epi 9 邂逅
気づくと、知らない川原の土手に寝転んで空を仰いでいた。
よく見ると体中あちこち擦り切れたり青い痣が出来ていて、小さなすり傷からは血が滲んでいた。
ただ感情に任せてとにかくやみくもに走ってきたため、自分が今どこにいるか見当もつかなかった。
少し落ち着いた頭で辺りを見回してみるが、いくら記憶を手繰り寄せてもなじみのある景色は一つも見つけることが出来なかった。
——お母様がお亡くなりになった
まだ薄暗い、朝日のさす前の屋敷の一室。
一晩でいくつも年をとってしまったかのようなやつれた顔で、父は二人の息子にそう告げた。
母危篤の知らせを受けた兄は、アカデミーの宿舎から急遽邸宅に戻り、弟ヴェルナスと共に眠れぬ夜を父の執務室のソファで過ごしていた。
アカデミー入学が許される13になった今年から一人家族と離れて宿舎で暮らしていた兄は、父の言葉に取り乱すことなくただ静かに頷いた。
ヴェルナスは返事も出来ず、俯いて声を殺し唇を噛み締めていた。
足元の絨毯にぽたぽたと大粒の涙が零れ落ちていく。
『泣くなヴェルナス。母上に恥ずかしくないのか』
3つしか違わないはずの兄の落ち着き払った堂々とした姿に、自分が恥ずかしくなった。
怒りとも悲しみともつかない感情が渦を巻いて身体中を駆けまわる。
吐き気を催すほどの不快感に耐えきれず、気がつくと部屋を飛び出していた。
夜明け前の、不気味なほど静かなあの瞬間からさして時間は立っていないにもかかわらず、今日を始めたばかりの太陽がヴェルナスの寝不足の泣き晴らした目を容赦なく照らしてくる。
身体を起こして膝を抱え、がっくりと顔を埋めた。
「くそっ…どこだよ……ここ……」
膝に涙の温かさを感じ始めた時、ふいに頭上から鈴の鳴るような幼い少女の声がした。
「……大丈夫ですか?どこか痛いのですか?」
顔を上げる拍子にさりげなく両膝で涙を拭って声の主を見上げる。
「……おマエ、誰だよ」
感情の乱れたまま幼い少女に声を掛けてしまったことに一瞬後悔がよぎった。
しかし少女は微塵も気にする素振りを見せず、くりくりとした好奇心たっぷりのヘーゼルの瞳でヴェルナスを見つめてくる。
「あっ……怪我してます!ちょっと待ってください」
言うなり少女は布製の小さな小袋からゴソゴソとハンカチを取り出し、ヴェルナスの手にあてがった。
転んだ時に負ったのであろう掌の傷口を優しくそっと拭い、ぐるりとヴェルナスの手に巻き付ける。
お世辞にも器用とは言えないが……。
緩むたびに何度も何度もハンカチを巻きなす少女のあまりにも真剣な表情を前に、ただされるがままに従うしかなかった。
施された黄色く鮮やかな花の刺繍が不格好に歪んでいた。
「……悲しいことが、あったのですか?」
――悲しい……⁈そんなもんじゃない、おマエなんかに何がわかる⁈
喉元まで出かかった言葉を、少女の無垢なヘーゼルの瞳が押しとどまらせた。
少し落ち着いた心で改めて少女を目にしたヴェルナスは、今さらながらその美しさにはっとした。
血管が透けて見そうなほど白く透明な肌、柔らかい笑みを浮かべるたびに可愛らしく表情を変える唇……朝陽を受けて輝く髪は金糸のようだった。
まるで、天使みたいだ……
「……母上が亡くなったんだ」
少女が目を見開いて息を呑む。
「……泣くなんて母上に恥ずかしくないのかって言われて……腹立たしくて……」
「……大切な方を亡くして流す涙は恥ずかしくなんてないのです。怒っても泣いても、お母様にとっては、大切なあなた。どんなあなたも、あなたに変わりはないのです』
「どんな僕も…僕……⁈」
「はい。お母様はどんなあなたも愛していたはず。だってあなたはとてもきれいな瞳をしています。この瞳は愛された人の瞳です。愛を知っている人の瞳です。だから大丈夫。あなたはあなたのままで良いのです」
「僕は……僕のままで……」
不意に少女が近づいて、柔らかく滑らかな手でヴェルナスの頬を拭った。温かいミルクのような甘い香りがしたような気がした。
「……⁈」
「ごめんなさい。ハンカチはさっき傷口に巻いた一枚しか持っていなくて」
気づくと、いつから流れていたのか、両の目から涙が溢れていた。
拭っても拭っても、後から後から。
目の前の景色も少女の顔も歪んで見えないほどに。
「……くっ…ぅ……」
こんな年端もいかない幼い少女の前で……。
そんな小さなプライドなど、目の前の慈愛に満ちた天使の前では取るに足らない塵ですらないように思えて。零れ落ちる涙も嗚咽もあふれ出るままに、ヴェルナスは胸の奥に使えていた重く冷たい鉛の玉が消えるまで泣き続けた。
「エリザベートお嬢様~」
遠くから、誰かを呼ぶ女性の声が響いた。
「いけない……‼︎わたしもう帰らなきゃ」
少女は跳ねるように立ち上がり、ドレスの裾をはたくと声の主の方に慌てて走って行ってしまった。
『……メレヴァン伯爵様が心配されてますよ……』
少女を迎えた侍女らしき女性の声が微かに聞こえたのを最後に、その姿はあっという間に街の景色の中に消えてしまった。
その最後があまりにあっけなくて、夢だったんじゃないかとしばらく呆然とした。
泣き晴らした目はじんじんと熱を持ち、頭は目覚めたばかりのようにどろりと重い。
……が、手に不器用に巻かれたハンカチと、微かに鼻腔に残るミルクのような甘い香が、それがまぎれもない事実であったことを記憶よりも雄弁に語っていた。
伯爵家の子女……⁈
——エリザーべート・メレヴァン——
今日のことも、この名前も、生涯決して忘れない
待っていて
いつか必ず迎えに行くから
お読みくださり本当にありがとうございます
次回、最終回です




