害の生き証人のひとつだった。

 侑莉は動かなかった。

 黙ったまま、目映い光の中で、顔の輪郭や顔立ちを白と黒に際立たせている。

 何も言わずに隣に腰かけると、その目蓋がゆっくりと押し上げられた。

 ……やっぱり、寝ていなかった。おれは笑いかけた。

「驚かせないでよ」

「もっと驚いてほしかった」

「吐き気、ない?」

「今は大丈夫」

 もごもごと侑莉は答えた。

 あの二十四日(イブ)の夜、大雪の家からどうにか連れ出して自衛隊の人たちに引き渡した侑莉は、すぐに大きな車両で病院に運ばれた。幸い、侑莉が思っていたほど症状は悪化していなかったようだった。停電した家の中で、頼るべき家族の誰もいない状況下に長時間置かれたために、精神的に追い詰められたことで多少なりとも症状が一時的に悪化していた可能性はある。今は大事を取って、念入りの経過観察が行われているところだった。

 ついでと言ってはなんだけれど、同時におれも凍傷や低体温症を疑われて、この病院にお世話になってしまった。

 結果、おれはあっという間に退院、侑莉は今もこうして入院生活を続けている。一日をかけてやっと家にたどり着いた侑莉の両親は、散らばっていた薬物を見て全ての事情を察知し、すぐに処分を済ませたと聞いた。侑莉のことを(とが)めないでほしいと伝えると、二人は『命の恩人の言葉には逆らえない』といって応諾してくれた。

 侑莉とその家族にとって、おれはいつの間にか“命の恩人”に昇華してしまっていたことになる。

「ね」

 侑莉が小声で尋ねてきた。「何の電話だったの、さっきの」

「新年会っぽいことしようって、クラスメートから。あの大雪のせいで、クリスマス会は半端な感じになっちゃったからさ」

 本当のことを口にしたら侑莉に寂しい思いをさせてしまうかと不安に駆られつつ、しかし侑莉に嘘をつくのも嫌で、結局、正直に話すことを選んでしまった。

 電話の相手は柴井だった。柴井や浜崎をはじめ、自宅に帰るすべがなく、揃いも揃って二十五日までタイムズスクエアの避難所で過ごす羽目になってしまっていた高校のクラスメートたちからは、あの夜、安否を尋ねるメールやメッセージの連絡が何件も送られてきた。ろくに装備も整えずに雪の中へ飛び出していってしまった無謀な同級生を、彼らは彼らなりの形で心配してくれていたのだと、日付がクリスマスに変わったあたりでようやく知ったものだった。

「行くの?」

「うん。行くって答えておいた」

 うなずくと、そっか、と答えて侑莉はうつむいた。「優大はどんどん新しい世界に踏み入っていくね」

 そんなことはない。今だって、こうして誰かに誘われなければ、他人と向き合う機会を設けることができないのだから。自発的に声をかける勇気も、自信も、今はまだ持てそうにない。持つ必要性があるのかどうかも判断できていない。

「行ったら嫌?」

 思いきって、()いてみた。侑莉は間を置かずに答えてくれた。

「わたしが良し悪しを判断することじゃないでしょ。行くのは優大だもん、自分の判断で決めたらいいと思う」

「でも……」

「わたしのことなんか気にしないでよ。お土産話を披露してくれるなら、わたし、それで満足するよ」

 そうか。それならいいんだ。侑莉が満腹になって拒絶するまで、いろんな話をしてあげよう。心に決めた事柄を手早くスマホにも書き残して、忘れないように記憶の隅に刻んでおく。

「私たちも早く、クリスマス会のやり直し、やりたいな」

 融けかけの氷柱(つらら)から水が(したた)るように、ぽつりと侑莉が言った。

 おれも、侑莉も、互いに渡すためのプレゼントを用意していながら、機会を見つけられずに渡さずじまいのままになっていた。侑莉の体調が快方に向かって、外出の許可が下りるまでになったら、二十五日の仕切り直しをしよう。そんな話を、すでに侑莉とは交わしているところだった。

「そうだな」

 うなずいた。「早くやりたいや」

 窓の外の雪が消え、あの日の記憶が融け落ちてしまう前に、できることなら実現させたいと思った。けれども高く積み上がったままの雪は夜が訪れるたびに凍り付き、ちっとも(かさ)を減らさない。この大きな東京(まち)はまだ雪景色の中にある。

 いつか、あの雪の上を二人で歩いて、再会の日をやり直す。

 それが今のおれの夢だった。


 侑莉の身体は傷んでいる。こうして小康状態を保ってはいるものの、依然、余命が告げられるほどのダメージは蓄積されたままで、侑莉はいつ命を落としてしまってもおかしくないのだそうだ。薬物による自殺を企てた者の払う代償は、あまりにも大きく、重く、苦しい。

 その侑莉と、約束の二十五日を過ぎた今も、おれは“仲良し”の関係にある。

 結果論かもしれない。そうだとしても侑莉([ゆう])は、おれが雪の中から助け出したのと同じようにして、おれを孤独の闇の中から連れ出してくれた。おれは侑莉の、侑莉はおれの恩人。晴れて対等な関係に立ったところで、おれが侑莉の隣で果たしてゆくべき役割は何だろうか。この数日間、真剣に悩み続けて、やっと答えを出すことができた。今はその答えに自信を持っている。

 この先どんなことがあっても、侑莉をひとりにしない。いられる間は隣で、離れている間もスマホを介して、できる限り侑莉のそばにいようと思う。

 その努力が続く限り、きっと侑莉はおれのもとを離れないでいてくれる。千三百万人もの人がひしめくこの大都会の中で、おれと、侑莉は、頼る相手のないひとりぼっちの存在ではなくなる。友達を増やすも、知り合いを増やすも、すべての力の源はここにある。

 雪の降る世界で離ればなれになり、こうしてふたたび雪の街で巡り合ったのだ。

 今度の“仲良し”に期限の保証はない。握りしめた雪の塊はいつ融け落ちてしまうのか、おれにも侑莉にも分かりはしない。

 だから、おれはおれに与えられた今という時間を、世界でたったひとりの侑莉と一緒に踏み越えてゆく。たったひとりで虚しい空を見上げるような真似は、もう、しなくてもいいのだ。


 何も言わないでいたら侑莉が顔を上げた。少しずつ雪融けの進む東京の街を、二人して、大きな窓から見上げた。

 ところどころ銀白色の煌めく、果てしのない街並みのどこかで、いつかの懐かしい自分が笑って手を振っているような気がした。







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