第99ページ 言葉を仕事にするなんて、思ってもみなかった
キャリアセンターで、凛は初めて「壊れない働き方を探してもいい」と知った。
普通に合わせることだけが正解ではない。
自分を削り続ける働き方ではなく、自分が呼吸できる形を探してもいい。
今回は、凛が「書くこと」と「生きること」、そして「働くこと」を少しずつ結びつけ始めるページです。
自分の言葉が誰かへ届いた記憶を頼りに、凛は初めて“好きなことを未来に置いてみる”勇気を持ち始めます。
キャリアセンターを出たあと、凛はしばらく中庭のベンチから動けなかった。
冬の空は高く、薄い青色をしている。
木々の葉はほとんど落ちていて、枝だけが細く空へ伸びていた。
その枝を見上げながら、凛はさっき聞いた言葉を何度も思い返していた。
――働き方には色々あります。
――最初から大きな負荷をかけるのではなく、環境を見ることも大切です。
たったそれだけのことなのに、凛にとっては新しい世界の扉を少しだけ開かれたようだった。
今まで凛の中にあった“働く”は、一種類しかなかった。
朝早く起きて、満員電車に乗る。
会社へ行く。
人間関係に気を遣う。
上司の顔色を見て、同僚に合わせて、ミスをしないように笑う。
疲れても休めず、苦しくても「みんなそうだから」と言われながら、毎日をこなしていく。
それが大人になることだと思っていた。
それができなければ、社会から外れるのだと思っていた。
だから凛は怖かった。
働くことそのものが怖かったのではなく、働く中で自分が少しずつ壊れていく未来が怖かった。
自分を消して、普通の形へ押し込めて、息ができなくなる未来が怖かった。
でも今日、キャリアセンターで初めて聞いた。
働き方には、色々ある。
環境を見ることも大切。
自分に合う形を探していい。
それは凛にとって、“逃げ道”ではなく、“呼吸できる道”のように思えた。
凛はスマートフォンを開いた。
真白からのメッセージが残っている。
『凛ちゃんが壊れずに生きていける形を探すのは、すごく大事なことだと思う』
その文章を読み返すたび、胸の奥が少し温かくなる。
壊れずに生きていける形。
そんなものを、自分が探してもいいのだろうか。
今までは、壊れそうになっても普通に合わせることが正しいと思っていた。
でも最近、凛は少しずつ知り始めている。
壊れないことは、逃げではない。
自分を守ることは、甘えではない。
苦しさに名前をつけることは、弱さではない。
凛はベンチで膝の上にノートを置いた。
最近、いつも持ち歩くようになった小さなノート。
真白に文章を見せた日から、このノートは凛にとって少し特別なものになっている。
誰にも言えなかった気持ちを、そこへ書く。
怖いこと。
苦しいこと。
羨ましいこと。
寂しいこと。
そういう感情を文字にすると、頭の中で暴れていたものが少しだけ静かになる。
凛はページを開き、ペンを持った。
『働くことが怖い。
でも本当は、生きることを諦めたいわけじゃない。
私は、壊れないで生きる方法を探したい。』
そこまで書いて、凛は少し手を止めた。
壊れないで生きる方法。
その言葉を見た瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
それは今の凛にとって、とても切実な願いだった。
誰かに勝ちたいわけではない。
すごい人になりたいわけでもない。
ただ、毎日自分を責め続けずに生きたい。
普通になれない自分を、毎朝罰するような生き方ではなく、少しでも呼吸できる生き方を探したい。
凛はさらに書いた。
『私にできることは、まだわからない。
でも、言葉を書く時だけ、少し呼吸がしやすい。
苦しいと思ったことを言葉にすると、少しだけ自分を見失わずに済む。』
その文章を書いている時、不意に真白の言葉が蘇った。
――凛ちゃんの言葉、多分ちゃんと誰かの呼吸になってるよ。
あの日、SNSへ投稿した短い文章。
“頑張れないんじゃなくて、頑張りすぎて壊れそうだった”。
その一文に、知らない誰かから「わかる」が届いた。
“泣きました”。
“自分だけじゃないと思えました”。
“保存しました”。
それらの言葉を見た時、凛は初めて思った。
自分の苦しさは、ただ消したいだけのものではないのかもしれない。
言葉へ変えた時、誰かの孤独へ届くことがあるのかもしれない。
凛はノートを見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……言葉を仕事にするなんて」
ぽつりと呟いて、すぐに自分で笑いそうになった。
そんなの、大それたことだ。
作家になりたいとか、ライターになりたいとか、そんなことを堂々と言える自信はない。
凛はまだ、何者でもない。
文章だって、上手いのかわからない。
投稿した短い言葉が少し反応されたからといって、それが仕事になるわけではない。
そんな現実は、凛にもわかっている。
でも。
それでも。
“書くこと”を未来の片隅に置いてみたい、と思ってしまった。
就職先を探すように。
働き方を探すように。
自分が少し呼吸できるものを、未来へ置いてみたい。
凛はその考えに気づいた瞬間、胸が少しだけ震えた。
怖い。
好きなものを未来に置くのは怖い。
期待してしまうから。
失敗した時、傷つくから。
“そんなの無理だよ”と言われたら、自分の大事なものごと否定された気がしてしまうから。
中学生の頃、友達に「暗くない?」と笑われた記憶がまた浮かぶ。
たった一言だった。
でもあの一言で、凛は自分の言葉を隠すようになった。
好きなものほど、人に見せるのが怖くなった。
だから今も怖い。
書きたいと思うこと。
言葉を大事にしたいと思うこと。
それを誰かに言うのが怖い。
凛はノートを閉じかけた。
でも、その時スマートフォンが震えた。
灯からだった。
『凛ちゃん、昨日の投稿また読んでた』
凛は少し目を瞬かせる。
『なんか今日もしんどくて、でもあれ読むとちょっと呼吸戻る』
そのメッセージを見た瞬間、凛の胸が静かに揺れた。
自分が書いた言葉を、灯が読み返している。
苦しい時に。
呼吸を戻すために。
その事実が、凛には信じられないくらい大きかった。
『ありがとう』
凛は返した。
『なんか、自分の文章がそういうふうに読まれてるの不思議』
既読。
『不思議じゃないよ』
『凛ちゃんの文章、ちゃんと苦しいから安心する』
凛はその一文を見つめた。
ちゃんと苦しいから安心する。
普通なら、褒め言葉には聞こえないかもしれない。
でも凛には、それがとても嬉しかった。
凛はずっと、自分の苦しさを隠そうとしてきた。
暗いと思われたくなかった。
重いと思われたくなかった。
でも灯は、苦しいから安心すると言う。
それはきっと、“苦しさを誤魔化していないから、自分だけじゃないと思える”ということなのだろう。
凛は少し迷ってから、灯へ送った。
『今日、キャリアセンター行ってきた』
『働くの怖いって話した』
灯からすぐ返事が来る。
『えらすぎ』
『私なら入口で引き返す』
凛は少し笑った。
『私も引き返しそうだった』
『でも行ったんでしょ。えらい』
その軽いやり取りだけで、胸が少し温かくなる。
凛は続けて打った。
『そこで、働き方って色々あるって言われた』
『普通の会社員だけじゃないって』
既読。
『それな』
『私も普通の働き方無理そうだから、いつも死んでる』
灯の言葉は乱暴だけれど、どこか正直だった。
凛は画面を見ながら、小さく頷く。
普通の働き方が怖い人は、自分だけじゃない。
凛も、灯も、真白も。
多分、見えないだけで他にもたくさんいる。
『凛ちゃんはさ』
灯から新しいメッセージが届く。
『文章書く仕事とか向いてそう』
凛は呼吸を止めた。
心臓が一瞬、大きく鳴る。
画面を見つめたまま、しばらく返事ができなかった。
文章を書く仕事。
さっき、自分でも少しだけ考えてしまったこと。
でも怖くてすぐに打ち消したこと。
それを灯が、何でもないように言った。
『いや、そんな簡単じゃないと思う』
凛は慌てて返す。
『わかってるよ』
『でも、向いてるかもって思うだけなら自由じゃん』
その言葉に、凛はまた静かに息を止めた。
思うだけなら自由。
本当にそうなのかもしれない。
いきなり仕事にする必要はない。
才能があると証明しなくてもいい。
夢だと大声で宣言しなくてもいい。
ただ、“そういう未来があったらいいな”と小さく思うだけなら、誰にも迷惑をかけない。
凛はノートをもう一度開いた。
そして、新しい行へ書いた。
『文章を書く未来があったら、少し嬉しい。』
書いた瞬間、胸の奥が恥ずかしいくらい熱くなった。
嬉しい。
その言葉を使うのが、少し怖かった。
でも本当だった。
書くことで、誰かへ届く。
苦しさを言葉にして、それが誰かの呼吸になる。
そんな未来がもしあるなら。
凛は少しだけ、生きることに意味を感じられるかもしれない。
その日の夜、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。
キャリアセンターへ行ったこと。
灯から文章の仕事が向いてそうと言われたこと。
その全部を、真白へ話したかった。
店へ入ると、ベルが小さく鳴る。
「いらっしゃい」
真白が顔を上げる。
その声を聞くと、やっぱり少し安心する。
凛はいつものカウンター席へ座った。
「今日、なんか顔が考え事してる」
真白が言った。
「顔が?」
「うん。考え事してる顔」
凛は少し笑った。
「キャリアセンター、行きました」
「うん。聞いた。えらかったね」
その言葉に、凛は少し目を伏せる。
えらいと言われるだけで、胸が温かくなる。
でも同時に、子どもみたいで恥ずかしい。
「怒られなかった」
「だから怒られないって」
「でも、ちゃんとしてない自分を見せる場所って怖いんです」
「うん」
真白は頷く。
「でも行った」
「……はい」
「それはかなり大きいよ」
凛はカップを両手で包みながら、少しだけ息を吐いた。
今日はココアではなく、紅茶だった。
湯気がゆっくり立ち上る。
「それで」
凛は少し迷いながら口を開いた。
「働き方って、色々あるって言われて」
「うん」
「少人数の職場とか、在宅とか、文章に関わる仕事とか」
“文章”と言った瞬間、胸が少し跳ねる。
真白は何も言わず聞いている。
「それで、灯ちゃんにも言われて」
「何を?」
「文章書く仕事とか向いてそうって」
言った瞬間、顔が熱くなる。
凛は慌てて続けた。
「でも、別に本気で言ってるわけじゃなくて、そんな簡単じゃないのはわかってるし、仕事にできるほど上手いとか思ってないし」
早口になる。
自分で自分を否定する言葉が、どんどん出てくる。
「ただ、ちょっと考えただけで」
「変ですよね」
そう言ったあと、凛はすぐに後悔した。
また自分で先回りして、否定してしまった。
真白は少しだけ黙っていた。
それから、静かに言った。
「凛ちゃん」
「はい」
「今、誰より先に自分で自分の可能性潰そうとしたね」
その言葉に、凛は息を止めた。
図星だった。
真白は責めるような口調ではなかった。
でも、まっすぐだった。
「……怖くて」
凛は小さく言う。
「うん」
「書くこと好きかもしれないって思うのが怖い」
「うん」
「未来に置いてみたいって思った瞬間、無理だった時が怖くなる」
真白は静かに頷いた。
「好きなものほど怖いよね」
その言葉に、凛の胸がじわりと熱くなる。
好きなものほど怖い。
本当にそうだった。
どうでもいいものなら、否定されても平気かもしれない。
でも書くことは、凛にとって“ただの趣味”ではなくなりつつあった。
呼吸するためのもの。
苦しさを見失わないためのもの。
誰かと繋がるためのもの。
だからこそ、それを未来へ置くのが怖い。
「そんなの無理」と言われたら、自分の息の仕方まで否定される気がするから。
「でもさ」
真白はカウンターへ肘をついて言った。
「今すぐ仕事にしなきゃいけないわけじゃないよね」
凛は顔を上げる。
「え?」
「まずは書き続ける、でいいんじゃない?」
「書き続ける……」
「うん。投稿してみる。短い文章をまとめてみる。誰かに読んでもらう。そういう小さいことからでいいと思う」
凛はその言葉を胸の中で繰り返した。
小さいことから。
それなら少しだけ、呼吸ができる気がした。
いきなり“仕事にする”ではなく。
いきなり“作家になる”ではなく。
ただ、書き続ける。
自分の言葉を少しずつ外へ出す。
それなら、今の凛にもできるかもしれない。
「凛ちゃんの文章ってさ」
真白は少しだけ笑った。
「ちゃんと傷があるんだよね」
凛は目を瞬かせる。
「傷?」
「うん」
真白は続ける。
「綺麗なだけじゃなくて、痛い。でも、その痛さがあるから、同じように痛い人へ届く」
凛の胸が静かに揺れる。
傷がある文章。
それは褒め言葉なのか、まだ少しわからない。
でも真白の声には、確かに肯定があった。
「凛ちゃんは、その傷をずっと隠そうとしてきたけど」
「うん」
「言葉にすると、誰かの傷と繋がることがある」
その言葉を聞いた瞬間、凛の目に少し涙が滲んだ。
自分の傷は、ずっと恥ずかしいものだった。
普通になれない証拠。
弱い証拠。
人より劣っている証拠。
そう思っていた。
でも、もしその傷が、誰かの傷と繋がることがあるなら。
もしその痛みを言葉にすることで、誰かが“自分だけじゃない”と思えるなら。
凛は、自分の生きづらさを少しだけ違う目で見られるかもしれない。
「……私、書きたいです」
凛は小さく言った。
言ったあと、胸が震えた。
それは、今までで一番素直な言葉だったかもしれない。
「仕事になるかはわからないし」
「うん」
「未来にできるかもわからないけど」
「うん」
「でも、書きたい」
真白は静かに笑った。
「うん」
「それでいいと思う」
その一言で、凛の胸の奥がふっと緩んだ。
それでいい。
まだ何者にもなっていなくていい。
結果が出ていなくていい。
仕事になるかわからなくてもいい。
ただ、書きたいと思う。
その気持ちを、すぐに潰さなくてもいい。
凛は紅茶を一口飲んだ。
少し冷めていたけれど、優しい味がした。
その夜、凛は家へ帰ってからノートを開いた。
机の上にペンを置き、深呼吸する。
タイトルを書いた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』
その文字を見た瞬間、胸が強く震えた。
これは、凛自身の物語でもある。
でも同時に、凛だけのものではない。
灯の苦しさ。
七海の涙。
真白の壊れた過去。
母の不器用な愛。
そして、SNSの向こうで「わかる」と言ってくれた知らない誰か。
生きづらさには、たくさんの形がある。
名前をつけることで、消えるわけではない。
でも、名前がつくと、少しだけ一人じゃなくなる気がする。
凛はノートへゆっくり書き始めた。
『私はずっと、普通になれない自分を責めていた。
でも本当は、普通になりたいんじゃなくて、安心して生きたかったのかもしれない。』
書いた瞬間、涙が一粒落ちた。
でも、悲しい涙だけではなかった。
凛はペンを止めずに続けた。
苦しいこと。
怖いこと。
働くことへの不安。
誰かを必要とすることへの罪悪感。
母へ言えなかった言葉。
真白に言えた言葉。
七海と一緒に休んだ日のこと。
灯から届いた“わかる”のこと。
その全部を、少しずつ文章へ変えていく。
完璧な文章ではない。
まとまってもいない。
でもそこには、確かに凛の呼吸があった。
深夜になっても、凛はしばらく書き続けた。
途中で手が止まるたび、不安が顔を出す。
こんなもの誰が読むんだろう。
意味があるのだろうか。
仕事になるわけでもないのに。
でも、そのたび凛は自分へ小さく言った。
「今は、書きたいだけでいい」
その言葉は、真白にもらった許可であり、自分へ初めて渡す許可でもあった。
書きたいだけでいい。
好きなだけでいい。
まだ未来になっていなくてもいい。
凛は夜の静けさの中で、ペンを走らせた。
窓の外では、冬の街が眠っている。
苦しい人も。
泣いている人も。
普通になれなくて、自分を責めている人も。
きっとどこかにいる。
凛はそんな誰かへ届くかもしれない言葉を、ゆっくり、拙く、それでも確かに書き続けた。
働くことはまだ怖い。
未来も怖い。
でも、書くことだけは、少しだけ凛を未来へ繋いでくれた。
凛は初めて思った。
自分の生きづらさは、消すだけのものじゃないのかもしれない。
言葉にして、誰かへ渡せるものなのかもしれない。
それが仕事になるかはわからない。
人生を変えるかもわからない。
でも今夜、凛は少しだけ未来へ向かっていた。
普通になるためではなく。
自分のまま、生きていくために。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、凛が「書くこと」を初めて未来の中へ置いてみるページでした。
働くことが怖い。
でも、生きることを諦めたいわけじゃない。
その狭間で、凛は“壊れないで生きる方法”を探し始めます。
文章を書くことは、まだ仕事ではありません。
夢と呼ぶにも怖すぎる、小さな願いです。
けれど凛にとっては、呼吸できる大切な場所でした。
好きなものほど怖い。
大事なものほど、否定された時に深く傷つく。
それでも凛は今回、初めて「書きたい」と言葉にしました。
次のページでは、凛が自分の文章をもう一度SNSへ投稿し、“誰かへ届くこと”の喜びと怖さに向き合っていきます。




