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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第98ページ  働くことが、全部怖かった

七海と一緒にキャリア講座を休んだ凛は、初めて「壊れない方を選ぶ」という小さな練習をした。

それは逃げではなく、自分を守るための選択だった。

けれど、就活や将来の不安は簡単には消えない。

今回は、凛が「普通に働くこと」だけが正解なのかを考え始め、自分に合う生き方を探す第一歩を踏み出すページです。


 喫茶店を出る頃には、空は夕方の色に変わっていた。


 冬の夕暮れは早い。


 ついさっきまで灰色だった空が、少しずつ青黒く沈んでいく。


 凛と七海は大学近くの歩道を並んで歩いていた。


 キャリア講座を休んだ罪悪感は、まだ胸の端に残っている。


 でも、思っていたより強くはなかった。


 講座へ行かずにお茶を飲んだ。


 それだけで世界が終わるわけではなかった。


 誰かに怒られたわけでもない。


 未来が閉ざされたわけでもない。


 ただ、温かいカフェオレを飲んで、七海と少し話して、疲れた心を少し休ませただけだった。


「なんかさ」


 七海がマフラーへ顔を埋めながら言った。


「サボったのに、思ったより罪悪感少ない」


 凛は小さく笑った。


「私も」


「やばいね。味をしめたかも」


「それは危ない」


 二人で少しだけ笑う。


 その笑いは、いつもの明るい笑いとは少し違った。


 頑張りすぎていた人同士が、ほんの少し肩の力を抜いた時の笑いだった。


 凛はその横顔を見ながら思う。


 七海もずっと頑張っていた。


 明るい子。


 社交的な子。


 誰とでも話せる子。


 そんなふうに見えていた七海も、本当は人の期待に応えようとして疲れていた。


 凛だけじゃない。


 みんな、それぞれ“ちゃんとしているふり”をしている。


「ねえ、凛ちゃん」


「うん?」


「凛ちゃんって、将来何したいの?」


 突然の質問に、凛は足を止めそうになった。


 何したいの。


 その言葉は、就活の場で何度も聞かれる。


 志望業界。


 自己分析。


 将来像。


 働き方。


 でも、そのたび凛はうまく答えられなかった。


 何をしたいかより先に、何が怖いかばかり浮かんでしまうから。


「……わかんない」


 凛は正直に答えた。


「でも、普通の会社員になるのが怖い」


「うん」


「毎日同じ時間に起きて、満員電車乗って、職場で空気読んで、人間関係気にして、ちゃんと成果出して……って考えると」


 凛はそこで言葉を切った。


 胸が少し苦しくなる。


「それだけで息が詰まる」


 七海は黙って頷いた。


 茶化さなかった。


 凛はそれが少しありがたかった。


「でも、それ言うと甘えみたいじゃん」


 凛は小さく笑った。


「みんなやってることなのに、私だけ怖いって言うの」


「甘えじゃないと思うけどな」


 七海は前を向いたまま言った。


「怖いもんは怖いじゃん」


 そのあまりにまっすぐな言葉に、凛は少し目を瞬かせる。


「怖いもんは怖い……」


「うん。私も怖いよ。会社入って、ずっと笑ってなきゃいけないのかなとか。上司に気に入られなきゃとか。同期と比べられるのかなとか」


 七海は少し苦笑する。


「私、人に合わせるの得意っぽく見えるけど、それでめっちゃ疲れるし」


 凛は静かに七海を見る。


 以前なら、七海は“できる側”の人だと思っていた。


 でも今はわかる。


 七海も“できるふり”をしている側の人だった。


 凛とは違う形で、同じように疲れている。


「働くのってさ」


 凛はぽつりと言った。


「大人になるための当たり前みたいに言われるけど」


「うん」


「私には、すごく大きい山みたいに見える」


 登れないかもしれない。


 途中で息が切れるかもしれない。


 みんなは当然みたいに登っていくのに、自分だけふもとで立ち尽くしている。


 そんな感じ。


 七海は少し考えてから言った。


「でもさ、山ってルート一個じゃなくない?」


 凛は顔を上げる。


「え?」


「正面から登る人もいるし、遠回りする人もいるし、途中まで行って休む人もいるし、そもそも別の山行く人もいるじゃん」


 七海は笑った。


「私も今言いながら何の話かわかんなくなってきたけど」


 凛は思わず小さく笑った。


 でも、その言葉は胸に残った。


 ルートは一つじゃない。


 今まで凛は、“普通の就職”だけが人生の道だと思っていた。


 新卒で会社に入る。


 毎日働く。


 人間関係に適応する。


 ちゃんと稼ぐ。


 それができなければ、人生から外れると思っていた。


 でも本当に、道はそれだけなのだろうか。


 その夜、凛は家へ帰ってからも七海の言葉を考えていた。


 ルートは一つじゃない。


 真白も似たことを言っていた。


 “やっていける形、探せばいい”。


 “普通になる”じゃなく、“自分で生きる”。


 でも、凛にはまだその意味がよくわからない。


 自分で生きるって何だろう。


 会社員にならない生き方?


 週五で働かない生き方?


 好きなことを仕事にすること?


 それとも、もっと別のこと?


 凛は机の前へ座った。


 ノートを開く。


 最近、苦しい時ほど書くようになった。


 言葉にすると、頭の中で膨らみすぎた不安が少しだけ形になる。


 凛はペンを持ち、ページの上にゆっくり書いた。


『働くことが怖い。』


 その一文を書いた瞬間、胸が少しざわついた。


 でも、消さなかった。


 続けて書く。


『怖いのは、怠けたいからじゃない。

人の中でずっと気を張り続けることが怖い。

普通に振る舞い続けることが怖い。

疲れても休めない場所へ入ることが怖い。

壊れても、「みんな頑張ってる」と言われそうで怖い。』


 書きながら、凛は少しずつ呼吸が深くなるのを感じた。


 怖い。


 その言葉を、こんなに何度も書いていいのだろうか。


 昔なら、怖いと言う前に自分を責めていた。


 でも今は、少しだけ違う。


 怖いものを怖いと書くことは、逃げではないのかもしれない。


 自分の状態を知ることなのかもしれない。


 凛はさらに書き続けた。


『私は、働きたくないんじゃない。

ただ、壊れる働き方が怖い。

自分を消してまで普通にならないといけない場所が怖い。

ちゃんとできない自分を、毎日責め続ける未来が怖い。』


 そこまで書いて、凛はペンを止めた。


 胸が熱かった。


 そうだ。


 働きたくないわけではない。


 生きることを諦めたいわけでもない。


 ただ、壊れる未来が怖いのだ。


 普通に合わせ続けて、自分が消えていくことが怖いのだ。


 凛はスマートフォンを取り、真白へメッセージを送った。


『今日、七海ちゃんと話してて思ったんですけど』


『私、働きたくないんじゃなくて、壊れる働き方が怖いのかもしれない』


 送信。


 数秒後、既読。


『それ、かなり大事な気づきだと思う』


 真白からすぐ返ってくる。


 凛は画面を見つめた。


『大事?』


『うん』


『怖いものが少し具体的になったってことだから』


 怖いものが具体的になる。


 凛はその言葉を何度も読んだ。


 今まで、凛にとって未来は全部ひとまとめに怖かった。


 就活も怖い。


 社会も怖い。


 働くことも怖い。


 大人になることも怖い。


 でも今、その怖さの輪郭が少しだけ見えてきた。


 自分が怖いのは、“働くこと”そのものだけではない。


 自分を殺して適応し続けること。


 休めないこと。


 苦しさをわかってもらえないこと。


 “みんなできる”という言葉で追い詰められること。


 それが怖いのだ。


『凛ちゃん、働き方って一種類じゃないよ』


 真白から続けてメッセージが届いた。


『会社員でも場所によって全然違うし、短時間から始める人もいるし、在宅とか、創作と並行するとか、色々ある』


『もちろん簡単じゃないけど、“普通の形に自分を押し込む”だけが正解ではないと思う』


 凛はその文章をじっと見つめた。


 普通の形に自分を押し込む。


 それは、凛がずっとしてきたことだった。


 学校でも。


 家でも。


 友人関係でも。


 就活でも。


 自分の形を変えて、普通の枠へ入ろうとしてきた。


 でも、どれだけ押し込んでも、息が苦しくなるばかりだった。


『でも、普通じゃない働き方って怖いです』


 凛は正直に送る。


『失敗しそうだし』


『世間から外れる感じがする』


 既読。


『うん、怖いよね』


『でも、凛ちゃんが壊れない形を探すことは、世間から外れることじゃなくて、自分の命を守ることだと思う』


 その一文を読んだ瞬間、凛の胸の奥がじわりと熱くなった。


 自分の命を守ること。


 大げさなようで、でも凛には大げさではなかった。


 普通に合わせようとして、何度も消えたくなった。


 壊れそうになった。


 過呼吸を起こした。


 “もう無理かも”と思った。


 だから、働き方を考えることは、ただの進路選択ではない。


 凛にとっては、生き延び方を考えることだった。


 翌日。


 凛は大学のキャリアセンターへ向かった。


 自分から行こうと思ったわけではない。


 真白とのやり取りのあと、少しだけ“相談してみてもいいかもしれない”と思ったのだ。


 でも、いざ扉の前に立つと、胸が緊張で固くなる。


 キャリアセンター。


 就活。


 相談。


 その全部が、“ちゃんとしていない自分”を見せる場所に思えた。


 凛はドアの前で一度立ち止まり、深呼吸する。


 帰りたい。


 でも。


 今日は少しだけ、一人で抱えない練習をしたかった。


 凛はドアを開けた。


 中は明るく、資料棚が並んでいた。


 相談カウンターには、数人の学生が座っている。


 スタッフの女性が凛へ顔を向けた。


「こんにちは。相談ですか?」


 凛は少し緊張しながら頷いた。


「あの……就活の相談を」


「予約ありますか?」


「ないです」


「大丈夫ですよ。少しお待ちくださいね」


 その普通の対応に、凛は少し拍子抜けした。


 怒られない。


 責められない。


 まだ方向が決まっていないと言っても、今ここで否定されるわけではない。


 しばらく待ったあと、凛は相談席へ案内された。


 担当は四十代くらいの女性だった。


 落ち着いた声で、「今日はどうしましたか」と聞いてくれる。


 凛は緊張で手を握りしめた。


 何から話せばいいかわからない。


 でも、真白へ送った言葉を思い出す。


 壊れる働き方が怖い。


 凛はゆっくり口を開いた。


「就活をしなきゃいけないのはわかってるんですけど……働くことがすごく怖くて」


 担当の女性は、急かさず頷いた。


「どんなところが怖いですか?」


 凛は少し驚いた。


 “みんな不安ですよ”ではなく、“どんなところが怖いですか”と聞かれた。


 それだけで少し話しやすくなった。


「人間関係とか」


「毎日同じ場所へ行くこととか」


「体調が悪くても休みにくいんじゃないかとか」


「空気を読んで、ずっとちゃんとしなきゃいけない感じが……怖いです」


 言葉にするたび、胸が少し震えた。


 でも、担当の女性は否定しなかった。


「なるほど。かなり環境への負担を感じやすいタイプなのかもしれませんね」


 凛は目を瞬かせる。


 負担を感じやすいタイプ。


 弱い、と言われなかった。


 甘え、と言われなかった。


 ただ、そういう傾向として受け止められた。


「働き方には色々あります。最初から大きな負荷をかけるのではなく、環境をよく見ることも大切ですよ」


 担当の女性は資料を見せながら、いくつかの選択肢を話してくれた。


 少人数の職場。


 リモートワークのある企業。


 事務系の仕事。


 創作や文章に関わる仕事。


 アルバイトや契約社員から様子を見る道。


 もちろん、どれも簡単ではない。


 不安は残る。


 でも凛は初めて、“新卒で普通の会社員として完璧に働く”以外の言葉を、現実の場所で聞いた。


 相談が終わる頃、凛の胸は完全に軽くなったわけではなかった。


 でも、未来が真っ黒一色ではなくなっていた。


 薄い灰色の中に、少しだけ道の輪郭が見えたような気がした。


 キャリアセンターを出たあと、凛は中庭のベンチへ座った。


 冷たい風が頬に当たる。


 でも、呼吸は少し深かった。


 凛はスマートフォンを開き、真白へ送った。


『キャリアセンター行ってきました』


 既読。


『おお。えらい』


 凛は少し笑う。


『怖かったけど、怒られなかった』


『それは怒られないよ』


『でも私の中では怒られる場所みたいな感じだった』


『わかる。ちゃんとしてない自分を見せる場所って怖いよね』


 凛はその返事を見て、小さく頷いた。


 本当にそうだった。


 でも今日、凛はその怖い場所へ一人で行った。


 そして、少しだけ相談できた。


 完璧な答えは出ていない。


 でも、自分の怖さを言葉にできた。


 それは凛にとって、大きな一歩だった。


『私、働き方を探してもいいのかな』


 凛は送った。


『普通に合わせるだけじゃなくて』


 真白からすぐ返事が来る。


『もちろん』


『凛ちゃんが壊れずに生きていける形を探すのは、すごく大事なことだと思う』


 凛はスマートフォンを胸へ抱えた。


 壊れずに生きていける形。


 それを探していい。


 その許可を、本当はずっと誰かに言ってほしかったのかもしれない。


 凛は空を見上げた。


 冬の空は薄く、遠くまで澄んでいた。


 まだ怖い。


 未来は見えない。


 就活も社会も、相変わらず不安だらけだ。


 でも今日、凛は少しだけ思えた。


 “普通に働く”だけが人生の正解ではないのかもしれない。


 “自分が壊れない働き方”を探すことは、逃げではないのかもしれない。


 それはきっと。


 自分を諦めずに生きるための、ひとつの方法なのだと。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が「働くことが怖い」という感情を、初めて具体的に見つめるページでした。

怖いのは、働くことそのものではなく、“壊れる働き方”かもしれない。

その気づきは、凛にとって大きな一歩です。


普通の会社員。

新卒で就職。

週五日働く生活。


それだけが正解だと思い込んでいた凛は、自分に合う働き方を探してもいいのだと、少しずつ知り始めます。


まだ答えは出ていません。

でも、怖さに名前をつけたことで、未来は真っ黒ではなくなりました。


次のページでは、凛が「書くこと」と「働くこと」を結びつけ始め、自分の言葉が誰かへ届く可能性にもう一度向き合っていきます。

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