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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第97ページ  一人で頑張らない練習


母へ「苦しかった」と伝えられた凛は、少しだけ過去の自分を抱きしめられるようになった。

けれど、言えたからといって、すべてが一瞬で楽になるわけではない。

むしろ本音を出せるようになったからこそ、凛はこれまで自分がどれほど一人で耐えてきたのかを痛感していく。


今回は、凛が“誰かへ頼ること”の怖さと向き合いながら、初めて「一人で頑張らない」という選択を小さく選び始めるページです。



 母との電話を切ったあと、凛はしばらく部屋の真ん中で動けずにいた。


 スマートフォンを握ったまま、ただ静かなワンルームの空気を見つめていた。


 窓の外はもう暗い。


 冬の夜は早く、街の灯りだけがカーテンの隙間からぼんやり差し込んでいる。


 電話の向こうで聞いた母の声が、まだ耳の奥に残っていた。


 ――普通にしていれば、傷つかないと思ってたの。


 その言葉を思い出すたび、凛の胸は複雑に揺れた。


 許せたわけではない。


 傷が消えたわけでもない。


 幼い頃から浴びてきた「普通にしなさい」という言葉は、今でも凛の身体の奥に深く残っている。


 誰かの前で少しでも失敗すると、今でもすぐに声が聞こえる。


 ちゃんとして。

 迷惑かけないで。

 みんなと同じようにして。

 どうして普通にできないの。


 その声は、母だけのものではなくなっていた。


 いつの間にか凛自身の声になって、自分を追い詰め続けていた。


 でも今日、母は初めて言った。


 苦しかったよね、と。


 たった一言。


 でも凛にとっては、何年も閉じ込めていた扉が少しだけ開くような言葉だった。


 凛はベッドへ腰を下ろし、深く息を吐いた。


「……言えた」


 小さく呟く。


 母へ、苦しかったと言えた。


 普通になろうとして、ずっと苦しかったと伝えられた。


 それはきっと、とても大きなことだった。


 けれど同時に、胸の奥には別の疲れが広がっていた。


 本音を言うことは、思っていた以上に体力を使う。


 ずっと閉じ込めてきた言葉を外へ出すと、そのあとに空洞みたいな寂しさが残る。


 凛は布団の上へ横になり、天井を見つめた。


 涙はもう止まっている。


 でも、心はまだ少し震えていた。


 母と話せたことは嬉しい。


 少し救われた。


 でも、その分だけ、今までの自分がどれほど一人で耐えていたのかが見えてしまった。


 小学生の頃の自分。

 中学生の頃の自分。

 高校生の頃の自分。


 何度も「苦しい」と言いたかったのに、言えなかった自分。


 母に迷惑をかけないように、先生に心配されないように、友達に嫌われないように、いつも大丈夫なふりをしていた自分。


 その小さな凛たちが、胸の奥で静かに泣いているような気がした。


 スマートフォンが震える。


 真白からだった。


『今日はちゃんと休めそう?』


 その短いメッセージを見た瞬間、凛の胸が少し緩む。


 いつもなら、反射的に「大丈夫です」と返していたと思う。


 でも今夜は、その言葉が出てこなかった。


 凛はしばらく画面を見つめたあと、ゆっくり文字を打った。


『ちょっと疲れた』


 送信。


 たったそれだけなのに、指先が少し震えた。


 疲れた、と言うこと。


 それすら凛にとっては、まだ勇気がいる。


 数秒後、既読がつく。


『うん。今日はかなり大きいことしたと思う』


 その返事に、凛は静かに目を閉じた。


 大きいこと。


 母へ本音を言うことが、大きいことだと誰かがわかってくれる。


 それだけで、少し呼吸がしやすくなった。


『なんか、言えたのに、すごく疲れた』


 凛は続けて送る。


『言えたら楽になると思ってたけど、楽だけじゃなかった』


 真白からすぐ返事が来る。


『ずっと我慢してきたことを言葉にするのって、体力使うよ』


『楽になった部分と、傷を見た痛みが同時に来る感じ』


 凛はその文章を何度も読んだ。


 傷を見た痛み。


 確かにそうだった。


 凛は今日、自分の傷を少し見たのだ。


 母に言えなかった言葉。


 飲み込んできた寂しさ。


 普通になれなかった自分を責め続けた時間。


 それを見たから、疲れている。


『今日はもう何もしなくていいと思う』


 真白から続けて届く。


『あったかいもの飲んで、寝れそうなら寝て。寝れなかったら、寝れないって言っていいよ』


 凛はその文章を見て、少しだけ笑った。


 寝れなかったら、寝れないって言っていい。


 そんなふうに言われると、少しだけ肩の力が抜ける。


 昔の凛なら、眠れない夜も一人で耐えていた。


 明日もあるのに眠れない自分を責めて、余計に眠れなくなっていた。


 でも今は、眠れないときに「眠れない」と言ってもいい相手がいる。


 それがどれほど大きなことか、凛は少しずつ知り始めていた。


 翌朝、凛はいつもより早く目を覚ました。


 眠りは浅かった。


 夢を見た気がする。


 小さな頃の自分が、家のリビングで母の帰りを待っている夢。


 テレビの音だけが流れていて、部屋の中は薄暗い。


 凛はソファの端に座って、膝を抱えている。


 母が帰ってきたら、今日学校で嫌だったことを話そうと思っている。


 でもドアが開いて、疲れ切った母の顔を見た瞬間、凛は何も言えなくなる。


 大丈夫。


 そう言って笑う。


 夢の中の凛は、子どもなのに、とても大人みたいな顔をしていた。


 目が覚めても、その感覚が残っていた。


 凛は布団の中で、少しだけ胸を押さえた。


「……あの子、ずっと一人だった」


 夢の中の小さな自分へ、そう思った。


 あの子は、母を困らせたくなかった。


 だから我慢した。


 でも本当は、誰かに聞いてほしかった。


 大丈夫じゃないよね、と。


 寂しかったよね、と。


 凛はゆっくり起き上がる。


 今日は大学がある。


 ゼミでは、就活の進捗についてまた話す予定だった。


 行きたくない。


 その気持ちが最初に浮かぶ。


 でも、休むほど体調が悪いわけでもない。


 行かなければ、また遅れる。


 みんなは前へ進んでいく。


 自分だけ止まる。


 その不安がすぐに胸を締めつけた。


 凛は洗面所へ向かい、顔を洗った。


 鏡に映る自分は、少し疲れて見えた。


「……無理しない」


 小さく呟く。


 それは、自分へ言い聞かせるような言葉だった。


 無理しない。


 でも、どこからが無理なのか、凛にはまだよくわからない。


 今までずっと、限界を超えてからようやく苦しいと気づいていた。


 だから“無理しない”の基準を、凛はまだ持っていなかった。


 大学へ向かう電車の中、凛はいつもより人の声が大きく感じた。


 笑い声。


 足音。


 車内アナウンス。


 全部が頭へ入ってくる。


 凛はイヤホンをつけ、音楽を流した。


 それだけで少しだけ世界が遠くなる。


 昔なら、イヤホンをつけることすら罪悪感があった。


 周囲をちゃんと感じ取っていないといけない気がしていたから。


 でも最近は少し違う。


 自分を守るために、音を減らしてもいい。


 疲れやすい自分を、責めるだけではなく、少し手当てしてもいい。


 そう思える瞬間が増えていた。


 大学へ着くと、キャンパスは相変わらず騒がしかった。


 就活の話をする学生。


 レポートに追われる人。


 笑いながら歩くグループ。


 その光景を見て、凛の胸にまた少しざわめきが生まれる。


 みんな進んでいる。


 自分だけ遅れている。


 その感覚はすぐ戻ってくる。


 でも今日は、凛はその感覚に名前をつけようとした。


 これは焦り。

 これは不安。

 これは置いていかれる怖さ。


 自分が駄目だからではなく、怖いから苦しい。


 そう言い換えるだけで、ほんの少しだけ胸が軽くなる。


 講義が終わったあと、七海が凛の席へやって来た。


「今日、顔ちょっと眠そう」


「昨日あんまり寝れなかった」


「また考え込み?」


「……母と電話した」


 七海の表情が少し真面目になる。


「大丈夫だった?」


 その問いに、凛はすぐ「大丈夫」と言いかけて、止まった。


 本当は、大丈夫だけではない。


 言えたこともある。


 疲れたこともある。


 少し救われたこともある。


 全部が混ざっている。


「……大丈夫、だけど、疲れた」


 凛がそう言うと、七海は少し笑った。


「それ、かなり正直な答えだね」


 凛も少しだけ笑った。


「最近、練習中」


「何の?」


「大丈夫以外の言葉を言う練習」


 七海は一瞬きょとんとして、それからふっと柔らかく笑った。


「いいじゃん」


 その言葉が、凛には少し嬉しかった。


 大丈夫以外の言葉を言う。


 それは凛にとって、本当に練習だった。


 疲れた。

 怖い。

 寂しい。

 一人でいたい。

 会いたい。


 今まで飲み込んできた言葉を、少しずつ外へ出す練習。


 七海は隣の椅子へ座った。


「今日さ、午後のキャリア講座出る?」


 凛の胸が少し強張る。


「迷ってる」


「私も」


 七海は机へ頬杖をついた。


「最近、就活の話聞くだけで胃が痛い」


 明るい声だったけれど、その目は少し疲れていた。


 凛は七海を見つめる。


 以前なら、七海は“ちゃんと前へ進んでいる人”に見えていた。


 でも今は違う。


 七海も苦しい。


 明るく振る舞っていても、ちゃんと疲れている。


 それが少し見えるようになった。


「……無理してる?」


 凛が聞くと、七海は少しだけ苦笑した。


「してる」


「だよね」


「でもさ、休むの怖いんだよね。みんな進んでるし」


 その言葉に、凛は静かに頷いた。


 同じだった。


 凛も、止まるのが怖い。


 休むことが怖い。


 社会へ出る前から遅れている気がして、焦る。


「私も怖い」


 凛は言った。


「でも昨日、真白さんに、今日は何もしなくていいって言われて」


「うん」


「何もしないって、すごく怖いなって思った」


 七海は少し黙った。


 それから、ぽつりと言う。


「わかる」


「何もしてない時間って、自分の価値が減る気がする」


 その言葉に、凛の胸がじわりと痛む。


 本当にそうだった。


 何かしていないと、自分には価値がない気がする。


 頑張っていないと、愛されない気がする。


 ちゃんとしていないと、置いていかれる気がする。


 凛は小さく息を吐いた。


「……私、ずっとそうだった」


「うん」


「ちゃんとしてないと、愛されないと思ってた」


 七海は何も言わずに聞いている。


 凛は少しだけ続けた。


「でも最近、ちゃんとしてない自分を見せても、終わらないことが少しずつ増えてきた」


 真白に。

 灯に。

 七海に。

 母に少しだけ。


 苦しい自分を見せても、すぐ全部壊れたわけではなかった。


 その経験が、凛を少しずつ変え始めている。


「じゃあさ」


 七海が言った。


「今日のキャリア講座、二人でサボる?」


 凛は目を瞬かせた。


「え」


「いや、完全にサボりっていうか、自主休講」


「それサボりじゃない?」


「言い方の問題」


 七海は少し笑った。


「無理して出て、二人で死んだ顔して帰るより、今日はお茶でも飲んで帰った方がよくない?」


 凛は一瞬迷った。


 講座を休む。


 それは怖い。


 また遅れる気がする。


 でも、今日の自分の状態を考えると、キャリア講座の空気を浴びるだけでかなり消耗する気がした。


 凛は自分の胸へ意識を向ける。


 重い。


 少し疲れている。


 母との電話の余韻もまだある。


 今日は、これ以上“ちゃんとする場所”へ行かない方がいいかもしれない。


 そう思った。


「……お茶、行きたい」


 凛が小さく言うと、七海は嬉しそうに笑った。


「決まり」


 その瞬間、凛の胸に罪悪感が少し浮かぶ。


 でも同時に、安心もあった。


 一人で頑張らない選択。


 一人で講座へ行って、自分を追い詰める代わりに、七海とお茶を飲む。


 それは小さなことかもしれない。


 でも凛にとっては、大きな選択だった。


 大学近くの小さな喫茶店へ入ると、店内は静かだった。


 七海はホットミルクティーを頼み、凛はカフェオレを頼んだ。


 窓際の席へ座る。


 外では学生たちが歩いている。


 その中には、キャリア講座へ向かう人もいるのかもしれない。


 凛は少しだけ胸が痛む。


 でも、七海が言った。


「罪悪感ある?」


 凛は苦笑した。


「ある」


「私も」


 二人で小さく笑う。


 その笑いは、少しだけ救いだった。


 七海はカップを両手で包みながら言った。


「でもさ、今日休んだからって人生終わるわけじゃないよね」


「多分」


「多分って」


「まだ信じきれてない」


「正直でよろしい」


 凛は少し笑った。


 その時間は不思議だった。


 講座へ行かずに喫茶店でお茶を飲んでいる。


 以前の凛なら、自分を責め続けていたと思う。


 でも今は、七海が隣にいる。


 二人で少しだけ罪悪感を分け合っている。


 それだけで、凛は思った。


 一人で休むのは怖い。


 でも誰かと一緒に休むと、少しだけ怖さが薄くなる。


「……一人で頑張らないって、こういうことなのかな」


 凛がぽつりと言う。


 七海はカップから顔を上げた。


「何が?」


「怖いことを一人で抱えないとか」


「うん」


「休む罪悪感を、誰かと半分にするとか」


 七海は少し目を細める。


「凛ちゃん、時々めっちゃ詩人みたいなこと言うよね」


「え」


「でも、わかる」


 七海は窓の外を見ながら言った。


「一人だと、自分が駄目な気がするけど、二人で休むと“まあいっか”って思える」


 凛は小さく頷いた。


 多分、それが今日の凛に必要なことだった。


 一人で耐えない。


 一人で責めない。


 一人で“ちゃんとしなきゃ”を背負わない。


 誰かと少し分け合う。


 その練習。


 凛はカフェオレを一口飲んだ。


 温かい。


 胸の奥が少し緩む。


 スマートフォンが震えた。


 真白だった。


『今日どう?』


 凛は少し迷ってから、返信した。


『キャリア講座、七海ちゃんと休んでお茶してます』


 送ったあと、少しだけ緊張した。


 真白に怒られるわけがないとわかっている。


 でも、どこかでまだ“ちゃんとしてない”と言われる怖さがある。


 既読。


 すぐ返事が来る。


『いいじゃん』


『それもちゃんと自分を守る選択だと思う』


 その言葉を見た瞬間、凛の胸がじわりと温かくなった。


 自分を守る選択。


 サボりではなく。


 逃げではなく。


 壊れないための選択。


 そう言われるだけで、今日の自分を少しだけ許せる気がした。


 凛はスマートフォンを伏せ、七海へ言った。


「真白さん、いいじゃんって」


 七海はにやっと笑った。


「真白さん、優しいね」


「うん」


 凛は素直に頷いた。


 以前なら、そう言うだけでも恥ずかしかった。


 でも今は、少しだけ言える。


 真白は優しい。


 大事な人。


 安心できる場所。


 それを認めることはまだ怖いけれど、もう否定したくはなかった。


 喫茶店の窓の外で、冬の光が少しずつ傾いていく。


 凛はカップを両手で包みながら、静かに思った。


 今日は、ほんの少しだけ一人で頑張らなかった。


 講座を休んだ。


 七海とお茶を飲んだ。


 真白へそれを伝えた。


 それだけのこと。


 でも凛にとっては、“ちゃんとしていないと愛されない”という長い呪いへ、小さく逆らった一日だった。


 まだ怖い。


 まだ罪悪感もある。


 でも。


 一人で頑張らない練習は、きっとこういう小さな選択から始まるのだと思った。


 凛は窓の外の灰色の空を見つめながら、胸の奥で小さく呟いた。


 今日は、壊れない方を選べた。


 それだけで、少しだけ生きやすかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が“ちゃんとすること”ではなく、“自分を守ること”を小さく選ぶページでした。

母へ本音を伝えたあと、凛は大きな疲れを感じます。けれどその疲れを「弱さ」ではなく、「ずっと我慢してきた傷を見た痛み」として受け止め始めます。


七海と一緒にキャリア講座を休み、お茶を飲む。

たったそれだけのことでも、凛にとっては大きな一歩でした。


一人で頑張らない。

罪悪感も、不安も、誰かと少し分け合っていい。

その練習を、凛は少しずつ始めています。


次のページでは、この“小さな休み”をきっかけに、凛が自分の中にある「働き方」や「生き方」への固定観念と向き合い始めます。

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