epi 6 婚約者の異変
「——私たちがとても仲のいい婚約者同士でお互いに深く愛しあっていた……ということは覚えているのですが」
(………ハイ⁈)
……もはや『婚約者同士』という単語以外、事実にかすりもしない言葉の羅列を『覚えている』と言えるのだろうか?
血相を変えて部屋に飛び込んできたアイリーンからヴェルナスの事故の顛末を聞きいたリゼ。何でも仕事からの帰宅途中、ヴェルナスを乗せた馬車がぬかるみに車輪をとられて横転し、頭部を強く打ったとか。父メレヴァン伯爵に急ぎ先ぶれと伺いの書状を用意してもらい、ブルームハルト家からお見舞いの許可が下りるや否や駆けつけたところ……。
リゼを待っていたのは——事故のショックで記憶の一部が混乱しているらしい——ベッドに半身を起こして予想以上に元気そうな、そして予想の上どころではなく雲を突き破ってはるか斜め上を行く言動を平然と繰り返すヴェルナスの姿だった。
人は本当に驚くと頭が働かなくなると言うけど。
脳がふわふわの砂糖菓子になってしまったんじゃないかというくらい思考が完全に止まって言葉が出てこない。
「どうしたのです?リゼ、もっと近くに来て、早くその愛らしい顔を見せてください」
もはや働かなくなった頭で抵抗の言い訳を思いつくワケもなく、リゼは頷きもせず引き寄せられるように寝台の横に立った。
リゼと会う時にはいつも首元や手首までキッチリと一分の隙もなく整えられた姿しか見せなかったヴェルナスが、隙だらけの寝間着姿で彼女を見上げている。
しばらくいかにも感慨深げといった風にリゼを見つめていたヴェルナスがふと、リゼの手を取って自身のそれに重ねると『もう一度会えて、ほんとうによかった』と小さく呟き、そのまま彼の頬に導いた。
「……ッひ‼︎」
ひんやりと陶器のように冷たく滑らかなヴェルナスの頬に触れたリゼは思わず小さく飛び上がる。
「…⁈……大丈夫ですか、リゼ? 顔が赤い…大変だ。誰か、往診に来ていた王宮医師を至急呼び戻せ」
「……王宮医師って⁉︎違うんです‼︎これは病気とかじゃなくて」
「何を言ってるんです⁈私のリゼが、もし大変な病に侵されていたらどうするんですか?」
(私の……リゼ⁈)
寝台のヴェルナスが自身の隣のスペースをポンポンと叩いてニッコリ微笑む。
もはや今のが小芝居だと隠す気など微塵もない様子だ。
「さ、リゼ。倒れたら大変です。医師が来るまで私の隣で休んでいましょう」
⁈
同じ寝台で?
隣で?
氷の補佐官様と?
喉元まで出かかった『はぁぁぁ??』を押しとどめたのは、非常灯のように灯った令嬢としての最後の矜持だった。長年の淑女教育の賜物である。
見るからに柔らかそうな掛け寝具をめくって、リゼを迎える準備万端のヴェルナス。
もう考えるのも面倒になったリゼは大人しく従い、ヴェルナスの隣に潜り込んだ。
そんなリゼを見てさも満足そうに微笑むと、ヴェルナスは彼女の首元までふかふかの寝具を掛けてくれた。
……あ、やわらかい……
羽毛かしら…?
いやいや
ドレスが皺に…
いやいや!
緊急事態にもかかわらず、綺麗にセットしてきた髪が…
いやいやいや……そうじゃなくて‼︎
もはやツッコミどころも情報量も多すぎて……今は何も考えず、極上の寝具の中で目を閉じて落ち着きたい……
私、何してるんだろう……
目を閉じていてもヴェルナスの痛いほどの視線が感じられ、瞼をぎゅっと閉じる。
ねぇ、ほんとうに一体どうしちゃったの?
◇ ◇ ◇
夜も更けた頃、激務終わりの影を隠そうともしないギルバートがヴェルナスを訪ねた。
手には今のヴェルナスの生命線と言っても過言ではない重要書類が握られている。
「アイリーンの言ったとおりだっただろう?エリザベート嬢はタルトとシナモンクッキーが大好物だって」
「あぁ。 彼女のためにどちらも用意させておいたのだが……」
そこまで言って、何を思い出したのか俯いて顔を赤らめるヴェルナス。
「タルトを……彼女が……み…みずから…手作りの――」
「――良かったな」
震えんばかりのヴェルナスを食い気味に制する。
人々に氷の政務補佐官と呼ばれるこの男。
その実態を知る者は、おそらくギルバート一人だろう。
その昔一目惚れをした小さな少女の影を追い、ひたすらその少女が憧れる人物像に近づこうと、あらゆる手段を駆使して情報収集と努力に明け暮れてきた純真で一途な男、それがヴェルナス政務補佐官の真の姿だった。
初めての出会い以来、少女の姿を追い続けてきたヴェルナス。
少女が『落ち着いた無口な男が好きらしい』』と彼女の友人から聞けばその日からほとんど口を閉ざして無口な男を演じ、
少女が『大きくなったらお父様のようなエラい文官様と結婚する~』と言っていたと彼女の側仕えの侍女が話していたと耳にすれば、全身全霊をかけて勉学に励み、王宮官僚試験に臨んで主席で入宮した。
彼女の理想の男になるまで、決して少女の前に姿を見せないと心に決めて。
「……頼まれてた例の件、明日仕込んどくから」
ギルバートは手元の書類をヒラヒラさせる。
「すまない、助かる」
――頼まれていた例の件
通常半年以上かかる貴族の婚約処理。王宮書記官であるギルバートの”職権”を少々粗目に利用して、ヴェルナスとリゼの婚約申請書類を即日王の決済処理へ回される書類の束に紛れ込ませようというギルバートとヴェルナスの間に交わされた密談。
「そんなに焦らなくても、エリザベート嬢はお前を置いてよその男に乗り換えるようなことはしないだろ?」
「いや…むしろのんびりしすぎた。万が一にも……せっかく手に入れた俺の天使を……リゼを失うようなことがあったら……くっ……考えただけで背筋が凍る……いや、吐き気がする」
言いながらヴェルナスは本当に手を口元にあてがった。
ヴェルナスに頼まれて、密かに婚約者アイリーンからリゼの情報を横流ししていたギルバート。もちろんこのことはリゼやアイリーンには決して知られてはならない。
「だからって記憶喪失の体で無理やり仲良し設定に持っていくとか……陛下の覚えもめでたい有能補佐官が考えたとはとうてい思えない策だな。稚拙で穴だらけ過ぎる。エリザベート嬢にバレたらどうするんだ?ずっと昔から思い続けていたんだって気持ちくらいは素直に伝えてもいいんじゃないか?」
「気持ちは伝えている。全力で、端的に、繰り返し、何度も! …しかし、どうもリゼに届いている手ごたえがない」
リゼに伝えた言葉を思い出しているのか、こぶしを握り締めながら熱く語りだしたヴェルナスに、ギルバートが苦笑いする。
「……いきなり全力すぎて引いて…いや照れてるんだろ。お前の場合、出力の調整が色々おかしいんだよ。ほどよくやれよ、ほどよく」
「ほどよく……か、なるほど。わかった」
……絶対わかってないよなコイツ。
ヴェルナスの難しい表情を見たギルバートが失笑とともに浮かべた呆れ顔に気づいた者はいなかった。




